現代医療とツケ
2023/05/10 18:15:00 |
よくないと思うこと |
コメント:2件
やっと、やっと、やっとのことで5類への移行が実現し、コロナ禍はこれで一区切りの雰囲気が漂ってきています。
実は私自身は約1年前にすでにコロナ禍の総括を行っていたのですが、その際に私はコロナ禍はダラダラと延々と続いてしまうと予測していました。
なぜならばPCR検査という無症状者に対しても「あなたはコロナです」と診断されるツールが完全に普及し切ってしまったので、これからも延々とコロナ患者は季節の流れで波が形成されていくと考えられたからです。しかし結果的にその予想は外れてしまいました。
私が予想外だったのは、依然としてコロナ患者の波は形成されているし、死亡者も波に応じて今まで通り出ているし、ましてやコロナワクチンが導入されて2021年以降かつてないほどの超過死亡の増加が繰り広げられ続けているにも関わらず、
政府からの3月13日の「マスクは個人の判断」宣言、4月29日の「水際対策の完全撤廃宣言」、5月8日の「コロナ5類移行」宣言を経て、人々の方がここまでコロナ禍を気にしなくなるんだということでした。
政府の宣言をマスコミが流布することも手伝ってなのでしょう。ここ数ヶ月驚くほどスムーズに空気が緩和されていった感覚がありました。
人の恐怖感情はどれだけ煽られたとしてもどこかで糸が切れてしまうものなのかもしれません。中世のペスト流行や1920年代のスペイン風邪もこんな感じで終息していったのでしょうか。
ただペストやスペイン風邪の流行期間は2年くらいだったと言われていますので、3年だった今回は長引いた方だったのかもしれません(日本以外の世界各国は2年でしたが)。
ただ個人的には「3年間よく頑張った、めでたしめでたし」では到底終わらせられない出来事だったと感じています。 今までにも存在していた現代医療の悪い部分がこれ以上ないほどに顕在化したのが、コロナ禍だったと私は捉えています。
このまま何の反省もなく、漫然と日々を過ごしていれば、また同じ騒動に巻き込まれ、そこに違和感を感じることもなく政府や専門家に言われるがままの行動を取らされてしまいかねません。
あるいは振り返って何らかの教訓を得たとしても、人の記憶は時間と共に薄れていくものです。せっかくの教訓はまた同様の出来事が起こった時に役に立たなくなっているかもしれません。
そこで今回は、コロナ禍で顕在化したと私が感じた現代医療の問題について書き記しておこうと思います。
①病原体病因論への偏重
②対症療法への偏重(根治療法から遠ざける)
③病名診断による固定観念の植えつけ
④新薬の先鋭化に伴う身体の不安定化
⑤効かない薬が効くと演出されてしまう医学論文市場
⑥保険診療費の無制限浪費
⑦応召義務の形骸化
⑧患者安否よりも自己保身
⑨生命(健康)絶対主義
⑩主体性の剥奪
他にもあるかもしれませんが、ひとまずこうまとめておきます。順に補足説明します。
①は当ブログでさんざん書いていることですが、西洋医学は全ての病気には明確な原因が存在するという立場です。
その論理が一番成立しやすいのが感染症という病気で、コロナにおいても「コロナウイルス」という病原体が原因であるという考えが確信的に受け入れられ、
その病原体をいかに排除すべきかという発想にあまりにも偏る形で社会で感染対策が語られ続けてしまいました。
実際には病因は宿主にも存在しますし、病原体と呼べるようなものがあったとしても、それと宿主がどのように関わるかによって感染症という現象が生み出されるわけで、病原体だけで感染症は生み出されはしません。
たとえるならば、マッチを石にこすって火をつける場面で、石が病原体、マッチが宿主、マッチに火がついた状態を感染症だとリンクさせた場合に、
石だけが感染症の原因で、石を世の中からどうやって排除すべきかという文脈だけで感染対策が語られ続けたのがコロナ禍において顕在化した現代医療の偏った視点です。
この偏った視点はコロナだけで問題になっているわけではありません。細菌感染症に対してどうやって細菌を殺すかという視点に偏り、腸内細菌と密接につながる宿主への悪影響は半ば無視される状況をも生み出していますし、
がん医療においてがん細胞こそが諸悪の根源だとする発想にもつながっています。この発想のせいで現代医療が提案するがんへの治療方針は突き詰めれば全て「どうやってがんを殲滅するか」という発想に極めて強く偏っています。
それというのも対象を「病原体」だと強く認識しているからで、その「病原体」を脅威だと認識すればするほど、強力な治療が施されることになり、同時にその治療は宿主(人体)自身を苦しめる構造になってしまいます。
がんに対する免疫チェックポイント阻害剤や、悪性リンパ腫などへのCAR-T療法などの副作用に高率でサイトカインストームが起こるという事実はその構造を如実に反映していると思いますが、現代医療ではこれはやむをえない副作用だと解釈されてしまいます。
当然、コロナに対する迅速承認された抗ウイルス薬(レムデシビルやモルヌピラビルなど)にも同様の構造があります。
ただこのように「病原体」の存在がクリアになっている西洋医学の中での病気はむしろ少数派で、
大抵の病気、高血圧、糖尿病、アトピー性皮膚炎、気管支喘息、変形性関節症、緑内障、白内障、関節リウマチ、アルツハイマー型認知症、パーキンソン病、筋萎縮性側索硬化症(ALS)などは、
一見原因があるように見えても複雑で多因子遺伝、生活習慣、ストレスなど様々な要因が重なることが病因だという理解のされ方をします。
つまり複雑な「病原体」とでもいう解釈です。なので多くの場合一つ一つの原因を丁寧に潰していくことができないため、とりあえず今ある症状や今ある不都合だと認識されている現象やデータを抑える治療が延々と繰り広げられることになります。これが②の対症療法への偏重です。
本当は「宿主」に注目して、エピジェネティクス(後天的遺伝子制御変化)や食生活調整、ストレスマネジメントなどできることがたくさんあるにも関わらず、です。
病気(症状)というものが「宿主」の乱れの表現型だと捉え、治療は「宿主」の乱れの調整だと捉えれば、それらの行動こそが根本治療になるわけですが、
どこかに「病原体」があると考える発想からの治療は、延々と「宿主」自体のアプローチから遠ざけさせる構造となっています。なので①と②はセットになっていると言えると思います。
そして「病気には原因(病原体)がある」という発想を確信的に信じさせているのが、決められたお作法によって決定づけられる③の「病名」です。
「病名」があるからこそ、「病気には原因がある」と思えるし、それぞれの「病気」への「専門家」や「研究者」が生み出され、次第に聖域化し、標準的な治療ガイドラインが策定され、
お作法に基づいて治療を受けるしかない、「先生にお任せするしかない」という「宿主」から意識を背けさせるアクションへとつながっていると思います。
その「病名」文化は④の「新薬」にもつながり、それぞれの「病名」に対する新薬が今もなお研究・開発され続けています。
そして「新薬」開発の分野はどんどん細分化し、最近出てくる新薬はかなりの割合で分子標的治療薬や抗体医薬などと呼ばれるものが増えています。これらの「新薬」は人体で重要な役割を果たす小さな分子の1つの働きを阻害したり、促進したりする働きを持っています。
先ほどの免疫チェックポイント阻害剤もそうですし、近年登場してきたアルツハイマー型認知症に対する抗アミロイドベータの薬「アデュカヌマブ」もそうです。
「アデュカヌマブ」はアルツハイマー型認知症で蓄積する異常タンパク質のアミロイドベータを除去できる根本治療に近い抗体医薬として鳴物入りで登場しましたが、実際には期待と異なり認知症の症状の改善効果は乏しく、
なおかつ沈着したアミロイドベータを除去したことで除去した部位の脳組織が脆くなり、「ARIA(Amyloid-related imaging abnormalities:アミロイド関連画像異常)」と呼ばれる出血や浮腫の副作用をきたすことがわかったため、急遽承認が中止になった経緯がありました。
この薬の大失敗を受けてアミロイドベータは認知症の原因ではなく結果であり、アミロイドベータ自体に脳保護的な作用があるという見立ても出て、そんなアミロイドベータをむやみに除去する薬が承認されなくてよかったなと安心したのも束の間、
なんとアデュカヌマブと同系統の抗アミロイドベータ除去薬が次々と登場してきている状況で、しかもアデュカヌマブよりも成績が良いというような医学論文も出てきていることです。
怖いのは、原理的にアデュカヌマブと同様に「ARIA」が出現し、むしろ脳組織破壊的に働く危険性が高いはずの薬がなぜか有効だと医学論文上は評価されてしまっていることです。
そこで問題の⑤につながりますが、コロナワクチンで顕著だったように、明らかに有害な薬であっても、表現方法如何によってまるで非常に有効であるかのように表現することが医学論文ではできてしまうということ、
そして現代医療の担い手はそうした医学論文の情報に何より大きな価値を感じてしまっている構造があるということです。
さらに恐ろしいのはこうした分子標的治療薬や抗体医薬などの新薬は軒並み高額化してきているということです。
つまり高いけれど効かないし危ない薬が、なぜか医学論文上は効くという結果にが出てしまうために、何も知らない人達はまず専門家に丸め込まれてしまうということ、
ましてや認知症のような元々悪くなって当然のような病気であれば、新薬が使われて仮に重篤な副作用が発生したとしても、コロナワクチンのように「因果関係は不明」と扱われ、泣き寝入りするしかない(というか泣き寝入りになっていることにさえ気づかされない)状態が常態化してしまう可能性が高いです。
今までコロナワクチンの接種を勧めて、コロナワクチン接種後間もなく有害事象が起こったからと言って、それに責任を感じて謝ったり対処行動をとってくれたお医者さんがいたでしょうか。いや残念ながら私の知る限りはいなかったでしょう。ならば抗アミロイドベータ薬でも同じことが起こる可能性が高いと考えるのが妥当だと私は思います。
ただ同じ分子標的治療薬と言っても、例えば関節リウマチの痛みに対するトシリスマブという抗IL-6薬は、何名かこの薬を使った患者さんの経過を追いかけましたが、
明らかに痛みの改善に効果をもたらし、患者さんの生活の質の改善に寄与しているものもあります。
ただ、過去記事でも考察しましたように、強力に効く反面、強力に反動も起こりうる薬ですし、抗IL-6薬は一旦使い始めたらずっと使い続けることが前提の薬となっています。
ということはこの分子標的治療薬も根本治療から遠ざけられているということを意味しているとも言えます。
そして分子標的治療薬や抗体医薬の薬価の高さは異常で、免疫チェックポイント阻害剤のオプジーボが2014年登場時には1人あたり年間3500万円かかるということで当時驚いたことを覚えていますが、
現在はその4分の1程度まで薬価は下がっているとのことです。それでも高いですが、日本では高額療養費制度という仕組みによって、非常に高い薬が使われた場合は収入に応じた限度額(高くても月10万程度)までしか払わなくて済みます。
アデュカヌマブは日本では承認されなかったものの、アメリカでは承認されていて年間610万円の薬価がかかっているそうです。
トシリスマブは1ヶ月分で約10万円程度で、前2者に比べると安価に見えるかもしれませんが、それでも高い薬であることには変わりありませんが、保険が効きますので現役世代はその3割負担、高齢者世代は1〜2割の負担で済みます。
裏を返せば、現役世代が払わなかった7割、高齢者世代が払わなった8〜9割の医療費はみんなで集めた保険料の中から支払われます。保険料が足りなくなれば増税や保険料の給料からの天引き額の増額へとつながり、国民の生活を苦しめます。
これが⑥の問題です。私たちが保険診療を使う時、あまりお金に意識はいかないのではないでしょうか。
お医者さんが必要だというから言われるがままに治療を受ける、どれだけ高くても10万は超えない(しかも収入額に応じて負担額が減額される)から大抵の人はなんとか払える。けれど薬が切れるとまた悪くなるから、延々と同じ治療を受け続ける。
お金に意識がいかないのはお医者さんも同じです。自分が医者だからそのことはよくわかります。
「日本は国民皆保険の仕組みで患者負担は軽減されるので、お金の問題はあまり心配せずに患者にとって必要だと考える医療を躊躇なく選択しなさい」と、そのように医師としては先輩から教わった記憶があります。
しかし「その患者にとって必要だと考える医療」という概念が③によって成り立っているものですし、
その概念に従ってアイデアを出せば、近年の高額新薬の続出に伴って、必然的に高額医療が選択されてしまう構造になってしまいます。
どう考えても医療費は高騰せざるを得ない流れになってしまっています。しかも国民や医療者の頭にそれが問題として認識されにくい状況の中で、です。
さらに⑦です。コロナで顕在化したのは、多くの医療者が「発熱だったらコロナの可能性があるのでウチでは診れません」などと臆面もなく言えてしまったという事実です。
これは警察が「万引きだったら逆恨みで殺される可能性があるのでウチでは逮捕できません」とか、消防が「火事だったら焼死の危険性があるのでウチでは消火活動できません」と言っているのと同じくらいおかしな発言です。
どうしてこんな現代医療になってしまったのでしょうか。
一つには医者が権力を持ちすぎてしまったことが絡んでいると私は思います。
特にコロナ禍では感染症の専門家の権力が絶大で政府の中枢にまで入り込んで、国政にまで絶大な影響力をもたらす存在にまで至りました。
元々医師は過剰に奉られているところがあり、その構造が極限まで高められた状況だと言えますが、
それは裏を返せば「絶対に失敗が許されない立場」でもあります。だからこそ専門家も叡智を集めて判断を試みたと思いますが、残念ながらその判断基準が①という偏りを土台にした③の概念でした。
つまり「病原体」を排除することに最大限の努力を行うように国民へ指示したわけです。
「病原体病因論」の立場であれば、それ以外に最善の策はないでしょう。しかし実際には「宿主」の要素もあったにも関わらず、「病原体」こそが悪と考える専門家は「病原体」の排除に全振りしてしまったのです。
それは国民の健康を守るためという意識よりも、自己保身のためという意識だったと思わざるを得ません。
そうでなければ、いくらワクチン副作用が報告されても、どれだけマスクをはじめとした感染対策の弊害が指摘されていても、3年も見直そうとしなかったことは説明できないでしょう。
専門家はただ責められたくなかっただけなのです。
ただ、それは医師の立場からすると理解できなくもありません。医師は医療訴訟を恐れています。
医師は簡単に謝ってはダメだということもまことしやかに言われます。なぜならば医療訴訟を受ければ医師人生は破滅してしまうからです。
そして訴訟前に高い地位にあればあるほど、その地位を手放したくないという意識も働くでしょうから、
高い地位にいる医師ほど素直に「ごめんなさい」とは言えません。残念ながらそういう構造になってしまっています。
だからこれからも高い地位にいる医師達は「コロナ禍で自分達が主導した方針は間違っていたかもしれない」と思う日は来ないはずです。
そしてそんな医師の立場がそれほどまでに高くなってしまう背景には、「医療が命を救う尊い仕事だ」という常識があらゆる人々の中に深く根付いているからだとも言えます。⑨の側面です。
それは確かにそうなのかもしれません。確かに若い40代男性の心筋梗塞をカテーテル治療で救命することは尊いかもしれません。
ただ人はいつか必ず死にます。命絶対主義とも言える美しいその概念は、その誰もが否定できない絶対的な事実から目を背けさせるものだとも言えるのではないでしょうか。
「命は尊い」「病気から守ってくれるお医者さんは有難い」「お医者さんになるためには不断の努力が必要だ」「だからお医者さんに任せるのが一番良い結果をもたらすはずだ」……、そんな概念に世の中は支配されています。
結果、現代医療は⑩へとつながります。主体性を奪ってしまうのです。
今回のコロナ禍が「みんなよく頑張った、めでたしめでたし」で終えるのであれば、
いつかまた、いや今もなお、こうした現代医療の構造に間違いなく巻き込まれ続けることになってしまうでしょう。
たとえばある日、新型エボラウイルスが発生してパンデミックを起こした、なんて言われようものなら、はたして世界の中でどれだけの人がそれによって生み出される流れに抵抗できるでしょうか。
「歴史は繰り返す」と言いますが、同じ愚考を繰り返さないためにはちょっとやそっとのテコ入れではもはや対抗できないところまで盤石な仕組みが出来上がってしまっています。正直言って途方に暮れます。
そのように現代医療がもたらす構造に巻き込まれた末に私達に待っているのは何か、それは「不本意な最期」です。
飲み屋で「ツケ」というのがありますね。その日たまたまお金がないからお店に「ツケ」をして、後日お金が入ったらお店に返すというアレです。
現代医療の構造というのはまさにこの「ツケ」の連続なのです。
どこかに必ずあるはずの「病気の原因(病原体)」を潰そうと努力はしてみたものの、見つからないので(あるいは見つかったように見えて実は見つかっていないので)、仕方がないからまるで「ツケ」のようにその場を濁し続けます。
「ツケ」を使い続けていたらどうなりますか?お店の人も怒りますよね。出禁にもなるでしょう。借金取りにも追われるかもしれません。逮捕されて自由も奪われてしまいます。
その場しのぎの対症療法を続ける行為はこれと同じ構造を持っていると私は思います。その場をしのいでいる間に本質的な問題が解決するように動かないと、いずれ取り返しのつかない事態へと発展してしまうわけです。
そんな構造があるとはいざ知らず、現代医療という「ツケ」に頼り続けている人のために私達はこれからも多大なお金を払い続けていかなければならないのでしょうか。
そしてそのお金を払い続けている行為も、当の「ツケ」に頼り続けている人のためにはならず、彼らは軒並み不本意な最期を迎えます。
具体的には自分で判断する能力が失われ、誰かに任せるしかない状況に置かれ、胃瘻や中心静脈栄養、場合によっては人工呼吸器などの延命措置が命尽きるまで続けられてしまう人生です。
そんな現代医療の構造に巻き込まれないようにするためにはどうすればいいですか。
現代医療からなるべく離れることです。現代医療の価値観を見直すことです。現代医療を使うべき場面と使うべきでない場面について事前に考えておくことです。現代医療の奴隷である専門家に決してお任せしないことです。
現代医療に頼らなくて済むように自分にとってできることを精一杯考えて行動することではないでしょうか。
その道筋を作っていく必要があります。同じ歴史を今度こそ繰り返さないようにするためにも。
賛同できる人はどうか力を貸して下さい。どうすればいいか一緒に考えていきましょう。
たがしゅう
プロフィール
Author:たがしゅう
本名:田頭秀悟(たがしら しゅうご)
オンライン診療医です。
漢方好きでもともとは脳神経内科が専門です。
今は何でも診る医者として活動しています。
糖質制限で10か月で30㎏の減量に成功しました。
糖質制限を通じて世界の見え方が変わりました。
今「自分で考える力」が強く求められています。
私にできることを少しずつでも進めていきたいと思います。
※当ブログ内で紹介する症例は事実を元にしたフィクションです。
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コメント
ツケ🫤
ありがとうございます
今回の記事は私が常々思い、感じ、憂いていましたので本当に勇気いただきました
というのも10年前に膵臓ガンで亡くなったパートナーの壮絶な最期の看取り経験から医療に疑問を持ち、食事、考え方、世の中の仕組み、延いては歴史にまで食指を伸ばして来ましたが 何を信じ、誰を信じたらいいのか、信じるだけでいいのか、何も持っていない自分は何をしたらいいのか、、、
そして4年前の叔母の壮絶な死が今回の記事そのものでした もう脳まで侵されていて後一ヶ月もないとわかっていてあの辛くて痛い肺への痰除去です 叔母は死にたいと思ったけど迷惑考えたら出来ないと言って泣いていました
パートナーの死と叔母の拷問ともいえる治療、、、、安らかな死は病院では到底無理ですね
Re: ツケ🫤
コメント頂き有難うございます。
違和感を解消する助けの一つとなって入れば嬉しく思います。
> 、、、、安らかな死は病院では到底無理ですね
病院で死を迎えるということと、「西洋医学に判断を任せる」ということはほぼ同義だと思っています。
なぜならば病院というのは自ら望んで死に臨みたいと思える場所だとは私には到底思えないからです。
表面上は病院で亡くなることを希望している方であっても、その背景には「家族に迷惑をかけたくないから」「自宅で最期まで適切な治療が受けられるはずがない(という思い込み)」など自らの希望を抑圧せざるを得ない何らかの背景があると思っています。
逆に言えば安らかな死を迎えるためには病院ではない場所にいることは大きな要素になると思いますが、
それだけでは不十分で、どう生きたいか、今の自分の身体の状態に対して自分がどう在りたいかという主体的な判断を決して放棄しないことが大事だと個人的には思います。
極端に言えば、それさえしっかりしていれば、非常に困難ではありながらも、病院であっても決して言われるがままにならない主体的な最期の迎え方は不可能ではないかもしれないとも思います。
医療においてもっと患者が安心して主体性を育めるように、既存の医療の恐怖統制的概念に支配されてしまわないように、既存概念を破壊し再構築する試みを続けていきたいと思います。
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