2019年04月
「医療」:たにやま哲学カフェ参加の御報告
category - イベント参加
2019/
04/
30平成の最後の日は「医療」について考え直す一日となりました。
たにやま哲学カフェに今回はファシリテーターとして参加させて頂き、テーマ「医療」について参加者の皆様と対話を楽しんで参りました。
私にとって平成の時代は、ちょうど物心がついた頃に始まり、医療を中心に様々な人生の出来事に遭遇し、時に価値観を揺さぶられることもありましたが、
総じて私が人生のうちに何かを成し遂げるための準備期であったように思います。
今、新時代を前に改めて「医療」の本質について見直すことによって、
私が新しい時代に、自分の残りの人生をかけて医療に対して自分ができることを、
何らかの形にして残すという目標を達成することを目指したいと思います。
たにやま哲学カフェに今回はファシリテーターとして参加させて頂き、テーマ「医療」について参加者の皆様と対話を楽しんで参りました。
私にとって平成の時代は、ちょうど物心がついた頃に始まり、医療を中心に様々な人生の出来事に遭遇し、時に価値観を揺さぶられることもありましたが、
総じて私が人生のうちに何かを成し遂げるための準備期であったように思います。
今、新時代を前に改めて「医療」の本質について見直すことによって、
私が新しい時代に、自分の残りの人生をかけて医療に対して自分ができることを、
何らかの形にして残すという目標を達成することを目指したいと思います。
「こども」:たがしゅう哲学カフェ in 秋葉原の御報告~後編~
category - たがしゅう哲学カフェ
2019/
04/
22前回に引き続き、「たがしゅう哲学カフェ in 秋葉原」での様子を報告させて頂きます。
前編では、こどもとは誰にとっても「幸せであってほしい存在」なのではないかという意見で会場はまとまりそうでした。
ところが話は、世間で見聞きする児童虐待のニュースへと及んでいきました。
もしもこどもに対する幸せであってほしい気持ちが、全人類に共通する本能的な感覚だとすれば、
たとえ少数であったとしても、虐待という現象が起こることはおかしいのではないかと、
そうするとこどもを慈しむ気持ちは本能の類ではなく、あくまでも環境の中で獲得された性質なのではないかという意見がありました。
小さなこどもが実の親から虐待されたというニュースを聞くと確かに痛ましい気持ちになると思います。
前編では、こどもとは誰にとっても「幸せであってほしい存在」なのではないかという意見で会場はまとまりそうでした。
ところが話は、世間で見聞きする児童虐待のニュースへと及んでいきました。
もしもこどもに対する幸せであってほしい気持ちが、全人類に共通する本能的な感覚だとすれば、
たとえ少数であったとしても、虐待という現象が起こることはおかしいのではないかと、
そうするとこどもを慈しむ気持ちは本能の類ではなく、あくまでも環境の中で獲得された性質なのではないかという意見がありました。
小さなこどもが実の親から虐待されたというニュースを聞くと確かに痛ましい気持ちになると思います。
「こども」:たがしゅう哲学カフェ in 秋葉原の御報告〜前編〜
category - たがしゅう哲学カフェ
2019/
04/
212019年4月20日(土)、おなじみとなりました「たがしゅう哲学カフェ」を秋葉原で開催して参りました。
今回のテーマは「こども」でした。実際にお子さんがおられる方もおられない方も、
誰もが誰かのこどもだということがまずありますし、
あるいは血縁のある実子という概念にもとらわれずに、
広く「こども」ということについて参加者の皆様と自由に語って参りました。
今回も記憶の新しいうちにアウトプットしておきたいと思います。
今回のテーマは「こども」でした。実際にお子さんがおられる方もおられない方も、
誰もが誰かのこどもだということがまずありますし、
あるいは血縁のある実子という概念にもとらわれずに、
広く「こども」ということについて参加者の皆様と自由に語って参りました。
今回も記憶の新しいうちにアウトプットしておきたいと思います。
自然の形を丸ごと診るスタンス
category - ふと思った事
2019/
04/
19思えば西洋医学というものは、
人間という自然の中で複雑な仕組みを備えられた生命体に対して、
その構造を明らかにしようとするが余りにその一面的な部分だけを抽出する技術を発展させ、
その抽出した要素の集合体として人間をみようとした医学だとも言い換えることができるかもしれません。
血圧の値一つとってもそう、血液検査の数値もそう、CTやMRIなど画像データだって、
いずれも人間の複雑性を一部切り取って表した要素であるに過ぎません。
そういうものばかりを道標にして医療を展開しようとしても、それは無理を生じてしかるべきではないでしょうか。
人間という自然の中で複雑な仕組みを備えられた生命体に対して、
その構造を明らかにしようとするが余りにその一面的な部分だけを抽出する技術を発展させ、
その抽出した要素の集合体として人間をみようとした医学だとも言い換えることができるかもしれません。
血圧の値一つとってもそう、血液検査の数値もそう、CTやMRIなど画像データだって、
いずれも人間の複雑性を一部切り取って表した要素であるに過ぎません。
そういうものばかりを道標にして医療を展開しようとしても、それは無理を生じてしかるべきではないでしょうか。
根治を目指すなら総合診療的スタンス
category - 主体的医療
2019/
04/
18今月の日本内科学会雑誌の特集は「内科サブスペシャルティから総合的に考える代謝内分泌疾患」です。
サブスペシャルティというのは直訳すれば「副専門性」で、
例えばスペシャルティが循環器内科でサブスペシャルティが不整脈、スペシャルティが脳神経内科でサブスペシャルティが神経変性疾患というように、専門性の中のさらに細分化された専門分野という意味になります。
内科がスペシャルティであれば、消化器、循環器、呼吸器、腎臓、血液、神経、アレルギー・膠原病、感染症はそれぞれ内科のサブスペシャルティということになります。
さてそんな細分化されたサブスペシャルティの立場から、各分野の病気には実は総合的に捉えるべき部分がありますよというのが今回特集されている内容となります。
サブスペシャルティというのは直訳すれば「副専門性」で、
例えばスペシャルティが循環器内科でサブスペシャルティが不整脈、スペシャルティが脳神経内科でサブスペシャルティが神経変性疾患というように、専門性の中のさらに細分化された専門分野という意味になります。
内科がスペシャルティであれば、消化器、循環器、呼吸器、腎臓、血液、神経、アレルギー・膠原病、感染症はそれぞれ内科のサブスペシャルティということになります。
さてそんな細分化されたサブスペシャルティの立場から、各分野の病気には実は総合的に捉えるべき部分がありますよというのが今回特集されている内容となります。