扇動性と受動性

2024/05/01 15:50:00 | 自分のこと | コメント:4件

先日、私が運営するオンラインコミュニティ「主体的医療ダイアロジカルスクール」において、

大きな気づきがあったので、今回はそれについてまとめておこうと思います。

スクールで週2回行っている定期ミーティングの今回のテーマは「まるで糖質過多に対する糖質制限のように、情報過多に対して情報制限すべきか」というものでした。

ご存知のように、現代はネットの普及であり余る情報に触れ続けている情報社会です。

手軽に情報に触れることのできるスマホの中毒性についても認知されるようになり、デジタルデトックスなんて言葉も生まれてきたりしています。

私もスマホには中毒性があることは理解しているつもりですが、暇さえあればX(旧Twitter)やYouTubeなどを観てしまい大量の時間を消費してしまうような状況がありますし、

それだけ時間をたくさん使ってXやYouTubeを観ているにも関わらず、その情報を使って人生に有益な変化を起こすことができているようには思えず、単なる娯楽の時間となってしまっているように思います。

一方でそんなスマホを断つとなれば、オンライン診療医という業務上も困ることがあるのではないかという言い訳にも似た理由を使って現状を変えようとせず、

結果的に何も行動を変えることなく、相変わらずスマホ漬けの日々を送ってしまっている情けない日常です。

だからずっと何とかしたい、何とかできないかと私は思い続けていました。 そして今回、気付かされたのです。「情報の内容と接し方によって情報の中毒性の強度が変化する」ということに。

言い換えれば、「扇動的な情報に受動的に触れ続ける状況は、情報の中毒性が高まり思考力を奪う」ということです。

まず情報の内容についてです。Xを観ていると、大量の情報に流れるように触れていくことができます。

しかも自分の興味がある情報に絞られますし、興味のない情報が混ざっていたとしても、すぐにスクロールして流すことができてしまいます。

さらに言えば、基本的に140字に文字数が限られている(※有料アカウントでは文字数制限がないとはいえ)し、フォロワー数が増えると影響力が増すという仕組みの関係上、

その140字という制限の中ではどうしても相手を惹きつけるために、扇動的な表現が多用される傾向になります。

例えば、怒り混じりのコメント、キャッチセールスのようなコメント、不安や恐怖を煽るようなコメントなどです。

あるいは映像で惹きつけられることもあります。視覚情報はパッと目に入り、一瞬で興味を引くことも珍しくありません。これはYouTubeのサムネイルでも同様のことが言えると思います。

その結果、どういうことが起こるかと言いますと、これらの情報に溢れるプラットフォームに首ったけになってしまいます。今の私がまさにその状態です。

これではまるで糖質の中毒性にはまって、糖質から逃れられずにいる状態と同じです。

「必要な情報もあるから」と言い訳している状態は、「糖質は身体にとって必要なエネルギー源だから」と言っている状態とリンクします。

しかし糖質制限派の立場から見て、エネルギーを摂ること自体を否定しないのと同様に、

情報制限派の立場に立って考えれば、情報を取ること自体が悪いわけではないと言うこともできると思います。

問題は「どうやってエネルギーを確保しているか」であり、その時に問題になってくるのが「扇動性」「受動性」だと言うことです。

考えてみれば、高糖質食にも魅惑的な美味しさがありますから、これは「扇動的」なエネルギー源だと言えるかもしれません。

そして何も考えずに生きていれば、「見渡せば糖質」の世の中ですし、

今のように著しい不況の中にあれば、生きていくために節約思考に走らざるを得ず、安い食品を買うとなればまず「糖質中心食」になります。

そのように世の中の仕組みに従いながら食べ物を調達している状況であれば、それは「受動的」なエネルギー調達になるのではないかと思います。

そこへ糖質制限食というのは、「扇動性」や「受動性」に絡みとられないようにするための一つの道筋を示してくれているように思えるのです。

そして情報で言えば、XやYouTubeで流れてくるような情報とその触れ方が、まさに「扇動的」で「受動的」な情報収集になるのではないかと私は思います。

よく「テレビの情報はダメで、ネットの情報は真実に近い」という言われ方がされますが、本当にそうなのでしょうか。

確かにテレビを中心にメディアからの情報があからさまに偏向報道になっている状況は、ジャニーズ問題やコロナ騒動における世論形成の動きなどで明確になったと思います。

ただネットからの情報であれば全て正しいという理解も当然違いますよね。検閲されていなければ問題ないわけではないですし、

情報統制下において真実を伝えようという情報は概して扇動的になりがちですし、

それが自分では何の努力をすることもなく、XやYouTubeの仕組みによって流れてくる情報に身を任せて入手しているような情報に左右されるような状況は非常に受動的なのではないかと思うのです。

長々と述べてきましたが、要するにXやYouTubeから離れるべきではないかと私は思ったわけです。

そしてそのような扇動的な情報に受動的に触れ続ける状況を避けることは、糖質制限と同じくらい根本的に心身の環境を整えることにつながるのではないかと考えた次第です。

2018年12月私は当時のTwitterを初めて使い始めましたが、

その1ヶ月後、私がブログに書いたTwitterに対する感想は、概ね肯定的なものでした。

今にして思えば、Twitterの「扇動性」「受動性」にまんまとしてやられてしまっていたのかもしれません。

私の考えもだいぶ変わってきたものだなあとも思いますが、

ある範囲の中では変幻自在に変わっていって然るべきだとも思っています。


一方で、Xにしても、YouTubeにしても、

情報を発信する側のプラットフォームとしては魅力的なところがあります。

私の場合も「主体的医療」という概念をより多くの人に伝えたいし、実践してもらいたいので、

そのために情報を拡散できるツールがあることは大変ありがたいことです。

しかしここで難しいのは、情報を発信することと情報を取得することとがいずれのプラットフォームも表裏一体で切り離せなくなっているということです。

つまりせっかくその情報を発信したのであれば、その情報がどのように受け入れられるのかが気になります。

だからXにしても、YouTubeにしても、その評価を見るために再び情報の海に飛び込むことになります。

そうなると結局また「扇動性」や「受動性」にあふれる世界にさらされて、結局このXとYouTubeの世界に飲み込まれ続けてしまうという構造になっています。

ということは、XやYouTubeから離れるためには、XやYouTubeで情報を発信することからも離れることが必要なのかもしれません。

Xに関しては災害時の情報交換に使えるというメリットもあるので、アカウント削除までは不要かもしれませんが、少なくともアプリをスマホから消すということは必須であろうかと思います。

今の私にとってはなかなか勇気のいる行動ではありますが、

Xをやめた経験者によれば、かなりスッキリするというポジティブな感覚も得られるとのことで、

糖質制限食と同じ構造を持った行為であるならば、俄然チャレンジしたい気持ちに溢れてきました。

そんなわけで折りを見て、XとYouTubeから離れるチャレンジ、やってみようと思います。

ちなみにFacebookはどうなんだという考えもありますが、私にとってより扇動性の強いSNSがXとYouTubeだと思っています。

Facebookにも同様の構造はあるかとは思うのですが、とりあえず「緩やかな糖質制限食」をやってみるのと同じような感覚で、

まずはXとYouTubeから離れることからチャレンジしてみるつもりです。


ただ、このチャレンジを行う上でもう一つ心配なことがあります。

それはパンデミック条約関連の情報など、一般的なメディアでは流れにくい情報に全く接することができなくなることで、

私が重要なことについて考える機会を失う可能性があるということです。

こういう懸念もあって、ひとまずFacebookに触れるという選択肢を残すことにしているわけですが、

最終的にFacebookからも離れるという決断をする時にも避けては通れない問題です。

この問題を乗り越えるために、最後に「非扇動的」な情報に「能動的」に触れることについても考えておこうと思います。

まず私には今まで考えてきた思考の積み重ねがあります。

2013年9月に江部先生の見よう見まねで始めたブログでしたが、おかげさまでほぼ毎日必ず自分が考えたことを文章の形で残すというトレーニングを繰り返すことで、

私の中に思考の樹が育ちました。そしてその思考の樹のおかげで私はコロナ騒動において自分を見失うことなく人生の選択を選び続けることができたと感じています。

もとより何が重要な情報であるかは立場によって変わりますし、XやYouTubeを使っている今だって全ての重要な情報に触れられているとは限りません。

けれどより大事なことは情報の中身よりも、どんな状況であっても自分の頭で考えて行動することができることだと思いますので、

若干の情報不足を生じうるということは織り込んだ上で、情報制限をしていく必要があると思います。

そして本当に自分が求めている情報であれば、制限された環境の中でも情報を追い求めたり、自分の頭で考える努力は惜しまないはずです。

その時の情報源として、扇動的なXやYouTubeの情報に頼るのではなく、まとまった文章から情報を得ることを優先するようにします。

一番わかりやすいのは書籍でしょう。書籍ほどの文章群になれば、書く側の立場になればわかるように、

読者に自分の主張をわかってもらうように丁寧に文章を構成しようとすると思います。もちろん個人差はありますし、書籍でも扇動的な表現を見ることもあるにはありますが、

XやYouTubeでの情報に比べるとはるかに冷静な表現の文章を読むことができるのではないかと思います。

ただし、書籍の弱点は情報の鮮度が古いことです。書籍としてまとまるには一定の時間が必要ですから、最新の情報を書籍で得ることは難しいと言えるでしょう。

そこはネット記事やブログのような形態の文章を織り交ぜることでカバーします。ポイントは「自分で検索して調べにいく」ことです。

たとえばパンデミック条約の話も、Xでたまたま流れてきた情報に触れる場合と、「パンデミック条約?なんだそりゃ?」と疑問を持って自分で調べてたどりついて情報に触れる場合とでは、

同じ情報に触れていても、自分の頭の中への定着度や次への応用性など大きく変わってくるのではないかと思うのです。

つまり扇動性や受動性が制限されている状況の方が、むしろ自分の頭で考える力が高まっていく構造があるということです。

これは「糖質制限食」という制限下で、元々自分が持っている力が引き出されてくる感覚と通じるものと私は考えています。

自分で疑問を持って、自分で調べるようなプロセスは面倒臭いだろうと思います。

でもその面倒臭さの先にこそ、「主体的医療」があると私は思っていますし、

「扇動的」な情報や「受動的」な情報経路を制限した中で、自分の追い求める情報を手に入れ続けるその先には、

「主体的」な人生が待っているのではないかとも考える次第です。

今後どんな扇動的な出来事が起こったとしても、

自分を見失わずに生きていけるようになるためにも、

私はあえて面倒臭い道の方を選んで生きていこうと思います。

とか言いながら、チャレンジ失敗するかもしれませんが、

色々試しながら自分の中で良い落とし所を探せればいいなと思います。


たがしゅう
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コメント

推奨したい書籍

2024/05/01(水) 20:02:48 | URL | ネコプヨ #miENxvkA
最近中野剛志「奇跡の社会科学」という本を読みまして、これが広い意味でにはなりますが、たがしゅう先生がいつも懸念されている世の中の歪みについて考える上で有効だと思ったので推奨しておきます。

今起きている政治や経済などの失敗も、百年以上前の社会科学者が、こういう社会は失敗すると指摘した通りのことをしたらから失敗している。もしそれらにきちんと学んでいれば防げていたものばかりという内容です。

積読の悩みも抱えておられるようなので控えていたのですが、今回情報収集を書籍寄りにシフトされるということなので思い切って書きました。

Re: 推奨したい書籍

2024/05/01(水) 20:57:28 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
ネコプヨ さん

 情報頂き有難うございます。
 事実を丁寧に積み重ねていけば、百年以上前でも真理に至るということなのでしょうか。
 余裕があれば是非読んでみようと思います。

自然科学と社会科学

2024/05/02(木) 23:32:55 | URL | ネコプヨ #KiHnU5EM
中野剛志氏が、自然科学は新しい発見により基本進歩していくが、社会科学は下手をすると退歩することもあり得て、百年前の学者の方が今の学者より優れている場合すらあると述べています。

自然科学に退歩がないというのは、新しい発見が実験により再現可能ゆえに誰にでも分かりやすく正しいことが理解できるからで、社会科学はそれが難しいのでおかしな理論がいつまでも力を持ちがちだということだと思います。

そこで医学なのですが、一般には自然科学寄りと思われていて、確かにトータルで百年前より悪いということはないのでしょうが、実験が難しいし統計のごまかしが効いたりする要素があって、たがしゅう先生が常日頃強調されている事実を重視する姿勢をおろそかにしていると、社会科学ほどではないにせよ退歩すらあり得るのかもしれないなと思っています。 


Re: 自然科学と社会科学

2024/05/03(金) 07:50:40 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
ネコプヨ さん

 コメント頂き有難うございます。

 「社会科学は退歩しうる」、納得です。
 これは今の医学を見ているとよく理解できます。

 見えないものに敬意を払わずにい続けた結果、わかったつもりになって歪み続けたのでしょう。
 また自然科学の地道な積み重ねのイメージで見ているからこそ、自身を顧みない傲慢さも増幅されてきたようにも思えます。

 科学は退化しうる、だからこそ訂正されなければならない、
 この謙虚さが医学界全体に受け入れられる日は果たして来るのだろうかと、極めて望み薄く感じています。
 だからこそ現代医学から距離をとることから始めていきたいと思っています。

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