一貫性はなくてもいい
2022/03/24 13:00:00 |
自分のこと |
コメント:9件
長年のブログ執筆活動を通じて、私の中には「思考の樹」が育ってきた感覚がありました。
言い換えれば、自分の言っていることに「一貫性」が出てきたと感じられてきたということです。
例えば、糖質制限の良さは無肥料栽培の良さに通じるということ、西洋薬と漢方薬との関係性は精製食品と未精製食品との関係性に通じるということ、断食で起こる不思議はマインドフルネスで起こる不思議に通じるということ…
領域をまたがり、様々な現象とつながる「一貫性」のある発言が出てきているということで、私は自分の考えに自信を持ってきているところでした。
ところがここに来て私は「一貫性があることは本当によいことなのか」という疑問を持ち始めています。
というのも一貫性に自信を持ったが故に悩む場面に遭遇し始めたからです。
最近一番私が悩んだのは、自分自身がワクチンに反対している立場をとっているにも関わらず、コロナワクチンの接種業務を手伝うという決断をしたところです。
これはどれだけ悩んで決断したところで、一貫性がないと受け止められても仕方がない行動だと思います。
ただこの時私はこんなことを考えました。 「たとえ自分がワクチンを打つことに反対であっても、この人にとってワクチンを打つことは大きな安心をもたらす行為かもしれない。もしも自分が反対の立場を貫いてワクチンを打つことを拒否すれば、この人に大きな不安をもたらして結果的に心身ともに不利益を与えてしまうかもしれない」
つまり「自分の一貫性を手放すことによって、相手の利益の最大化を目指そうとした」ということです。
ただ今振り返れば、それでもワクチン接種を手伝わない方がよかったかもしれないと思い直しています。今やそれくらいワクチンの有効性よりも有害性の方が上回ることが明らかな状況だと私には感じられています。
また似たようなことは臨床現場で糖質制限の情報提供を行う場面でも起こっています。
私は糖質制限食の実践によって心身ともに健康な生活を送れるようになったと感じているので、自分自身は患者さんにことあるごとに糖質制限食をおすすめしているのですが、
患者さんの中には糖質制限のことをお伝えするととても嫌そうな表情をされる方がおられます。そういう方は「炭水化物を制限したら食べるものがなくなるじゃないですか?」などと反応されることがあります。
実際には「炭水化物を控えても他に食べるものはいくらでもある」と私には感じられるのですが、そこは例えば炭水化物中心の食事に大きな魅力を感じていたり、炭水化物中心食以外のものを買うのが経済的に厳しいとか、様々な事情があるのかもしれません。
こうした人に対して自分の一貫性を求めるのであれば、とにかく炭水化物中心食以外の食品の選択肢を数多く提案したり、安価で済ませるための方法を提案したりすることで、自分が最も推奨する糖質制限食を勧め続けるべきなのかもしれません。
でも相手がどのような価値観を持っているに関わらず、そこまで相手が嫌だと感じる選択肢をこのまま自分が推奨し続けることは相手にとって苦痛の時間を延長し続けるだけかもしれません。そこは理屈ではないかもしれません。
そうなると、一貫性にこだわるよりも、相手の価値観に応じて変幻自在に自分の在り方を変えた方が、全体として調和が取れていくのではないかという気もしてくるのです。
また自分の中でも一貫性がないと感じる場面もあります。同じ糖質制限食のことで言えば、私は普段は糖質制限食をよしとしていますが、例えば様々な価値観の人が一同に会する会食の場面ではみんなと一緒に糖質中心食を食べた方が自分にとってもストレスが少ないのでそうすることもありますし、
あるいは会食の場面でなかったとしても、むしゃくしゃした時やなんだか非常に疲れてしまった時など、血糖上昇や酸化ストレスなどのリスクを承知した上で、このおいしさと即時的なストレス解消感に浸るために糖質中心食をとるということもあります。
そんな自分を客観的に振り返ると、まぁ一貫性がないことをしているなぁと思ってしまいます。そんな自分に違和感を感じることもありましたが、そもそもこの一貫性を疑ってみてもいいのかもしれないという気持ちが生まれてきています。
最近私は社会構成主義という考え方を継続的に勉強しているのですが、
その中では「私」というものの確固たる境界は実はなくて、「私」と呼ばれるものは周囲との関係性の中で変幻自在に変化しているという風な考え方を教わります。
勿論、「私」というものが存在するとされている皮膚によって隔てられる人型の塊のようなものはあるとは思います。少なくとも「私」にはそのように感じられています。
ですが、その中にあるとされている「私」というものは、自分が今まで考えていたよりも確固として存在しているのではなく、周囲との関係性の中でいくらでも移ろうもの、というよりもむしろ「関係」が先にあって「私」というものが存在しているように思えているだけだというのです。
ぱっと聞いただけではおそらく何を言っているのかが分かりにくい話かもしれませんが、一回そのまま受け止めてもらって
、もしもそうだとすれば、「私」というものに一貫性がある方が不自然だという見方が出てきます。
例えば「学校」では生徒に厳しく当たる教師である「私」が、家に帰ってまだ幼い自分のこどもには目一杯優しくなるという場面はおおいにありそうですが、一貫性がないようにも思える行動です。でも「関係」が先にあるのだとすれば、この変幻自在性はむしろ自然なことであるようにさえ思えます。
それでは一貫性はない方がいいのでしょうか。「私」はそれもまた違うと思っています。
全てのものが自由自在に解釈できて、どんなものも人によって捉え方が全く違うというわけではないと「私」は思っています。
「心」だとか「幸せ」「愛」などの見えない概念は人によって解釈が変わる幅は大きいと思いますが、「皮膚」とか「原子」とか物質的なものや自然科学の法則に従うもののは、人によって解釈が変わると言ってもその幅は小さいように思えます。
逆に言えば解釈の幅が小さいところには秩序が生まれやすく、解釈の幅が大きいところには多様性が生まれやすいのだと言うこともできるのかもしれません。
一貫性は、「私」という変幻自在なものの中で求めるのではなく、解釈の幅が小さな自然科学的な世界の中での秩序を基本に構築していく、というのが良いのかもしれません。
要するに「私」の中での一貫性ではなく、「みんな(私達)」の中で一貫性のある部分も大事にし、一貫性のない部分も大事にするという考え方です。
そう考えてくれば、今まで「私」が考えてきて一貫性があると感じてきたことも無駄にはならないような気がします。
「私」はこれからも一貫性がないことを責めることなく、一貫性を求められる部分を求めていこうと思います。
たがしゅう
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プロフィール
Author:たがしゅう
本名:田頭秀悟(たがしら しゅうご)
オンライン診療医です。
漢方好きでもともとは脳神経内科が専門です。
今は何でも診る医者として活動しています。
糖質制限で10か月で30㎏の減量に成功しました。
糖質制限を通じて世界の見え方が変わりました。
今「自分で考える力」が強く求められています。
私にできることを少しずつでも進めていきたいと思います。
※当ブログ内で紹介する症例は事実を元にしたフィクションです。
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対話
人は専門家の意見に平伏してしまう傾向がありますが、それに甘んじてしまう専門家も多い中、先生は患者の誤った過剰な敬畏を自ら解いてくれています。一貫してです。
この記事における一貫性の無さは、「揺らぎ」程度のもので深刻さはなく、先生の生き様は一方を向いて突き進んでいると私は感じてます。
ところで話は飛躍しますが、現在のウクライナ問題におけるロシア国民の解釈ついて、驚きとともに、先生の「対話」の重要性を再認識した次第です。
「戦争を軍事戦略と言い換え、隣国の虐げられたロシア人を開放するための侵攻」と正当化した国営メディアからの偽の情報を信じて疑わない国民が非常に多くいるという驚き。誤りに気づくことなくいとも簡単に偽の情報を信じてしまう人間の稚拙さ危うさ。
コミュニティを閉鎖して、専門家や権威のある人が説き続ければ、嘘も人は信じるんですね。洗脳とは大国の多数の人でも可能なんだ、と愕然とした次第です。
医療の世界でも洗脳とまでは言いませんが、「権威のある方の情報なら間違いない」と思い込む点では同類の現象だと思います。
お互いが対話して、誤りだとか正解だとかそのコミュニティ内部だけで判断することなく、別のコミュニティにも参加して対話する。
そのようなことがスムーズにできる環境を整えていくことが大事ではとつくづく感じた次第です。
Re: 対話
コメント頂き有難うございます。
なるほど、「揺らぎ」ですか。私の中では「一貫性が崩れている」と感じていたのですが、揺らぐという受け止め方をするとまた違う形で前に進んでいけそうな気がします。ご指摘感謝申し上げます。
「知らないことに謙虚でいる」
「知らないことによって生じる不安や不確実性に耐える」
この辺りがエッセンスであるように感じます。知らない不安に耐えられないから、権威者の意見を盲信してしまいますし、一見理解できない人間を見ると「あいつは頭のおかしいヤツだ」と一蹴してそれ以上知らなくて済む状況に閉じこもろうとしてしまうわけです。
解釈の幅の小さい自然科学的要素は努力次第でかなりの部分知ることができるにしても、関係によって様々に変化する人間科学的要素は「知らなくて当たり前」なので謙虚でかつ敬意を持って知ろうとし続ける姿勢が大事なのではないかと私は思います。
「一貫性を持つ」ということは、他の意見に惑わされないという利点、強さがあると思います。
ただし、そこに囚われすぎると「脆い堅さ」ともなってしまうと思います。
あくまでも、「一貫性」ないしは「強い信念」は、生きていくための道具としてとらえ、たまには逸脱を楽しむ位が良いのではないでしょうか。たとえば、糖質制限を実践していながら、子や孫の誕生日には、一緒に糖質ふんだんなケーキを楽しむように。
また、だいきちさんの最後の三行は、とても重要なことだと思います。
融通の効かない一貫性ではなく、もっと大きい意味での「より良い状況を作り出すため」の「信念」なのではないでしょうか。
「知らないことに謙虚でいる」
人間は自分がどこから来てどこに行くのか(生死のことです)さえ知らないのですから、何も知らないということですよね。
Re: タイトルなし
コメント頂き有難うございます。
自然界に自然法則がある以上、物事に対する合理的な見方は一定存在し、そうした合理性を中心に「一貫性のある」ものの見方は構築可能だと思います。ただ一方で人間科学の部分は多様性が著しいというか、同じものを見ていても複数の解釈が存在するということもまた事実だと思います。従って人間科学の領域においては「その解釈もあるし、別の解釈だってある。みんな違ってみんないい」となります。
そういう意味で自然科学的な領域では「一貫性」を持ち、人間科学的な領域では「強い信念を持つ」と同時にそれは解釈の一つに過ぎないということをわきまえて、異なる価値観を尊重して関係の中で変幻自在であり得るものだ、と位置づければ、両者は共存できるのかもしれないと頭の中を整理することができました。
Re: タイトルなし
コメント頂き有難うございます。
>「自他の幸福(健康)のため」
そのキーワードが私の信念の大きな部分を端的に表現されているように感じました。
例えば私にはこどもがいませんが、こどもへのコロナワクチンが推進されてしまうことに非常に心を痛めており、何か少しでも状況を変えることができないかを考え続けています。一見自分のためにはならなさそうな行動に思えるかもしれませんが、自他の幸福(健康)を目指す行動だと捉えると理解可能なのではないかと思います。あまり経営的には儲からないオンライン診療を根気よく続けていることにも当てはまります。
自分のそのスタンスを以前私は「自己貢献+他者貢献」だと表現したことがあります。くれぐれも「自己犠牲+他者貢献」になってしまわないよう気をつけようと心がけています。
2018年2月7日(水)の本ブログ記事
「他者貢献と自己犠牲」
https://tagashuu.jp/blog-entry-1244.html
もご参照下さい。
ただ、人の価値観は様々なので、他者の幸福を考えるという場合、他人を意味する範囲は様々だと思います。
1.自分のことだけ(他者ゼロ)
2,自分と家族だけ
3.自分のコミュニティーだけ(自治体とか会社とか)
4,自分の国だけ
5.人類全体
6.地球の動植物、環境なども含む
ファイザーの役員達は1か2でしょうね。金儲けのためには毒入りワクチンを子供にもうつ。数年前に、良心に耐えかねてファイザーの副社長が退職しましたが、「このワクチンは自分の子供にはうちたくない」と発言していたと思います。退職までしたということは5の人でしょうか。
5や6になると目の前のことではないので想像力が必要になります(意識するのは簡単だと思うのですが)。残念ながら2や3の人が多いような気がします。
管理人のみ閲覧できます
Re: タイトルなし
コメント頂き有難うございます。
確かに1から6に向かうにつれて、他者貢献を意識するために「想像力」が必要になってくるように思います。全人類はおろか、全生命のために行動することは言うは易しですが、具体的にどう行動するかを考えるのは容易いことではありません。
逆に言えば、1とか2は目の前に見えるものに集中さえしていれば、具体的行動の方向性はわかりやすいと思います。目に見えない他人の行動はそもそも眼中にないわけですから、自分の目の前に見える世界さえ幸せであればよいので、簡単と言えば簡単です。
ただ簡単であることと「楽」であるかどうかはまた別問題です。例えば私が今から1や2の道を目指すことは相当困難に感じます。どうやら私は難しくて困難な道を目指す方が性に合っているようです。
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