ゼロリスクを目指すことの弊害

2022/03/18 11:40:00 | オープンダイアローグ | コメント:2件

「対話では相手の価値観を理解しようと試みる」

この言葉だけ聞くと何とも綺麗事のように感じられる人もいるかもしれませんが、

相手の価値観を知る」という行為には明確にメリットがあると私は考えています。

私が医師として患者さんから最も多く聞かれる言葉に「先生にお任せします」というものがありますが、

この「先生にお任せします」と言いたくなる気持ちは理解できます。患者さんからすれば「難しい医療の知識など持っていない自分が判断するよりも、しっかり医療の勉強をしてこられた優秀なお医者さんが考えた方がきっと良い決断をすることができるであろう」と思うからこそ「先生にお任せする」のだろうと思います。

これまでにもこの「先生にお任せします」の問題点について何度か説明してきましたが、

今回は少し視点をずらして、それを言われた医者側はどんなことを考えるかについてちょっと想像してみてもらいましょう。

医者の価値観を知る」ことで、メリットがあるかどうかを確かめてもらえればと思います。 そうは言いながら、実は多くの医療場面で「先生にお任せします」と言われても医者はそんなに困りません

むしろ「余計な注文をつけられないので手のかからない患者さんだ」とお任せされることを好意的に受け止める医者さえ多いように思います。

ところが、この「多くの状況でお任せされても困らない(むしろありがたい)」という状況が実はフックとなって、後でとんでもない問題が引き起こさることになります。

それは命がかかった場面での選択です。特に治療困難な病気の場面です。

そのような状況においては本人が意志表示できない場合も多いので、家族から「先生にお任せします」を聞く場合が多いのですが、

この状況で「先生にお任せします」を言われた時の医者の心情を是非とも想像してみて下さい。

治療困難なので、この病気を治すということは残念ねがらできそうにありません。もとの病気にもよりますが、治療薬を使うことが副作用で逆効果になってしまうこともあり得ます。

そうなると本質的にこの状況でとりうる選択肢は、「延命治療を行う」か「何もしない」かになってきます。

「延命治療」というのは、病気を治すのではなく、病気の状況はそのままにとにかく1分1秒でも呼吸や心拍などの生命維持活動を継続させるという行為です。

生命活動が維持されている限り、死んだことにはならないので、とにかく「生きている」ということに価値を持っている人にとっては大事な選択肢になってこようかと思います。

ところが病気の方には何の対処もできていないので、病気の種類にもよりますが、基本的には苦しい状態は続いている状況になります。

従って、本人の意志表示がないなどの理由で家族側の希望で「延命治療」が選択された場合、患者さんは基本的に苦しい時間が1分でも1秒でも長くと引き伸ばされてしまうことになります。

それでも家族が希望するのであれば、医者は「延命治療」を行ってどんな結果になってもやむなしとある意味で踏ん切りがつきます。

問題はこの状況で家族から「素人だからよくわからないので、先生にお任せします」と言われた場合です。

その場合、医者はどんなことを考えるかと言いますと、医者が最も恐れているのは「然るべき治療を行わずに死亡してしまって家族から責められる(訴えられる)こと」です。

従って、お任せされた医師は自分が最善と思う治療を施します。治療可能な病気の時はそれで少なくとも表面上は何も問題は起こりません。

問題は治療困難な状況の時です。治療困難であっても「お任せ」された医師は誰がどう考えても治療困難という状況になるまで治療を諦めません。なぜならば責められたくはないし、訴えられたくはないからです。

要するに家族から発せられる「先生にお任せします」という言葉は、医者にとっては多くの場合「ゼロリスクを目指せ!」という意味になるということです。

本当は「先生にお任せします」と言われたとしても、「延命が適切ではない」と医師が考えれば「延命治療を行わずに自然の形で看取る」ということも選択肢に上がるはずです。

ただ「延命が適切ではない」と医師が考えるのは終末期の臨終間近の段階だけですから、逆に言えばそれ以外の全ての場面において「先生にお任せします」と言われた医師は必然的に「ゼロリスクを目指し続ける」ということになります。


さて、そんな医者側の立場を知ったとして、それが何の役に立つのかと思われるかもしれません。

「ゼロリスク。リスクがゼロになることを目指すんだから結構なことではないか」と思われる方もいることでしょう。

次にこの「ゼロリスクを目指す」という行為が具体的にどういう行為なのかをみていきましょう。

先ほど病気が治療可能の病気の時は「先生にお任せ」されても少なくとも表面上は何も問題は起こらない、と言いました。しかし実はその裏ではすでに問題が始まっているとみることができます。

例えば、風邪を引いた時という場面を考えてみます。今ならコロナにかかったかもという場面でも構いません。この時は多くの場合治療可能な状況ですよね。

この状況において「先生にお任せします」と言われた場合も、医師は基本的にゼロリスクを目指します。

風邪は9割はウイルスによって引き起こされると考えられている上気道を中心にした炎症症候群ですが、残りの1割は細菌が関わっている、もしくは風邪に似た特殊な病気だと考えられています。また症状の初期にはウイルス性か細菌性を区別するのが難しい場合もあります。

そうした状況だと「ゼロリスクを目指す」医者はこの状況でどんなことを考えるかと言いますと、「万が一、細菌感染症だと良くないから抗生物質を出しておこう」です。

抗生物質とは細菌をやっつける薬です。ウイルス性の風邪の場合はウイルスが原因なので効きません。つまり9割は無駄な投薬になります。

ただ無駄になるだけならいいですが、病気でなくとも人間の身体には口腔内細菌叢、皮膚常在細菌叢、腸内細菌叢をはじめ、外界と交通する場所に無数の常在細菌が存在していますので、

それらの常在細菌が無意味に殺されるということになります。それでも少々抗生物質を数日使う程度であればとりあえず身体に目立ったトラブルは起こりません。

ただそうした「ゼロリスクを目指す」という発想に基づいて不要な抗生物質投与が何度も繰り返されると、まず耐性菌という抗生物質に強い細菌が生まれるリスクが高まります。耐性菌が起炎菌となって細菌感染症を起こした場合はしばしば治療が困難になっていきます。

また最近では腸内細菌のバランスが乱れると、アレルギー性疾患や自己免疫疾患のリスクが高まるという見解も出てきています。

私はアレルギー性疾患や自己免疫疾患は異物除去システムの過剰駆動が関係していると思っているので、腸内細菌バランスの乱れは原因というよりもプロセスの一部にすぎないという見解ではあるのですが、

いずれにしても不要な抗生物質投与は一時的には問題を起こさなくとも、そういう選択が繰り返されることでどんどん問題がこじれていくという構造があるように見受けられます。

ただ、この「風邪に抗生物質は不要」の話は、結構な割合のドクターに浸透してきている考えなので、そんな選択をするドクターが単にヤブ医者なだけであって、多くの場合は良心的なお医者さんで適切な対応をしてくれるはずだ」と思われるかもしれません。

ですが、そもそも風邪はほとんどの場合何もしなくても治るというものなので、実は抗生物質に限らず、全ての風邪薬はやりすぎとなってしまう可能性を秘めています。

解熱鎮痛剤を使い続ければ、自分で体温をコントロールする力が失われていきますし、去痰薬を使い続ければ、自分で排痰する能力も衰えていきます。

また相手がコロナかもしれないということになれば、最新の抗ウイルス薬(分子標的治療薬)が投与されることになるかもしれません。もちろん医師にしてみれば、良かれと思って「ゼロリスクを目指し」て行っている行為です。

でも何度も当ブログで述べていますように、コロナの確定診断方法であるPCR検査が症状との因果関係を示さないので、死んだコロナウイルスを拾っているだけの場合、抗ウイルス薬投与で不要な副作用リスクを背負うことになるだけで、しかも出てきてまもない新薬で、しかも本来必要な検証作業をスキップした特例承認なので、人体へもたらす影響は未知数です。

つまり問題は抗生物質だけにあらず、治療可能な病気に対して医者に「ゼロリスクを目指せ!」と命じる「先生にお任せします」という依頼は、「自分でリスクをコントロールする権限を放棄し、医者が未認識のリスクを全て受け入れます」という宣言に通じるということです。

コロナで「ゼロリスク」と言えば、ロックダウン(都市封鎖)政策が頭に浮かびますね。実はこれにも同じ構造があります。

確かにウイルスと接触するリスクは下がるかもしれませんが、自粛によって身体にかかる精神的ストレス、経済的打撃、人間関係のトラブルなどのリスクに対して多くの場合医者は未認知、無関心です。なぜならば医者の方は「ウイルスと患者が接触して起こるトラブルで責められたり、訴えたりされることを避ける」ということに主眼をおいているからです。

厄介なのは、「先生にお任せします」と言っている人が、その言葉の本質が「医者が未認知のリスクを受け入れる」であるというのをわかっていないということです。それどころか非常に良い選択をしてくれるはずとさえ思って油断し切っているかもしれません。

では「医者がゼロリスクを目指す」という行為が最適でないのであれば、医者に頼らずに全てを自分で決断していけば良いのでしょうか。勿論、それができるに越したことはありませんが、自分で考えるのにも考えるための材料が必要です。

考えるための知識や素地がなければ、自分で考えろと言われても自分にとって適切な選択をすることは難しいです。自分で選択することにもそれなりのリスクがあると思います。

つまりゼロリスクを目指そうとも、目指さずとも、どんな選択をしたとしてもリスクはつきものだということです。

どんな選択をしてもリスクがあるのであれば、せめてそのリスクは自分で納得できているものである方が望ましいのではないでしょうか

しかも病気のことを考える場合、リスクを引き受けて起こる究極的な事象は他ならぬ自分自身の死です。

ならば病気においては自分が中心となって考えるということが基本であるべきで、その際決断を行うための助けとなるように周囲の人達へ意見を求めるという在り方が望ましいのではないかと私は考える次第です。


いかがでしょうか。

「お任せします」と言われた側の医者の気持ちを知り、何かメリットはありましたでしょうか。

「あ、そうか」という気づきが生まれ、人生が少しでも豊かになることにつながっていけば嬉しいです。


たがしゅう
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コメント

2022/03/23(水) 09:34:15 | URL | neko #-
「医者側の気持ちで考えると何が起こっているか?」という視点で考えたことなかったのでとても参考になりました!
「医者が未認知のリスクを受け入れる」ーなるほど、です。
加えて、糖質制限や湿潤治療を見ていると、「医者の無知(あるいは保守的態度)のリスク」もつくづく考えさせられます。今はネットで何でも調べられるので便利です。

Re: タイトルなし

2022/03/24(木) 10:51:56 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
neko さん

 コメント頂き有難うございます。

 たまたま知らないだけの未認知であろうと、傲慢やプライドがもたらす無認知であろうと、人は認知していないもののリスクを語ることはできません。また誰かにとってのリスクは、別の誰かにとってはリスクに感じられないということもあると思います。

 それを踏まえると、「お医者様にお任せします」というのは、「あなた(お医者様)が認知していない全てのリスクを受け入れます」という宣言になってしまうわけです。それは革新的な治療法を提唱している偉大な人に対してであっても、その構造は変わりません。それが嫌なら自分の頭で考え続けるより他にないと私は思います。もう少し詳しく言えば「何が自分にとってのリスクかリスクではないかを他人の目線も参考にしながら自分の頭で考え続ける」ということが自分にとってのリスクを適正化する生き方ではないかと私は考えます。

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