「病名」を知り、「病名」から離れていく

2021/11/18 10:15:00 | 素朴な疑問 | コメント:0件

私は医師として、「病名」をつけることの功罪を常日頃意識しています。

「病名」はあくまでも誰かが定めた恣意的な基準を満たすということを意味する恣意的な概念です。

「風邪(感冒)」とか「擦過傷」など、「自己限定性(self-limiting:自分の中で治癒に導ける)」の「病名」ならまだ問題を感じることも少ないかもしれませんが、

こと私が専門にしている脳神経内科の領域では、いわゆる「難病」と称される病気もたくさん含まれています。

「あなたはこの難病である」という「病名」をつけることは、その妥当性はさておき、「先生に任せるしかない」と医者や医療への強い依存心を生み出し、

結果的に病気を克服しようと試みる患者の主体性を著しく損なう可能性が高いということから、私はここに強い問題意識を抱えています。

一方でALSという神経難病を抱えるとある患者さんは、ALSを治そうと様々な新薬を試すという行動をつながっていたりもします。一見主体性があるように見えるかもしれませんが、医薬に依存し、自己に目を向けないという意味ではこれも私には主体性の喪失に見えてしまいます。

だからこそ患者さんには「病名」にこだわることなく、「今自分の身体の中で何が起こっているのか」に目を向けて、それを改善するためにどうすればいいのかということを「自己中心的(self-centerd)」に考えてもらいたいというのが私の目指している方向です。

ところが世の中には、病名をつけられることによって明らかに救われている人も確かにいらっしゃいます。 とある「発達障害」という「病名」をつけられた方は、次のように語っておられました。

「今まで生きづらさをたくさん感じながら生きてきたけれど、何で自分だけがこんなに辛い想いをしなければならないのかがずっとわからないできた中で、『発達障害』だと診断されてすべての疑問が氷解して、とても心が軽くなった」

あるいは、原因不明の身体の痛みに悩まされ続けているという方からはこんな言葉を聞きました。

「どこに行っても痛み止めが出されるだけで、原因はわからないと言われるだけ。でもそれでは納得ができなくて、絶対に原因があるはずだと思って、あきらめずにいろいろな病院にかかり続けた結果、『慢性咽頭炎』が原因だと言われて、治療を受けてよくなってきたので、ようやく希望が見えてきた」

これらは明らかに「病名をつける」という行為が患者さんに益をもたらしているケースだと思います。

事実重視型思考の私としましては、こうした事実を無視して「病名にこだわるな」とは言えません。「病名をつける」という行為には文字通り、「功」「罪」の二つの側面があるという事実に向き合う必要があるでしょう。

けれど、私がこれまで見てきた患者さんの圧倒的多数は、病名をつけることの「罪」の影響を受けている人であるように思えます。

多くの患者が進むのは「病名」という概念にとらわれて、自分なりに症状を改善しようとするも症状が改善できなくて、もはや「医師に任せるしかない」と病名に適合する薬をただ飲み続けるだけという主体性喪失コースです。

ここで気づくのは前述の、「病名をつける」ことの「功」の影響を受けた2人は、必ずしも主体性を喪失していないということです。

前者の「発達障害」と診断された方にしても、後者の「慢性咽頭炎」と診断された方にしても、ずっと考えてもわからなくて、他の誰も説明できなかった疑問への考えるきっかけを得ることができたわけです。

つまり、八方塞がりだった状況を打開するための道を切り拓き、再び主体的に考えて前に進めるようにした行為が「病名をつける」という行為ではなかったでしょうか


ただ、ここで終わって「先生に任せるしかない」の罠に陥ってしまうと、折角の主体性の芽が吹き返した状況であるにも関わらず、主体性喪失コースへまっしぐらです。

「発達障害」「慢性咽頭炎」と診断された、「ではなぜそうなっているのか、ではどうするのか?」を考えることが大事なのではないかと思うのです。

「発達障害」で言えば、社会の価値観というものに集団の8割が適応できて、2割が適応できないという経験則のたまたま2割の方に入ったという先天的な側面と、

意に沿わない出来事に遭遇した時の神経の反応性が鋭敏で、そのことが社会の中で問題行動として受け止められてしまうことでさらに神経の過敏性が悪化し続けてしまうという環境要因、

あるいは過敏性の背景にある脳内における種々の神経伝達物質産生のアンバランス、さらにその背景にある偏食、加工食品の過食などから来るミネラル喪失などの後天的な側面があります。

「発達障害」と診断されたことによって、それらの問題に気づくことができれば、ではどうすればよいかという具体的な歩みを自分の中で考えていくことが可能となります。

「慢性咽頭炎」についてもそうです。なぜ咽頭に慢性的な炎症が起こっているのか。

何も理由がないのに、咽頭を中心に炎症が起こり続けるはずもありません。そこには何かしらの理由があるはずです。

まず咽頭はリンパ組織という免疫細胞が集中している組織が豊富な部位です。外部の異物が自分の身体に侵入してくる時にまず真っ先に直面する防御部隊です。

そこに炎症が起こり続けているということは、何らかの理由で異物が入り続けている状況がある可能性が示唆されます。それは食事中に含まれる異物かもしれませんし、大気汚染や喫煙に伴う煙(副流煙含む)などかもしれません。

ただそうした異物が入ったとしても、同じ環境にある人が必ずしも同様の症状が出るとは限らないことからもわかるように、それを制御するためのシステムが人間には備わっています。

「慢性咽頭炎」と診断されている人の中ではそうした炎症を中心とした異物除去反応システムを収束させるはずの抗炎症システム、すなわちコルチゾールなどの抗炎症能を持つストレスホルモンの分泌が不十分になっている可能性が示唆されます。

それは知らないうちにストレスマネジメントができなくなっているかもしれないし、食事の問題でコルチゾールを産生するために必要なコレステロールやミネラルの補充が不十分になっている、あるいは脂質の補充は十分だとしても糖質過剰のせいで脂質代謝が異化ではなく同化、すなわち入ってきた脂肪は溜め込むばかりでそこにコレステロールがあるのにコレステロールが使えない状況になってしまっている可能性もあります。

「慢性咽頭炎」と診断されることで、そのように身体の中で何が起こっているかということに色々な仮説を立てることができます。仮説を立てることができればそれを立証するために自分で何かしらの行動を起こすことができるようになります。

逆に言えば、「先生にお任せする」という選択は、そうした面倒臭い作業を全部他人に丸投げしてしまう行為を意味します。この主体性の喪失こそが難病の本質だと私は考えています。


このように考えていくと、「病名」というものと私達がどのように付き合っていくべきかについて一つの指針を示すことが可能です。

①「病名」は自分を表現する方法の一つと考える
②従って「病名」は本質的に変わりうるものであるが、ずっと「病名」が変わらないのだとすれば「病名」の概念にとらわれてしまっている可能性がある
③「病名」を知ることで、自分の中で起こっている現象について考える一つのきっかけとなる
④「病名」をきっかけに、「なぜ?」「どうする?」を自分の頭で考え続けることが「病名」を離れる第一歩となる
⑤わからない時は他人の意見を求めてもよい、ただしそれは考えるための糸口として使い、自分の頭で考えようとする意思だけは捨てない
⑥自分の頭で考える意思を捨ててしまった時、「病名」は「難病」へと変わる


つまり、一旦「病名」にたどり着いて、そこから「病名」から離れていくというプロセスです。

こう考えれば、病名を様々な角度から突き止めてくれる現代医療の方法論も決して悪くはありませんし、

患者によって何より大事なことは、そこから全てを任せずに自分の頭で考え続ける主体性を保ち続けることだという事実を再認識することができると思います。


たがしゅう
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