患者の価値観に寄り添うだけではなく「整える」

2021/08/14 18:40:00 | 読者の方からの御投稿 | コメント:5件

前回のブログ記事黒丸尊治先生の著書に書かれていた70代のおばあさんのめまい症例のケースから、

客観的な事実を指摘するよりも、主観的な患者の思い込みを肯定するような導きが患者の自己治療力につながることがある」という教訓について紹介しました。

このおばあさんの場合は、「若いバスガイドに理不尽に長い距離を歩かされた」と思い込むことに起因する慢性持続性ストレスがめまい症状を引き起こしていた可能性があるので、客観的な状況を指し示すよりもその思い込みを肯定することが治療につながったという話でしたが、

ブログ読者のKAZさんより、次のような考えさせられるコメントを頂きました。

> 噓ではなく、心の底から本当に「そうですよ。そのめまいはバスガイドにさんざん歩かされたせいですよ。間違いありません!」と、掛け値無しにおばあちゃんに言ってあげることができると思うのです。



これは諸刃の剣ですよ。
場合によってはこのおばあちゃんがバス会社に訴訟を起こすかもしれません。
そうなると、止めるのに周りの者が大変苦労する事になります(経験有り)。
第三者に迷惑がかからないよう、細心の注意を払うべきです。


このコメントを読んで私は、はっとして「なるほど確かにそうだ」と思いました。 全体として黒丸先生の主張に筋が通っていた部分が多かったので、私自身批判的に読むことが疎かになってしまっていました。

確かに無条件でおばあさんの思い込みを認めることは、本当は一個人の中でも思い込みに過ぎない内容に対して医師が客観的な立場でお墨付きを与えてしまうことにつながってしまいます。

実際のバスガイドの対応がはたして実際はどのようなものであったかは別にしても、このような言いがかりとも捉えられかねない発言を医師が認めてしまうと患者の性質によってはそれを後ろ盾に訴訟につなげたとしても不思議ではありませんし、実際KAZさんにはそのような経験がおありなわけですから、これは看過できない問題です。

しかし他のどの治療でも治まらないめまいやふらつきに発展するほどの強い思い込みを持っている患者に対して、「思い込みを認める」以外の方法で症状を改善させることができるかと言われたら、すでに耳鼻科、脳神経外科、神経内科での治療が失敗しているという経緯から難しいと考えざるを得ません。

一方で、患者への伝え方を変えて、例えば「バスガイドが一方的に悪いわけではなく、そのような怒りの感情がご自身の身体に自律神経過剰刺激を介してストレス反応を生み出して、それがめまいの原因となっている」というようなバスガイドを擁護するようなニュアンスを含めて説明したとすればどうでしょうか。

おそらく「バスガイドが原因」というところがおばあさんの思い込みの根幹部分だと思いますし、実際に著書の中でも「そんなことにこだわること自体がストレスを生み出し、それがめまいの原因だ」という説明が別の医者からなされたけれど症状は改善しなかったとありましたので、これもおそらくうまくいかないでしょう。

ということは、構造としてはこのおばあさんの思い込みを認めておばあさんを治すか、あるいはおばあさんの症状は治せないけれど当たり障りのない治療を行って社会の中でのバランスをとるかという二者択一の選択になるような気がします。

「医者は患者を治すのが仕事」「患者第一」というのは簡単だし正論ですが、この状況でもこの原則をそのまま適応するのは妥当でしょうか。もしも皆さんが医者の立場であれば、この患者さんに対してどう対応しますでしょうか?


その問題について考える前に私はふと気づきました。同じ構造はコロナ禍にもあるな、と。

例えばマスク問題です。私のように今マスクをしたくない人がいるとしましょう。

社会はその価値観に反して、大多数の人達がマスクを装着することを望み、それを一般常識のように受け止めています。

その状況に対して「本人第一」で考えるならばそのままマスクをしないという行動になりますが、

社会とのバランスや調和を考えるのであれば、仮に本人がマスクをしたくないと思っていたとしてもマスクをするという行動を行うことになるでしょう。どっちが望ましいのでしょうか。

もっとおばあさんのケースと近い構造を考えてみましょう。今自分が小さなお子さんの親の立場とします。

お子さんはマスクをしたくないと意思表示をしています。けれど学校ではマスクを装着して授業を受けることを義務づけられています。

さぁあなたは親としてお子さんに対して、「そのままマスクをつけなくていいよ(患者第一)」と言ってあげますでしょうか。それとも「学校の迷惑にならないように我慢してマスクをつけていなさい(社会とのバランス重視)」と諭しますでしょうか。

こういう二者択一で互いに対立しているような状況の問題の打開策を考える時に役立つのに「弁証法」という方法があります。

弁証法というのは、二つの対立する話題をより高次元から眺めて両者の間に存在するように見える矛盾を解消する別の視点を提供するという哲学的アプローチです。

今回の場合はこんな風に考えてみてはどうでしょうか。「何のためにこどもに話しをするのか」と。

勿論「こどもに幸せでいてほしいから」というのが根源的にはあるでしょう。その幸せを単純に考えれば「本人の思い通りの望みを叶えること」で本人の幸せは達成できるかもしれません。ということは短絡的に考えれば「マスクつけなくてもいいよ」になりそうです。

しかし、親というのは目先の本人の欲求を制して将来的な本人の幸せにつなげようという行動をとる選択肢も持っているはずです。いわゆる「我慢を覚えさせる」というヤツです。

欲しいおもちゃがある。こどもはそのおもちゃを欲している。しかしここでこどもの言うがままに買い与えるのではなく、ここは一旦我慢するように促す。そうすることでこどもは一時的には不幸せだし不満も言うかもしれませんが、

この経験を経てお金を大事に使うという感覚を得ることができ、そのことが将来的な幸せへとつながる布石となるかもしれません。

そのように将来的なこどもの幸せを視野に入れるのであれば、同じこどもの幸せを願う行動でありながら「今は買うのを我慢しなさい」という行動になるでしょう。

マスクのケースで言えば、「確かにマスクをつけたくないという気持ちは理解できる。自分(親)もそう思う。でも、学校という社会の中で生きていくためには、みんなに合わせるということも求められることがあるんだ」とこどもに伝えるというのも、十分こどものためを思った行動になるのではないでしょうか。

そこで私はもう一つ質問するといいと思います。


それでもマスクをつけないでいることと、みんなに合わせてマスクをつけること、〇〇はどっちの方が心が軽いかい?

つまり、こどもの幸せを親が考えるのではなく、自分の幸せを自分で決めるように主導権をこどもに渡すということです。

あるこどもは「やっぱりマスクをつけるはイヤ!」というかもしれません。また別のこどもは「みんなに嫌われるのはイヤだから学校ではマスクをつけておく」というかもしれません。どちらもその子にとっての正解だと思います。

またそのように本人に決めさせることができれば、状況が変わればその子はまた別の選択を主体的に行ってくれるかもしれません。

例えば何かをきっかけに学校でマスクをつける人が少なくなっていけば、自分の正直な気持ちに従って、マスクを外すようになるかもしれない。

あるいは学校で相変わらずマスク装着を義務づけられる状況が長く続いていけば、「この状況はおかしい」と思って学級委員会などでマスクをはずそうという提案を行うかもしれない。

そんな風に自分が一番心が軽くなる方向を自分の判断で決めることができれば、その子は社会の状況に臨機応変に対応して自分の幸せを追い求めていくことができるようになっていくはずです。

実際、私はこのマスク問題に関して、「自分の心が一番軽くなる状態は何か」ということを基準にマスクをつけるかどうかを判断しています。

公共交通機関や公的施設などのマナーとしてマスク装着が義務づけられる場では、マスクをつけないことで不要なトラブルを起こしたくないのでおとなしくマスクをつけますし、

外の比較的開けた場所を歩いている時は多少人とすれ違うとしてもマスクは外し続けています。

あるいは相手の価値観が確認出来そうな時にはマスクについてどう思うかを聞いてみたり、自分の家に人を招くなど自分にホームの感覚がある時には「自分はマスクを気にしませんので、よろしければどうぞマスクをお外し下さい」と促したりもします。

そしてこの態度を一生確定的に続けようというのではなくて、社会の状況に合わせて臨機応変に変えていこうとも思っています。

このマスク問題を冒頭のおばあさんのケースに当てはめた場合、私自身が「患者」の立場にあるのでとるべき行動がわかりやすいですが、

これが自分ではなくて第三者ということになれば自分はあくまでも「医者(援助者)」の立場です。相手がどのような価値観を持っているかによってどのように援助すべきかという行動は変わってきます。

ですが大きな部分では「患者自身が納得してその決断ができるように促す」というのが私が「医師」としてやるべきことかなという風に思っています。

おばあさんのケースで言えば、相手は「バスガイドがめまいの原因だ」と強固に思い込んでいる価値観の人です。

最終的な目的はこのおばあさんが自分でめまいの原因がバスガイドに対して腹を立てた自分の心の乱れにあると納得するところに行き着くと思います。

しかし相手はまずバスガイドに対して非常な怒りを覚えている状況です。そんな状況でまず「あなたの心が本当の原因です」と言ったところで相手に響くはずもありません。

まずはその思いに共感するところから始めます。そしてその共感が口先だけのものであってはなりません。

実際、おばあさんの言い分も理解できるわけです。バスガイドが道を間違ったとしか思えない、そう思う人が自分だけではなく複数人いるような状況でバスガイドは頑としてそれを認めず、長い距離を歩かされたのだというのならおばあさんが怒るのも十分理解できます。

それを理解した上で、「〇〇さんの言っていることはとてもよく理解できます。私がもし同じ立場でもそのように思うことでしょう。」という共感のメッセージをまず第一に伝えます。それはまず相手の怒りを静めることへとつながるはずです。

その上で、「ただそのようにバスガイドさんに対して怒りの感情を抱いていると、実はご自身の身体にも大きな負担がかかってしまうんです。怒りにはものすごいエネルギーが必要なんです。」などと説明し、本質的に症状が自分の中の状態とつながっていることに気づくように促します。

それでもしもおばあさんに症状と自分の感情とのつながりに気づいてもらえれば、医師が手放しで「バスガイドがめまいの原因です」と認めなくとも、同じように症状を鎮めてくれる可能性は十分にあると思います。

それでもおばあさんが「そんなことはどうでもいいからあのバスガイドが原因だって先生言ってちょうだい!」って思い続けるパターンも想定されると思います。

そんな場合は、まるでおもちゃをいますぐ買いたいと駄々をこねるこどもに諭すように、「そうですよね。そんな風に思ってしまいますよね。よほど辛いご経験だったのでしょうね。〇〇さんの気持ちが少しでも和らぐように私もできる限りのサポートをさせて頂きたいと思います。例えばそんな怒りがこみ上げてしまう場合に効くという△△という漢方薬がめまいに効くかもしれませんが、それをお出ししてみるというのはどうでしょうか?」などとアドバイスの方向を相手の価値観に合わせて少し微調整します。

それでもダメなら相手に自分(医師)に対して期待することは何かを尋ねてみて相手の価値観を改めて捉え直してみるのも一つでしょう。そんな風に「相手に自分の心が最も軽くなる選択肢を選んでもらうようにする」とよいのではないかと私は思います。



・・・こうして考えてみますと、病気の治療を難しくしているのは「こうと決め込んだら天地がひっくり返っても動かせない先入観や固定観念」であるようにも思えます。

その先入観や固定観念が強固であればあるほど、第三者(医師や親)がそれを外させることは困難を極めます。それが非常に難しい状態となってしまったのがいわゆる「難病」と呼ばれる状態なのではないでしょうか。

以前私は、コロナ禍の状態を「社会が難病化した状態」だと表現しました。

それというのも「コロナは無症状感染者の飛沫から発せられるウイルスによって移されて社会全体に感染拡大という被害をもたらす」という先入観や固定観念が、科学の下支えもあって強固に固まってしまっているからだと改めて思います。

難病を治したいのであれば、固まった固定観念をまず外すところからです。

それを行うのに最も有利な立場にあるのは当事者なはずなので、やはり主体的医療が大事だということになるのですが、

もしも当事者がそれができないような袋小路に入り込んでしまっているのだとすれば、周りがそれを外させるように援助する必要があります。

そのためにまず大事なことは、多様な価値観を理解してもらえるように伝えることであるような気がします。



たがしゅう
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コメント

論理で感情は変えられない

2021/08/15(日) 08:31:18 | URL | KAZ #AIlHpmOk
まず、人間は理性ではなく感情で動く生き物であると言う事、感情を論理で変えるのは難しいと言う事、そして、この傾向は歳を取るごとに強まっていくという事を理解する必要があります。

こんな事がありました。
母が、毎日私に水着を買ってくるのです。
私が「要らない」といくら言っても聞いてくれません。
仕事中に仕事部屋まで入ってきて
「水着を買ってあげる」
「要らないからもう買ってこないで」
「おかあさんが買ってあげる」
「お金の無駄だからやめて」
「おかあさんが買ってあげる」
「仕事中だからあっちへ行って」
「水着を買ってあげる」
こんな口論が続く毎日でした。
時には前の日の晩から朝の8時まで口論が続く事もあり、私は夜も眠れず仕事もミスばかり。
なんで水着ごときにこんなに苦しめられなければならないのか。
私はあまりの理不尽さにストレスが溜まり、1年経ちとうとう胃痛でダウンしてしまいました。

そんなある日、たまたま観ていた新スタートレックにこんなエピソードがありました。
ある植民惑星に宇宙人の艦隊がやってこようとしています。その惑星の住民を早急に別の惑星に移住させなければなりません。その住民の説得を感情を持たないアンドロイドであるデータ少佐が任されました。
データ少佐は、
「このままこの惑星に留まれば皆殺しにされるので避難してください」
と、論理的に説得を試みます。
しかし住民たちは
「この惑星は先祖が血と汗を流して開拓した惑星だ」
「あの丘には先祖が眠っている」
などと言ってまったく説得に応じてくれません。
困り果てたデータ少佐は一計を案じます。
「今から水路を破壊するので、止められる物なら止めてみろ!」
住民たちは原始的な武器でデータ少佐と戦いますが、まったく敵わず水路は破壊されてしまいます。
「たった一人の私に敵わないのに、宇宙人の艦隊に勝てるわけがない。あなた方は敵の姿を見る事なく皆殺しにされるだろう」
ここでようやく住民たちは移住に応じます。
データ少佐は学びました。
「人の心を動かすのは論理ではなく行動だ」

このエピソードを観て私は自分の過ちに気づきました。
そう、私は論理だけで説得しようとしていたのです。
次の日、私は母が買ってきた水着を母の前でハサミで切り刻みました。
そしてにっこり笑い
「破れたからまた買ってきて」
これで母は次の日から水着を買ってこなくなりました。
心ないやり方で私の心も痛みましたが、何万回の言葉を重ねても動かなかった母の心を1回の行動で動かす事に成功したのです。

さて、バスガイドの件に話を戻します。
この場合、行動はちょっと難しいですね。
ではどうするか。
まず、このおばあさんがなぜ論理を受け付けないのか。
それは、
「自分の言い分が認められなかった」
から
「自分を否定された」
という強い不満や怒りがあるからでしょう。
このおばあさんだって、他人からこのような話をされたら
「それはあなたの我儘だ」
と言うのではないでしょうか?
自分の事は論理的に考えられなくても、他人の事なら客観的に考えられる事もあります。
ですのでこのおばあさんとは無関係な例をいろいろ話してみるのがよいのではないでしょうか。
(こういうのは、説法の上手いお坊さんが得意としていそうですね)
それで駄目でも、そのおばあさんが他院に移るだけでしょう。
怒りは時間と共に薄れる物です。
1年も経てば時間が解決してくれるのではないでしょうか。

もしおばあさんの話に同意してあげるのであれば、3年経ってからが良いでしょう。裁判沙汰になる可能性が無くなります。そして、いかなる場合も
「そのめまいはバスガイドにさんざん歩かされたせいですよ。間違いありません!」
と言ってはいけません。
「そうかもしれませんね」
と相槌を打つくらいに留めるべきです。
それで治らなくても、少々冷たいかもしれませんが自業自得です。
間違っても他人を巻き込んではいけません。
「嘘をついてでも治してやろう」
と考えるのは、たがしゅう先生が推奨されない
「​​受動的医療」
になってしまうのではないでしょうか。

あと、有効なのは
「お肉をたくさん食べさせる」
事です。
このように小さな事で怒りを制御出来なくなるのは糖質過剰と鉄・タンパク不足が影響している事が多いです。
ステーキを食べさせると次の日、穏やかになるという事が経験上、多々あります。
ここでも糖質制限の出番ですね。

長々と書いてしまいましたが、私は理不尽な親の干渉に長年悩まされており、これは本当に切実な問題です。
いまだ説得に成功する事は少ないですが、これからも努力して対処法を学んでいきたいと思っております。

Re: 論理で感情は動かせないという事

2021/08/15(日) 08:34:27 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
KAZ さん

 これまた価値観を揺さぶられる貴重な御意見を有難うございます。

 他人の行動を変えるのにそういう方法もあるということですね。
 私は日頃「嫌われる勇気」を持とうと思いながらも、そうは言っても身近な世界の中で自分が嫌われないでいようと心がけてしまっているように思います。自分が嫌われたくないから、なるべく穏便な方法で収めようと、そういう発想しか思いつかないというわけですね。

 スタートレックのエピソードには真の意味での「緊急事態」性があるので、そうした行動も一つの選択肢として許容されると感じます。
 また水着を買い続けるお母様の話では「水着を買いたくなる気持ちもよく理解できる」などと肯定したところで、その行動が収まるとは到底思えないので、ご提示の方法は画期的な側面があるように思います。

 しかし私がもし今同じような状況で、同じ選択肢を提示(水着を断るor水着を目の前で切り刻む)されたとして、水着を切り刻む選択をできるかと言われたらちょっと自信がありません。なぜならばおそらく「何度も嫌気が指すほど水着を買われるという体験が欠如しているから」だと思います。その身につまされる体験が原動力を生み、はじめて起こせる行動であるように思います。

 そう考えると、悪政に耐えに耐えた結果、怒りが爆発して暴動を起こすといった社会改革の動きも、そうした構造を反映しているような気がします。この場合は、人為的なコントロールというよりは自然発生的なものですが、要は「適切なタイミングで実施しない限り、良い結果を生まないかもしれないやり方」だということです。

 この考えをバスガイドのケースで応用しようとすると難しいですね。本質的には相手の価値観に寄り添うのとは真逆で、援助者の価値観に半ば強引に従わせるという方法ですから、耳鼻科、脳神経外科、神経内科などで「検査では異常はありません」などと言われて、この方法はさんざん試されていると言っても過言ではありません。

 つまり、それほど強固な思い込みを持っている状況においては、強烈に価値観を揺さぶる行動を起こしても変わらないということなのかもしれません。水着を買い続けるお母様の話でも、もしもお母様が「水着を買ってあげれば娘は喜ぶ」という思い込みを強固に持っていたとすれば、たとえ目の前で水着を切り刻まれたとしても、現実を受け入れられず怒りの境地に達して自分の価値観に従わせようと暴力的な行動に移る可能性があるかもしれません。逆に言えば、水着を切り刻むという行動で自分の考えを見直せたのであれば、それはお母様に聞く耳があった(価値観を変更しうる余地があった)ということの証明なのではないでしょうか。

 やはりどうにも変更できない強固な価値観こそが、難病の源泉であり、医師としてこれを揺さぶるための選択肢はなるべく多く持っておきたいと考える次第です。

Re: 論理で感情は変えられない

2021/08/15(日) 09:04:42 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
KAZ さん

 コメント頂き有難うございます。

> 「嘘をついてでも治してやろう」
> と考えるのは、たがしゅう先生が推奨されない
> 「​​受動的医療」
> になってしまうのではないでしょうか。


 私の考えでいけば、これは「受動的医療」には相当しません。
 なぜならば患者が持つ価値観を最大限に援助するのが「主体的医療」だからです。

 例えば私が糖質制限推進派であっても、患者がベジタリアンを信奉していればその価値観を支えつつ最善の方法を探すのが「主体的医療」です。「いや、糖質制限が絶対にいいんですよ」と価値観を一方的に強要するのが「受動的医療」です。一方で同じ糖質制限を勧めるのでも、相手がよいと感じているものを中心に勧める(例:魚や大豆など)のは「主体的医療」の要素が強くなってきます。そういう流れの中で少しずつ肉や卵など患者のそれまでの価値観で敬遠していたものを食べてみたいと患者が感じるようになっていけば、結果的に「主体的医療」で糖質制限状態に変容したことになります。つまり「患者がどうしたいか」という気持ちを邪魔しないのが「主体的医療」です。

 御指摘のように、理論上タンパク質や鉄を補うことが精神面にも好影響を与えることはもはや疑いはないわけですが、それでも相手の価値観(例:肉を食べると太ると強固に思い込んでいる)に反する行動になってしまうと、慢性持続性ストレスを与え続けることになってしまうので、これは「受動的医療」ということになってしまうのです。

 ただバスガイドのケースはそんな「主体的医療」の弱点を提示してくれた貴重なケースだと思いました。「噓をついてでも相手の価値観を認める」というのは、本人にとってよくとも全体にとって歪みなのだと気づき、適切な「主体的医療」を行うために一定の原則を把握しておく必要性を強く感じました。KAZさんのコメントがなければ、私は黒丸先生のアプローチを全肯定してしまうところでした。全否定もよくないですが、全肯定もよくありませんものね。心より感謝申し上げるとともに、引き続きより望ましい「主体的医療」を展開するための方法論を構築していきたいと思います。

主体的医療の定義

2021/08/18(水) 07:06:13 | URL | KAZ #AIlHpmOk
> > 「嘘をついてでも治してやろう」
> > と考えるのは、たがしゅう先生が推奨されない
> > 「​​受動的医療」
> > になってしまうのではないでしょうか。
>
> 私の考えでいけば、これは「受動的医療」には相当しません。
> なぜならば患者が持つ価値観を最大限に援助するのが「主体的医療」だからです。

うーん、私の考える主体的医療とはちょっと違うようですね。
私の考える主体的医療とは、
・患者さん自身が良く考え、治療方針を決定する。そして結果についても責任を持つ。
・医師は、患者さんが判断するための情報や知識を提供する。
というものです。
患者さんに嘘をつくというのは患者さん自身の判断力を信用しない行為であり、主体的医療とは対極にあるように思いました。

以前たがしゅう先生は

> 「相談する」相手によって自分にはない様々な価値観が提供されることでしょう。時には自分の価値観とそぐわないアドバイスを受けることもあるかもしれません。ただそれでも主導権さえ自分にあれば、意見をスルーすることだってできるし、一部だけ意見を取り入れることだってできます。

と書かれていましたが、今は
「患者の価値観とそぐわないアドバイスはしない」
というお立場でしょうか?

Re: 主体的医療の定義

2021/08/18(水) 07:49:44 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
KAZ さん

 コメント頂き有難うございます。

> 私の考える主体的医療とは、
> ・患者さん自身が良く考え、治療方針を決定する。そして結果についても責任を持つ。
> ・医師は、患者さんが判断するための情報や知識を提供する。
> というものです。


 ご指摘頂いた内容は、私の考える主体的医療の定義とも合致しています。

> 患者さんに嘘をつくというのは患者さん自身の判断力を信用しない行為であり、主体的医療とは対極にあるように思いました。
> 「患者の価値観とそぐわないアドバイスはしない」
> というお立場でしょうか?


 「嘘をついている」という内容を私が肯定したことが誤解を生み出してしまったように思います。申し訳ございません。説明を追加させて頂きます。

 まず私は患者さんの価値観を何でもかんでも認めるイエスマンではありません。
 必ず相手を理解するよう努める一方で、意見が異なると感じる部分に対しては「自分はこう思う」という形で異なる価値観を提示します。コメントの後半で引用して頂いた私の意見と矛盾しているつもりもありません。
 その上で「バスガイドがめまいの原因だ」と思い込む高齢女性のケースは、患者さんには「そうであるとしか考えられない」という確固たる価値観があります。一方で「バスガイドがめまいの原因だ」がまるっきりの嘘かと言われたら、そうとも言い切れない部分があります。バスガイドの行動を本人がどう感じたかによって、本人の現在の状況が導かれているわけですから。

 従って、「バスガイドがめまいの原因だ」という嘘とも捉えられかねない発言をそのまま認める行為も、「主体的医療」における選択肢の一つになってくると思います。本人の価値観を否定していないからです。一方で「その考えはわかりますが、人間の症状は怒りや不満と言った負の感情と密接に関わってきます」と相手の価値観を否定しないままに、別の価値観を提示することも「主体的医療」における選択肢の一つです。とにかく相手の価値観を否定せず、その上で価値観を修正するかどうかの判断も相手に委ねる、というのが「主体的医療」の根幹部分です。

 「受動的医療」は相手の価値観を否定して、「そんなことは論理的にありえない」などと言ってこちらの価値観を押し付ける行為がそれに該当するのではないかと思います。
 ただ相手の意見をそのまま認めるという「主体的医療」のやり方が全体の歪みをもたらすことにつながり、必ずしも良い結果をもたらさないという点は先に語った通りです。
 
 「主体的医療」での相手の価値観の援助の仕方も何でもよいわけではなく、何らかのコツと工夫が必要になるのではないかと今私は考えています。

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