客観性よりも主観性
2021/08/13 09:30:00 |
お勉強 |
コメント:6件
医師・黒丸尊治先生の著書「心の治癒力をうまく引きだす」の第二章には、
“病気の「原因」は本当に必要か?”と題して、これまた興味深い論考が書かれています。
西洋医学は病気に特定の原因を求め、その原因に対する特異的な治療を提供すべきという理念のもとで発展してきた治療体系です。
ところがあるはずの特定の原因はほとんどの場合見つからず、複数の要因が複雑に絡み合う形で病気という現象が発生しているので、実際には原因のわからない病気に対してとりあえず症状を和らげる対症療法が繰り返されているだけというのが西洋医学中心型医療の実情であろうと思います。
一方で感染症は数少ない特定の原因を突き詰めて治療につなげることができた言わば西洋医学の成功体験ですが、これさえ本質的に特定の原因だと言い切れるかどうかは怪しいということは以前当ブログで語ったところです。
黒丸先生も「原因探しに固執すると泥沼に入り込むことがある」と警鐘を鳴らしておられます。 その一方で、「治療につなげるためには適切な『病名』をつけた方がよい場合がある」ともおっしゃっています。
一見矛盾があるようにも思えますが、これは一体どういうことなのでしょうか。
結論から言うと二つのご意見に矛盾はなく、これらはいずれも「実際の治療につなげる」という主たる目的を達成するための方法論に過ぎないのです。
そのことは、これから挙げる二つの実例を見てもらうと理解できると思いますので、引用させて頂きます。まずは一例目。
(p63-65より引用)
例えば、こんな患者さんがいた。74歳のおばあちゃん。
歩くと、地面が波打って揺れるような感じのするフラフラ感があり、特に夕方になるとそれがきつくなる。
これまで一年以上もあちこちの病院を回り、処方された薬も飲んできたがどうしても治らない、という患者さんである。
症状が現れるようになったのは、奈良の飛鳥に行く団体のバス旅行に参加して以来だという。
「バスから降りて、石舞台というところを見学するというんで、駐車場から歩かされて……。
若いバスガイドが先頭に立って歩いてました。そやけど、いつまで経っても着かないから、みんなは『バスガイドが道間違えたんやで』とか言い合ってましたわ。
わたしもそうやと思ってましたから、バスガイドに言うたったんですわ。あんた、道間違えたんやろって。
そしたらこれが強情な女で、自分の間違いを絶対に認めようとせんのです。絶対間違っとるんですよ。みんなとっくにわかっとることです。
もう腹が立って、腹が立って……。それ以来ですわ。こんなめまいがするようになったのは」
おばあちゃんによれば、今までに行ったすべての病院で、この話をしたという。
「私は、あのバスガイドに歩かされたことが原因で、めまいが起こるようになったんやと思うんですけど」
今までかかった耳鼻科、脳神経外科、神経内科などでは、さまざまな検査をされたり、いろいろな処方がなされた。
しかし結局は、「バスガイドさんがどうのこうのなんてことは、この症状とはまったく関係ありません。もしそうだとしたら、それまでもさんざん歩いているわけですから、もっと以前に症状が現れてもいいはずです」と言われたうえで、
メニエール病の可能性があるとか、小さな脳梗塞が関係しているかもしれないとか、自律神経の働きが乱れたことが原因でしょう、等々の説明がなされるのが落ちであった。
中には、そんなことにこだわること自体がストレスを生み出し、それがめまいの原因だと指摘する医者もいたが、このおばあちゃんはまったく納得できなかった。
ここでぼくは、おばあちゃんの言い分をあっさりと認めてあげた。
「おばあちゃん、まさにそうですよ。バスガイドさんにさんざん歩かされたことが、ふらついたり、めまいがすることの原因ですよ。時々あるんですよねえ、こういうのが。間違いありません!」
「やっぱりそうでしょ。私はずっとそうだと思っていましたよ。やっぱりねえ」
ようやくわかってもらえたという、満足感に満ちた表情を浮かべ、その日は診察室をあとにした。
次回の診察に来た時、おばあちゃんはすっかり治っていた。
前回の診察で、自分のことがわかってもらえたため、それでスーッとして、めまい、ふらつき感がすっかり取れてしまったという。
よって治療はこれで終了。良かった、良かった、パチパチである。
(引用、ここまで)
「めまいが出たのはバスガイドにさんざん歩かされたせい」という思い込みを医者が肯定することで、原因不明のめまいが速やかによくなったというケースです。
途中で他の医師が説明している「もし歩かされたのが原因だとしたら、今までもさんざん歩いているのだから、それ以前にも同じ症状が出ているはず」という説明は一見合理的であるように思えます。
しかし単純な運動労作の結果でめまいが誘発されたのではなく、「若い強情なバスガイドのせいで・・・!!」という怒りによって、内的な慢性持続性ストレスが生み出されて、自律神経過剰刺激状態が引き起こされた結果、めまいやふらつきの症状に発展したと考えれば、それまでさんざん歩いてもめまい症状が出なかったという事実に矛盾はありません。
その意味で、その後のお医者さんが言っている「そんなことにこだわること自体がストレスを生み出し、めまいの原因となっている」という指摘は合っていると思いますし、私でもそのように説明してしまいそうなところです。
ところが、それが仮に正しい指摘であったとしても、それを指摘したところで患者さんは治っていない。むしろ間違っているかもしれないその患者さんの思い込みを肯定してあげることが、治療につながるのだとすればこれはものすごく大きな教訓になります。
なぜならば、治療のアプローチを「原因探し」から、「治療コメント探し」へと意識を変えていく必要があるからです。
ただ私は、だからと言って原因を全く意識しなくていいということではないと思っています。やはり私は「患者さんの症状がどういう理由で引き起こされているか」という構造は理解しておく必要があると思います。
なぜならば、相手の何の背景の理解もせずにただ患者さんの愚痴を肯定することと、病気を生み出す構造を理解した上で患者さんの思い込みを肯定することは、その後の信頼関係を構築していく上で雲泥の差が生まれると感じられるからです。
前者は言ってみればただの「口八丁」です。「イエスマン」や「八方美人」とも言います。どんな意見にもただただうんうんと頷くだけであったり、耳障りのいいことを言ってくれる人とのコミュニケーションは一時的には心地良いかもしれませんが、長期的に見れば信頼を失うというケースは枚挙に暇がありません。
しかし後者の病態を踏まえた上で思い込みを肯定する場合は、相手の思い込みが少なくとも患者さんの中で絶対的に正しいということを理解した上での肯定なので、自分が肯定的なコメントをする場合の噓くささがなくなります。
「バスガイドに歩かされたせいでめまいがした」というのは一見医学的には言いがかりのような話ですが、「バスガイドは謙虚で丁寧な人あるべき」という価値観をもったおばあちゃんにとって「強情で間違いを認めないバスガイド」は怒りの感情を引き起こし、その負の感情が自律神経過剰刺激状態を生み出す、という構造を理解していれば、
噓ではなく、心の底から本当に「そうですよ。そのめまいはバスガイドにさんざん歩かされたせいですよ。間違いありません!」と、掛け値無しにおばあちゃんに言ってあげることができると思うのです。そうすれば信頼もしてもらいやすくなるのではないでしょうか。
ですので、ある程度の原因を想定することは大事ではあるものの、その原因を指摘することが必ずしも治療につながらないというところに大きな教訓があると私は思います。
またこのケースでは、病院ではよくされがちな身体的な問題(いわゆる「器質的異常」)を探すことが、必ずしも患者さんの治療に貢献しないことも大きな教訓の一つでしょう。
仮に検査で何かしらの異常が見つかったとしても、おそらくこのおばあちゃんの治療にはおそらく大きくは寄与しなかったのではないでしょうか。なぜならば見つかった異常のせいで、おばあちゃんの思い込みが余計に肯定されなくなってしまうからです。
なので原因探しはほどほどにした方がいいのかと思いきや、今度は「病名」をつけたことが治療につながったという二つ目のケースです。
(p74-77より一部引用)
先日、他の病院で仮面うつ病だと診断された患者さんがやってきた。
年齢は26歳。大手企業の秘書課に勤めているという知的な雰囲気の女性である。
彼女の話によると、ここ半年ぐらい体の調子がおかしいなと感じていた。仕事は神経を使うことが多く、精神的なストレスも溜まりやすい。
会社の同僚に相談すると、早く病院へ行ったほうがいいと言われたので、近くの開業医に診てもらうことにした。
「あなた、仮面うつ病やね」
この病名に、彼女はたいへんなショックを受けた。「うつ」は彼女がいちばん恐れていた病名だったのだ。
というのも、彼女のおばが昔からうつ病で苦しんでいるのを身近に見ていたからである。彼女とおばは顔も、性格もそっくりと言われてきた。
(中略)
仮面うつ病は、普通のうつ病のように精神症状が前面に現れるのではなく、身体症状が前面に現れるところに特徴がある。
(中略)
しかし、彼女の場合、仮面うつ病だと言われても、それは「うつ病」としか聞こえなかった。完全な精神疾患だと思い込んでしまい、ひどく落ち込むことになったのである。
そのこともあってか、医者からもらった抗うつ剤も、副作用が出て、飲むとかえって調子が悪くなるとのことで、すぐに服用するのをやめてしまっていた。
彼女の状態を正確に診断するならば、仮面うつ病は適切な診断名だ。開業医の診断は決して誤診ではない。
しかしこの時、ぼくはあえて彼女にその診断名を使わなかった。彼女にとって「うつ」と付く病名は死刑宣告にも等しい。
ぼくがまた仮面うつ病だと言えば、彼女がさらに落ち込むことは目に見えており、決して今後の治療にはいい影響を与えない。彼女は「うつ」と診断されたくないし、できれば違う病名を付けてほしいと思っている。
こんなことを考えながら、ぼくは彼女に診断を下した。
「これは仮面うつ病とは違いますよ」
「えっ!違うんですか?」
「違いますねえ。これは明らかに自律神経失調症です。仮面うつ病とは症状が似ているから、医者もよく間違えるんですよねえ。あはは」
「ああ良かった!本当に心配だったんです。これで安心しました」
実際、仮面うつ病と自律神経失調症を厳密に区別することは不可能であろう。だからこの診断も決して間違っているわけではない。
ともかく彼女は、この一言で落ち着きを取り戻し、その後の治療も順調に進んでいった。
(引用、ここまで)
・・・これもまた非常に示唆に富むケースです。ここから得られる教訓は大きく二つです。
一つは「病名付けは正確さよりも、相手の治療につながることを優先すべき」ということ、もう一つは「患者の背景を知らない限り患者にとって良い病名は知りようがない」ということです。
もしも、このケースのように、患者が「うつ病」を非常に恐れているという背景を全く知らない状態で、診断名を仮面うつ病にするか自律神経失調症にするかを迷っていたとすればどうでしょうか。
それは、より現状を正確に表現しているであろう「仮面うつ病」の方を選択するのが妥当と考えられると思います。ところがこのケースの場合、結果的にその選択は大間違いであるわけです。
そうなってくると、この「病名」をつけるという行為を行うのに必須の作業は、検査よりも患者の背景を詳細に聞き出すことに尽きると思います。検査はあくまでも補助的な存在です。
普通に行われている病院医療ではむしろその逆です。客観的な情報を提供する検査を重視し、患者背景はさらっと確認する場合がほとんどです。精神科診療であれば背景も深く聞きますが、何らかの精神疾患の診断名がつくのが落ちで、黒丸先生のような治療アプローチにつなげる精神科医はおそらくほとんどいないのではないかと思います。
その意味で従来の病院医療の文化が、患者の治療に貢献しないどころかむしろ悪化させる構造を有しているという点に注目することは極めて重要なことだと私は考えます。
また同時にこのことはオンライン診療の可能性を拡げる話だとも思っています。オンライン診療ではじっくり話を聞く余地がありますし、必然的に検査に頼りにくい環境があるからです。
「検査をする」という行為は、ある意味で目の前の患者を見えなくさせる行為でもあるのかもしれません。客観的な検査結果を入手することによって、その検査データに基づく現代医療の価値基準に応じた「病名」というレッテルが貼られ、本来のその患者さんの状態が色眼鏡で見えにくくなるという側面があるからです。
勿論、検査をしなければ「病名」をつけるのも難しいかもしれません。しかし患者さんの不利益になるくらいであれば、そんな「病名」はそもそもつけなくてもいいんじゃないでしょうか。
「病名」をつけるのであればそれは常に患者さんのために行われるべきであって、客観性(正確性)よりも主観性(本人の視点)を重視するものであるべきだと私は感じた次第です。
最後に今回の話をまとめます。
・病気の原因には患者の価値観が深く関わっていることが多い
・患者の価値観を深く理解するために必要なことは検査よりもコミュニケーション
・相手の価値観を否定すると治療上ろくなことにはならない
・相手の価値観が症状がどのようにつながるかという流れを想定し、決して噓ではない解釈で相手の価値観を認める
・相手の価値観が認められ、わだかまりが消え去ると、自己治癒力が発動される
ただ実はこの方法は万能ではありません。
本書の非引用部分にも書かれていましたが、相手の価値観がわかりそれを認めても必ずしも治癒力が発動されないこともあります。むしろ認めれば認めるほど悪くなってしまう構造さえあるように思います。
しかし、少なくともこうしたケースがあるということは、医師としてしっかりと心に留めておく必要があると思いました。
たがしゅう
Author:たがしゅう
本名:田頭秀悟(たがしら しゅうご)
オンライン診療医です。
漢方好きでもともとは脳神経内科が専門です。
今は何でも診る医者として活動しています。
糖質制限で10か月で30㎏の減量に成功しました。
糖質制限を通じて世界の見え方が変わりました。
今「自分で考える力」が強く求められています。
私にできることを少しずつでも進めていきたいと思います。
※当ブログ内で紹介する症例は事実を元にしたフィクションです。
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コメント
これは諸刃の剣ですよ。
これは諸刃の剣ですよ。
場合によってはこのおばあちゃんがバス会社に訴訟を起こすかもしれません。
そうなると、止めるのに周りの者が大変苦労する事になります(経験有り)。
第三者に迷惑がかからないよう、細心の注意を払うべきです。
No title
いつも読ませていただいて自分と家族の生活に活用させていただいています。
今回も非常にためになりました。
現在、新型コロナも過去最悪の感染者数になり、重症者も増えています。私はたがしゅう先生のブログの読者ですから必要以上に恐れてはいませんが、これだけ日本中が騒いで怖がっているとコロナそのものよりも普通の社会生活に悪影響が出るのでそちらの心配をしています。
PCR検査をやめてしまえば、とも思います。多くの人が無症状か軽症であるこのコロナに重大な有毒性があるとは私も思えません。政府やマスコミがコロナの脅威を冷静に分析せず、恐怖のみを煽るから、PCR陽性と言う結果を聞かされた人が精神的に落ち込み、ダメージを受け、免疫暴走を自ら引き起こし、重症化してしまうのではないかと思います。
PCR検査をやめると言うのは無理なのでしょうか?新型が出る前にPCR検査をしていたら旧型コロナの感染者数もものすごかったような気がします。
Re: これは諸刃の剣ですよ。
コメント頂き有難うございます。
これはとても重要なご意見と思います。
私自身、気づかぬうちに視野が狭くなってしまっていたようです。
確かに医者がバスガイドのせいだと手放しで認めることは、患者さんにとってよくともバス会社の立場からすると大迷惑な話です。
実際のご経験もありとのことで説得力もあり、無視できない問題であるように思います。
一方でバス会社に迷惑がかからないように、例えば「あなたがそのように怒り続けることがめまいの原因」という説明を行ってもおばあさんには全く届かなかったということは同時に本書の中で書かれていましたから、バスガイドのせいにせずにおばあさんの心を動かすことは難しいようにも感じられます。
さて、あなたがもし医者の立場であれば、どうしますか?患者優先で考えるのか、社会のバランスで考えるのか?
ちょうどコロナ禍における問題と同じ構造の問題であるようにも思えます。
重要なので、この問題はブログ記事の方でもう少し深めてみたいと思います。
Re: No title
コメント及びご質問を頂き有難うございます。
> PCR検査をやめると言うのは無理なのでしょうか?
今回のコロナ騒動の源流部分にPCR検査への誤解があるということは私もその通りだと思っています。
だからPCR検査をやめれば今回の騒動は収まるのではないかという考えに至るのもごもっともだと思います。
しかしよくよく振り返ってみればこうした問題を起こす素地は、コロナ前からあったということに気がつきます。
例えば、がんというものに対する医学の認識です。
「がん」とは遺伝子の異常が引き起こした無秩序増殖性の悪性細胞であり、早期発見・早期治療が重要だとするこの文化です。
この文化が広く人々の中で受け入れられているが故に、私達はせっせと健診に励み、早期で発見できて早期に切除できれば喜ぶし、末期がんとなってしまえば悲しむという状態にあると思います。
ではこのがん細胞を発見する検査に問題があるとして、がん健診をなくせばこの文化は消え去るでしょうか。
おそらくそんなことはなく、人々は今までと同じようにがんを恐れるし、別の何らかの方法でがんを発見しようと、いや発見してもらおうとするのではないでしょうか。
PCR検査についても同じことが言えます。たとえPCR検査を行わなくなったとしても、コロナというものを何か自分を苦しめる恐怖の病気と捉えている限り、また別の検査を求めるし、依然としてコロナを怖がり続けてしまうと思います。
従って、問題は検査そのものよりも私達の考え方そのものだと思います。そこが変わらないと問題の構造は変わりません。
端的に言えば、「病気外因論」と「病気内因論」の立場の違いです。今までの医学は「病気外因論」の立場にあまりにも強く傾き過ぎてきたように私は思うのです。
逆に言えば、私達の認識が「病気内因論」、すなわち「病気とは自らの行動・思考の反映である」という形へと変われば、PCR検査やがん健診がそのままであったとしても、個人の中では一気にこの悪しき文化から解き放たれることになると思います。つまりコロナを恐れなくて済みますし、がんを怖がらなくて済み、すべてを自分の中での行動や思考の帰結として受け入れることができるようになります。
問題はその後変わらない世界と自分達がどう向き合うかですが、ここにおいては個人の価値観が大きく関わってきます。私はここに多様な価値観と触れ合うことが特に大切だと思い始めています。
No title
以下引用です。「多様な価値観と触れ合うことが特に大切だ」
自分も、この通りだと思いますし、これに対する寛容さが無くなっていることに不安というか危惧を感じています。
情報が私たちの咀嚼限界を越えて流通している中では、一つの流れに盲信した方が心が安らぐと思います。
でも、時にそれに棹差すような発言も(未だ散見できていますが)私は概ね好ましいと感じます。その是非を問うことは欠かせませんが、否とした意見をされた方に対しても、人格的には尊重することを忘れてはいけないと思います。
Re: No title
コメント頂き有難うございます。
> 情報が私たちの咀嚼限界を越えて流通している中では、一つの流れに盲信した方が心が安らぐと思います。
そうですね。情報の種類が多すぎてどれを選べばいいか分からなくて、自分の価値観に合った声の大きい人の意見に従って思考停止になるという構造はさもありなんです。
> 否とした意見をされた方に対しても、人格的には尊重することを忘れてはいけないと思います。
これも重要なことだと思いますが、しばしばこれを忘れがちです。
またある問題に対してその人の意見へは否だったとしても、別の問題に対してのその人の意見へは賛であったりすることも多々あると思います。
だから相手への敬意を常に忘れてはならないと思う一方で、現実的にはとてもじゃないけれど敬意を払うのが難しいような荒れた言葉遣いをされる方がいることもまた事実です。
理想通りにはいかないゆらぎを含む世界の中で、それでもできる限り多様性を受容しながら自分の思考の樹を育てていくことが、本当に自分の人生を自分の足で歩いていけるようにするために大切なことだと私は思います。
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