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「こども」:たがしゅう哲学カフェ in 秋葉原の御報告〜前編〜

category - たがしゅう哲学カフェ
2019/ 04/ 21
                 
2019年4月20日(土)、おなじみとなりました「たがしゅう哲学カフェ」を秋葉原で開催して参りました。

今回のテーマは「こども」でした。実際にお子さんがおられる方もおられない方も、

誰もが誰かのこどもだということがまずありますし、

あるいは血縁のある実子という概念にもとらわれずに、

広く「こども」ということについて参加者の皆様と自由に語って参りました。

今回も記憶の新しいうちにアウトプットしておきたいと思います。
            

まず話は、こどもには何歳以下の人が「こども」とみなされる絶対的基準に基づく見方と、

この人はある人にとってのこどもではあるけれど、あの人にとってはこどもでも何でもない、というような相対的基準に基づく見方の二種類があるという意見が出ました。

私達が「こども」と言われて一般的にイメージされやすいのは、例えば学童と呼ばれる小学生以下の人達のことを指すのではないかと思いますが、

例えば50歳の人でも80歳の親にとっての「こども」だったりしますので、

そこの言葉の定義をはっきりしないと議論が混乱するおそれがあるというなかなか鋭い指摘もありました。

確かにそこは大事で、仮に今、前者を「絶対的こども」、後者を「相対的こども」と呼ぶならば、

今どっちの話をしているのかが把握できていないと折角の対話がちぐはぐになりかねませんので、最初から迷走しないようにするための良い指針となりました。

と同時に「絶対的こども」と「相対的こども」の共通性についても深掘りしていっても面白そうだということも感じました。

それを踏まえた上でまず「絶対的こども」について、「とにかくそこにいるだけで理屈抜きで明るさや希望をもたらしてくれる存在」だという意見が出ました。

例えば、過疎の村に赤ちゃんが産まれるだけで、あるいは高齢者施設のデイケアで幼稚園児が簡単なお遊戯を披露してくれるだけで、

大人がどれだけ頭をひねって戦略を立てても成し遂げることの出来ない嬉しさや盛り上がりなどのポジティブな要素が生まれるのだといいます。

一方でこのポジティブさは「こども」がいる場所によっても違ってくるかもしれないとも思いました。

これが例えば中学校で幼稚園児がお遊戯を披露しても、デイケアで披露する時ほどの感動はおそらく生まれないのではないかと想像されます。

だとしたらそこの感動の違いはどこから生まれるのでしょうか。

すると別の方から「人間は死に近づいていくとこどもに近づいていく側面があるのではないか」という指摘がありました。

確かにこれは医学的に見ても例えばある種の前頭葉という脳の部位の機能が低下する認知症では、

いわゆる「こども返り」と呼ばれる現象が実際に起こったりもします。

いやそのような病的な場合に限らず、年を取って老化に伴い身体の能力が低下していくにつれて、

これから身体の機能が向上していくこどもたちに対してある種の共鳴感が生まれるのかもしれません。


そこから話はいわゆる親と子の関係から見る「相対的こども」の話へと移っていきました。

ある人にとっては「こどもは自分を成長させてくれる存在」であり、

またある人にとっては「こどもは自由に生きてほしい存在」であり、

さらにはこどもの概念を実子に限らず養子であったり、孤児であったり、

芸術や芸能などの世界でみられる師匠と弟子の関係性も「親と子の関係」として広げて考えるならば、

こどもは「自分の想いを託す存在」とみなすという意見もありました。

ただここで私は思いました。かたやこどもは想いをたくすための存在で、

その一方では託すのではなく自由に生きてほしい存在だとするのならば、

これらは矛盾するように思えます。さりとて互いに間違っていることを言っているようには到底思えません。

この矛盾はどのように考えられるのでしょうか。

そんな疑問を投げかけてみると、ある人からこんな意見がありました。

「こどもは幸せになってほしい存在ではないでしょうか」

この意見、私は非常に腑に落ちました。

幸せであってほしいから想いを託したいし、

幸せであってほしいから自由に生きてほしい、

そしてそんな存在をみていて自分自身が育てられるし、

私達は無条件で希望や喜びといったポジティブな感情を刺激されるのではないかと、

これまでの議論が一本の線でつながったような心地良さを感じることができました。見事な弁証法だったと思います。

ところが実は議論はこれで終わらずに、

そんな幸せであってほしい存在であるはずのこどもに対して、

世の中で親が虐待するというニュースを耳にするのは何故なのかという疑問へと対話は展開していきました。

この問いに対してもカフェの時間内で非常に考えさせられる良い意見が出たのですが、

長くなりますので、ひとまず後半へ続くとさせて頂きたいと思います。


たがしゅう

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