統合失調症とは主体性が失われた状態である

2021/07/23 06:00:00 | オープンダイアローグ | コメント:0件

以前より私はオープンダイアローグと哲学カフェの「対話」という手法の共通性に注目しています。

どちらも「対話」という手法が基本となって行われるもので、

何か特定の結論を導いたり、多数の意見の中のひとつに固めようと集約させようというのではなく、逆に集約させずに多様な意見を出し合い、その多様性に触れ合える環境を人為的に作り出しています。

要するに目的を持たない行いです。それだと開催する意味がないではないかと思われるかもしれませんが、そうではありません。

多様な意見に触れ合うことで、自分の新たな側面に気づかせるという狙いがあります。

目的と狙いは似て非なるもので、目的は「〇〇するため」ですが、狙いは「〇〇になればいいなぁ」といった感じです。

オープンダイアローグにしても、哲学カフェにしても、目的は持たないけど、何か起こることを狙うという意味でとても似ているのです。

ところがある人がこんなことを言いました。「オープンダイアローグは病気の人に対して行うもので、哲学カフェは健康な人に対して行うものです。同じ対話でも意味がまるで違いますよ。

・・・はたして本当にそうなのでしょうか。 オープンダイアローグの価値を象徴的に表す情報として、この手法が「統合失調症の急性期の患者に用いられて精神を安定させることができた」というフィンランドのケロプダス病院における実績があります。

この情報のすごさを理解してもらうためには、「統合失調症」という病気のことについて知ってもらう必要があります。

「統合失調症」は精神科領域における重要疾患概念の一つですので、少し畑違いではありますが臆せずにそこから学びを得るために、

あるいはオープンダイアローグにおける「対話」を深く理解するために、まずは「統合失調症」という病気について私なりに解説してみたいと思います。


「統合失調症」とは、一言で言えば脳の中でこころや考えがまとめられなくなってしまう病気を指します。

一昔前までは「精神分裂病」と称され、よりこの病気の特徴を反映していたように思われましたが、言葉に差別的なニュアンスが含まれるということから2002年より「統合失調症」へと呼び名が変更になった経緯があります。

何が「分裂」するのかと言いますと、大きく2つあります。

①現実と自分がつながっている感覚
②自分の中での善に感じる部分と悪に感じる部分


①が分裂するということは、今実際に現実で起こっていること以外のことも現実的なこととして感じられてしまいます。

例えば、宇宙人のことを想像したら、それがリアルに感じられて「宇宙人が襲ってくる!!」ということを本人にとって現実のことのように感じられ、これを医療者は「妄想」や「幻覚」と表現します。

②が分裂すると、自分の中で正直に考えているとつい感じてしまう悪い側面が自分自身の考えであると気づかなくなって、誰かに思考を読まれていると感じたり、誰かが悪い考えを吹き込んでくるように感じたりします。こうした現象に「思考吹入(しこうすいにゅう)」とか「考想化声(こうそうかせい)」などとそれぞれ名前がついていたりしますが、要は自分の中で生まれる感情が自分という枠を飛び出して行ってしまうということの現れです。

このように健康な人からすると「あるはずのないことが起こっている」という統合失調症の症状のことを「陽性症状」と呼びます。

逆に統合失調症には「もともとできるはずのことができなくなる」という「陰性症状」と呼ばれる症状も出てきて、「陽性症状」と混在したりする場合があります。

「陰性症状」というのは例えば、不自然な姿勢でずーっと硬直したまま動かなくなる「昏迷(こんめい)」と呼ばれる状態があります。動きませんが意識はあって、あとで動けるようになってから「昏迷」中の時何を感じていたかなどを尋ねることもできます。

そして例えば昏迷中に何を考えていたかを聞くと、「自分が少しでも動いたらそのせいで世界が壊れると思っていた」というようなことを言ったりされます。このように自分という人間の主導権がどこか他に移り、誰かに何かをさせられている感覚で動くことを「させられ体験」と表現することもあります。

他にも「陰性症状」としては感情が鈍くなったり、「緘黙(かんもく)」といって硬い表情で何もしゃべらなくなるような状態も挙げられます。


そして生理学的には統合失調症の人の脳の中でどういう状態が起こっているのかと言いますと、「陽性症状」には主にドーパミン過剰が、「陰性症状」には主にセロトニン不足が関わっているとされています。

とは言えそれはあくまでも仮説で、実際に脳の中で起こっていることはそこまでシンプルな話ではないと思いますが、一つにはドーパミンの働きをブロックする薬が統合失調症の「陽性症状」を押さえやすいという事実があり、またセロトニンを高める薬を使うと「陰性症状」が少しだけ改善するという事実も観察されることからそのようなことが言われています。

また逆にドーパミンが少なくなる病気は当ブログでもよく取り上げる「パーキンソン病」ですが、「統合失調症」の「陽性症状」を抑えようとドーパミンをブロックする薬を使い過ぎると、薬の副作用でパーキンソン病のようになってしまうこと(薬剤性パーキンソニズム)がよく知られていますし、

逆にパーキンソン病の患者に対してドーパミンを高める薬を使い過ぎると幻覚や妄想といった「統合失調症」の「陽性症状」にも似た症状が出ることも多いので、そういう意味でもこの仮説には一定の説得力があるかもしれません。


さて、「統合失調症」は、医学の中でありがちなことですが、例にも漏れず原因不明とされている病気です。

原因不明なのですが、精神疾患の中でも専門性が高く、前述のような薬を適切に使用しないと人格荒廃に至ってしまうので素人は手を出さずに直ちに精神科へ紹介すべき病気だというのが医療の中での共通認識です。

実際、精神科専門医が向精神薬を投与し続けることで、社会復帰が可能になった患者さんもいると聞きます。一方で投薬を止めると、再発率が高い病気とも言われているので、「統合失調症」の薬物療法は一生続けなければいけないとも言われています。


私はかねてから精神科の投薬アプローチには大きな疑問を抱いていますが、今改めてこの「統合失調症」という病気のことを眺めた時、そしてオープンダイアローグという手法で全く薬を使わずにその症状を改善させた事実を踏まえた時に、

この原因不明の「統合失調症」という病気の、今までは気づかなかった新たな側面が見えてきました。

それは「統合失調症」という病気の、「健常人とのつながり」の側面、そして「主体性が著しく失われた状態」だという側面です。

前回も「主体性が失われた状態」について考えましたが、「統合失調症」におけるそれは、前回のレベルを遥かに超えた、言わば「主体性の喪失の究極形」とも言えるかもしれません。

何しろ「主体性」というものが芽生えるためには「自分」という意識が最低限必要です。

しかし「統合失調症」では、その「自分」という意識さえ放棄して、自分でないものを自分と感じたり、逆に自分の中にあるものを他人と感じてしまう混乱が起こっています。

あたかも「非自己」を過剰に攻撃する「アレルギー」や「自己」を「非自己」と誤認して攻撃する「自己免疫疾患」の病態とリンクします。

そんな「統合失調症」における混乱状態が「脳の病気によって引き起こされている」と考えるのが現代医学の捉え方ですが、私は「脳の病気」でそうなっているのではなく、脳が病的に酷使された結果、「統合失調症」と呼ばれる状態が引き起こされていると思うのです。

ではどんな風に病的に酷使されているのかと言いますと、ヒントになるのはやはり「ストレス」です。

「統合失調症」の初期には、世界が漠然とした不安につつまれる「妄想気分」と呼ばれる症状が出ることがあると知られています。

これは具体的には町を歩いていて、電柱が自分に向かって倒れてくるかもしれないとか、大きな重機のクレーンが自分に向かって落ちてくるかもしれないという何となくわからないでもない感覚から、

周りの人が急によそよそしくなり、さらには陰謀的な策略を図られていると想像してそれが現実的に感じられたりして次第にエスカレートしていくといいます。

何が言いたいのかといいますと、きっかけは誰にでもあるような思考パターンに始まっていて、それがどんどんエスカレートすると「統合失調症」と呼ばれる状態につながるという、健常状態との連続性があるということです。

つまり「統合失調症」において病的に酷使している脳のシステムは不安・恐怖をベースとする想像力です。

最初は自分の中から生み出した想像だとわかっていたのが、次第に「自分が生み出した」という意識が薄れて、想像した事象そのものに注意が向かい続けて、

最終的に自分の中から自分が消えて、自分の中で生み出しているものさえ何か別のところから来る感覚として考えられるようになってしまう、これが「統合失調症」において脳を病的に酷使するということの大まかな流れだと思います。

言い換えれば、特定の不安・恐怖ベースの価値観に基づく想像により、視野が極端に狭まって自分を見失ってしまった状態とも言えるかもしれません。

また「統合失調症」の「陽性症状」は精神機能の過剰適応状態で、「陰性症状」は精神機能の消耗疲弊状態だと捉えれば、

再発を繰り返したり、次第に人格荒廃へと移行していく経過は、セリエのストレス学説にならった私の仮説における可逆的な過剰適応から不可逆的消耗疲弊へと移行していく流れと見事にリンクします。

そしてドーパミンをブロックする薬で「統合失調症」の「陽性症状」を抑える行為は、あたかも高くなった血圧を降圧剤で下げる行為とリンクします。

どうりで一生飲み続ける必要があるはずです。根本的な原因に何も対処していないわけですから。


話を冒頭に戻して、「病人に対して行うオープンダイアローグと健常者に対して行う哲学カフェは本質的に同じものなのか、違うものなのか」という疑問に立ち返ってみますと、

「オープンダイアローグで統合失調症の患者の急性期状態が落ち着いた」という事実が答えを示しているように私には思えます。

私の答えは「病人と健常者には連続性があり、対話の本質は対象が誰であっても変わらない」です。

むしろ、対話を対話でなくさせるのは「この人は病気(病人)だから特別な対処をした方がよい」という先入観の方だと思います。

たとえ「宇宙人に襲われている」というような一般的には理解し難い内容の話を聞いたとしても、そのような考えが生まれた背景、自分にも十分ありえる話の流れとして受け止めて「対話」を行うことは、単に表面的に話を合わせることとは次元の違う、相手を平等な立場で尊重する姿勢を示せるのではないでしょうか。

きっと「統合失調症」がオープンダイアローグでよくなるのは、病人として対話するのではなくそのように平等な立場で「対話」することによって、今まで見えなかった視点に気づきやすくなるからではないでしょうか。

勿論、冷静に対話ができない状況というのも確かにあると思います。自分や他人に危害を加えうる状態というのも起こり得ます。

ただそれは少なくとも「病気だから」ではないと私は思います。むしろ「相手の尊厳を乱す何かがあったから」と考える方が近いと思います。

そうだとすればそれは病気であろうとなかろうと、誰にでも起こりうることだと思います。

この病気と健常との連続性、そしていずれも自分自身であるという構造が理解できたとき、

オープンダイアローグや哲学カフェが基本におく「対話」の可能性は限りなく広がっていくように私には感じられます。

…そんなことを考えていると、私以外にも「統合失調症」と「主体性」との関係を考えている人がいると気づきました。

大事なことなので、この話題もう少し続けたいと思います。


たがしゅう
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