社会はなぜ不寛容になってきているのか
2021/08/29 08:25:00 |
オープンダイアローグ |
コメント:2件
先日、オンラインでオープンダイアローグにふれあう会に参加していて感じたことがあります。
今日本の社会全体が他者に対して不寛容になってきているように思うのです。きっかけは明らかにコロナ禍です。
コロナ前にもむやみに他人の言動をとがめたり、クレーマーと呼ばれる人は確かにいました。しかしコロナ禍と呼ばれるようになった今、そうした人達の割合が明らかに増えてきていると実感される出来事を多くの人が経験しているのです。
例えば、電車内でマスクがずれて鼻が出ている状態を厳しく注意してくる人、スーパーのレジ前で距離を並んでいた際に少し距離が詰まっていたのに対し払いのけるジェスチャーをやってくる人、
おそらくそういう人の中には「社会のルール」「みんなが守らないといけないこと」という意識があって、その規範を守っていない人のことがどうしても許せなくなってしまうのだろうと思います。
その背景には「コロナが非常に恐ろしい感染症である」という意識があり、だからこそ「みんなで協力してこの感染症を封じ込めなければならない」という意識につながり、それらの注意行動をもたらしているんだろうと思います。
今回はコロナ前にもいたであろうこうした人達が、それまで以上に増えて感じられている理由を考えてみます。その上で、この社会の中でどのように生きていくのが望ましいかについても考えてみたいと思います。 コロナを経て、規範を守らない注意行動をとる人が増えた背景には、「その規範を作る常識がどれだけ社会の中で受け入れられているか」という要素がまずあると思います。
今回の場合、それは「コロナは恐怖の感染症である」という概念です。もっと言えば、「感染症」という概念自体が近代科学が進歩し、抗生物質の開発による成功体験もあいまって、多くの人に確信的に信じられている概念だと思います。「病気は病原体によって引き起こされる」という概念が、です。
そうした「感染症」という概念の大きな後押しを受けて、今回新たに生み出された「新型コロナウイルス感染症」という概念は様々な矛盾をもたらしながらも、その都度「無症状感染者」とか、「変異株の台頭」などの新たな概念の創出によって表面上の矛盾の解消しながら、多くの人にとって依然として信頼される概念のまま、「社会に感染症を広めてはならない」というルールが受け入れられている状況にあると思います。
コロナ前はそうした「感染症」に対して、「みんなが守られなければならない感」はそこまで大きなものではなかったはずです。インフルエンザはうつしてはいけないという意識はあるものの、家族や会社といったコミュニティに決定的なデメリットをもたらす出来事としては認識されていませんでしたし、
今ほどマスクやワクチンを受け入れる人が多いという感じでもなかったと思います。それが真偽はともかくPCR検査の世界規模での実施によって「世界中に蔓延した新興ウイルス感染症」というイメージが創出され、それが人々の中に強固に信じられる状況を生み出してしまいました。
この強固のイメージの世界的な拡がりが、他者へ不寛容となる人々の割合を一層増やし、一人ひとりの不寛容行動の強度も強めてしまっているように私には思えます。
こうした社会になってしまった時に、個人の防衛行動、言い換えればいかに個人が自分らしく生きるようにするかということについての戦略も見直さざるをえなくなってきます。
今までであれば、「まぁそんな人もいるよね」といって受け流せていたようなことも、自分としては普通に生活しているだけのつもりでも、他者からみれば「ルールを逸脱した社会不適合者」として見られ、攻撃的な注意行動を再三受けるようになってしまうのだとすれば、実際的に受け流す行為を行うこと自体も難しくなってくるからです。
こうしたことに巻き込まれないようにするための一番おおもとの原則としてはまず「常識を疑う」ということです。前提となっているルール、社会規範がそもそも正しいのかということについて疑ってみることです。
コロナに関して私はこれを幾度となく行い、「感染症」そのものについての概念も、成功体験のある「細菌感染症」についてでさえ疑ってきました。その結果、「感染症は病原体によって引き起こされる」ではなく、「感染症は非自己抗原に出会った時に異物除去反応を適切に駆動できない宿主のシステムの乱れによって引き起こされる」という概念の方が現実に起こっている現象を矛盾なく説明することができるということに気づくことができました。
その思考プロセスがあるが故に、現在の社会の中で規範とされている「マスクをつけなければならない」とか、「ワクチンを接種しなければならない」というルールをおおいに疑うことができるわけですが、
皆が皆、そんな思考プロセスを歩むはずもなく、現実には常識的な規範が採用されて、それを守ることを正義のように解釈している人が大多数です。そういう社会の中で生きていかなければならないという動かしがたい事実と向き合っていく必要があります。
こうした状況の中で、私達が常識に巻き込まれないようにするためにどのように生きていくべきかについて、オープンダイアローグの対話の中で出てきた意見も踏まえてまとめてみたいと思います。
まずは常識的な価値観を元に攻撃的な注意行動をしてくる人と遭遇したら、相手の強い価値観に配慮を示し決して戦わずにその場を逃げるように離れるということです。
必ずしも共感する必要はありません。「すみません」と言って直ちにその場を離れる行動で十分です。なぜならば強固な価値観を持った相手を説得することは不可能で、相手には自分が「社会不適合者」として映っているので、相手に「正義は勝つ」を実感してもらえればそれでいいからです。
次に人が誰かを攻撃するという時は、自分よりも弱そうな相手に対してそのような行動をとりやすいという原則があるので、あまり弱々しい姿を見せずに堂々としておくということです。
具体的には背筋を正して胸を張って歩くこと、シャキシャキと早足で歩くこと、元気になること、体調をよくすること、わくわくする何かを考えること・・・、
そして自分は誰も攻撃しないように心がけることです。攻撃する人は攻撃されてしまうというのもいつの時代にも通じる大きな原則だと思います。
そして先ほど攻撃的な注意行動をする人からとりあえず逃げると言いましたが、自分が人生の中で堂々と行っていることは突き詰めればそうした攻撃的な人さえ含めた全人類のためという意識で生きていくということです。
言い換えるならば、「今はわかってもらえないかもしれない、けれどいつかはわかってもらえるといいなという意識で生きていく」ということです
そう考えることで、こちらが攻撃的になることを予防できますし、攻撃的とまではいかなくても意見の異なる相手のことを受け入れやすいですし、何より「自分がこの世に生きていることの意味」を感じやすく、「生きていていいんだ」と思いやすくなるように思うのです。
生きている意味なんてないという意見も根強いですが、少なくとも生きている意味を自分で持つかどうかは自由です。
きれいごとに感じられるかもしれませんが、そんな風に生きていけば、たとえどれだけ社会が不寛容になろうとも自分の人生の指針を見失わずにすむように私は思います。
読者の皆さんはどのようにお感じになられますでしょうか。
たがしゅう
プロフィール
Author:たがしゅう
本名:田頭秀悟(たがしら しゅうご)
オンライン診療医です。
漢方好きでもともとは脳神経内科が専門です。
今は何でも診る医者として活動しています。
糖質制限で10か月で30㎏の減量に成功しました。
糖質制限を通じて世界の見え方が変わりました。
今「自分で考える力」が強く求められています。
私にできることを少しずつでも進めていきたいと思います。
※当ブログ内で紹介する症例は事実を元にしたフィクションです。
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息苦しい(生き苦しい)世の中です。。。
「○○ハラはやめましょう」なんて言っているせいで、人を指導する時に「怒る・叱る・注意する」をきちんと選択することすらせずに、そもそもどれもしない管理者が増えています。
結果、ある人はちゃんと指導・教育されてもらっていないと感じて退職したり、ある人は業務内容が分かったような分からないようなふわふわしたまま仕事をした結果、とんでもないミスをしたり…。そのミスした人に注意して同じことを繰り返さなきゃようにしなくてはいけないところ、本人に罪を擦りつけて異動させる。本人は自分のミスなので訴えることもできない。
世の中の会社全てがこうではないと願いたいですが、それに近いものは確実に広がっているのではないかと感じています。
自分のごく身近な人たちは私と同じようにいまの世の中の有り様を『おかしい』と感じているので、そこで思いを共有しあって何とか心の平静を保っているような状況です。
本当に生き苦しい世の中です…
Re: 息苦しい(生き苦しい)世の中です。。。
コメント頂き有難うございます。
> 「○○ハラはやめましょう」なんて言っているせいで、人を指導する時に「怒る・叱る・注意する」をきちんと選択することすらせずに、そもそもどれもしない管理者が増えています。
なるほど、確かに通じるところがある問題ですね。
「○○ハラはやめましょう」は規範を根拠に自由に制限をかける行為です。
その規範が万人にとって有意義なものであればよいですが、そう感じられない人間にとっては制約でしかありません。ですが自分の自由を主張し戦うことの苦労と、大人しく引き下がり波風を立てないことの安定とを比較して、多くのその立場にいる人が後者を選択してしまっているのが実情でしょうね。モンスターペアレントやモンスターペイシェントに訴えられないよう無難な態度で接するようになることとも同じ構造がありそうですね。
仮に「それでも自由を主張する」という立場をとるとすれば、大きな衝突が起こるであろうことは容易に想像できるわけですが、衝突が起これば自分へのダメージも不可避です。ということは、そのダメージを押してでも自由を主張する方が利点があると思える時にのみ「自由を主張する」という選択をする価値が生まれるのではないかと思います。そしてその利点が誰にとっての利点かというのが大事で、「自分にとっての利点」ではなく、「全体にとっての利点」であるべきだと私は思います。そうであるからこそ孤軍奮闘にならずに、今までは旧体制についていた人達に「そう言われてみればそうだよね」という気づきを与え、結果的に理解者が増えて自由を取り戻す方向へ集団が向かうことへとつながっていくからです。ここを履き違えると「ただの問題児行動」に終わりかねません。
とは言え、「自由を取り戻す」というと聞こえがいいですが、そちら側の意見が常に全体にとって最善とは限りませんから、新しい選択肢が続けば、それに対する反対意見も次第に聞かれ始めて、また同様のせめぎ合いの中でさらに新しい選択肢が受け入れられる…、そういうことの繰り返しの中で失敗を繰り返しながら少しずつ社会を軌道修正していくより他にないのかもしれません。逆に言えば「生きにくい」と感じるということは今社会を変えていく価値が高い可能性がある時期だということの裏返しであり、衝突する価値が出てきているということなのかもしれません。記事の内容とは矛盾してしまうようにも思えますが。
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