むきだしの主体性を見失わない

2021/07/22 11:00:00 | 主体的医療 | コメント:0件

「死」というものが私の身近な生活からいつの間にか切り離されてしまっており、

しかもそれを取り戻せなくさせる受動的医療の概念が私達の心を支配してしまっている構造について前回お話ししました

要するに「自分のせいで死なせてしまったと思われてしまうかもしれない」という不安に多くの人が耐えられないのです。

それもこれも病気というものを「何か自分以外の別のものせい」にさせ続けてきた西洋医学の概念の影響が大きいと私は考えています。

ところで以前、医師でジャーナリストの森田洋之先生がかかれた「うらやましい孤独死」という本を紹介させて頂いたことがあります。

在宅診療の現場において、誰にでも訪れる死への覚悟があって、しかも家族や施設介護者も皆そのことを理解している状況であれば、周りからみて「うらやましい」とさえ感じられる安らかな死を迎えることができるという、そんな話でした。

そのようなうらやましい死は「認知症」であっても成し遂げることができるということを本の中では実例をもって示されていたわけですが、

よくよく考えると、「認知症」であることは主体的な「死」を遂げるために非常に重要な要件であるように思えます。

なぜならば、「認知症」と呼ばれる方々の中には「むきだしの主体性」があるからです。 「認知症」では、高次脳機能と呼ばれる脳の複雑な思考を担うはたらきの部分が衰えていると言われています。

この世に生を受け、最初から備わっている根源的な構造とは別で、人生の中で様々な経験を積んで、試行錯誤を繰り返しながら後天的に発達させてきた「あとづけの脳機能」という表現をしてもよいかもしれません。

大きな流れでみると、そのように人生の中であとから備わってきた脳機能から「認知症」では順に失われていくんですね。

逆に言えば、「認知症」であっても生まれた時から自身に備わっているような、五感や情動、不安・恐怖を感じる大脳辺縁系と呼ばれる部分のはたらきは最後の最後まで残ると言われています。特に「聴覚」が「聴性脳幹反応(ABR)」という形で死ぬ直前まで残っているという話は有名です。

あと残りやすいのは過去の記憶、しかも強固に繰り返されて当人の中で重要なこととして心に刻まれている記憶は重度の認知症にあっても残ると言われています。

多くの人にとってそれは住み慣れた家であったり、長く一緒に過ごしてきた人達であったりするので、その条件を整えやすい在宅診療の現場において当人の容態は落ち着きやすいのではないかと思います。

実は在宅診療におけるこうしたサポートは、「むきだしの主体性を大事にする行為」だと私は感じています。

「むきだしの主体性」とは、高次脳機能による修飾が一切なくなった、自分が人間として本能的なところからそうしたいと望んでいること、のことです。

「本能的」と書くと、野生動物の欲求のように思われてしまうかもしれませんが、少し違います。

人間として様々な概念に触れつつ、様々な経験を通しながら、試行錯誤の末にできあがってきた価値観の中の深い部分から来る欲求といった方が適切だと思います。

実は奇異に思われる認知症の言動もむきだしの主体性にもとづいていると言えます。

例えば、徘徊という現象は「家に帰りたい」という主体性を反映していますし、易怒性という現象は「ルールを押しつけられたくない」という主体性の裏返しです。

そもそも「ルール」という概念は人間として言語を通じて理解された共通認識として、後天的に生み出されているものです。

高次脳機能のフィルターが外れた認知症の方にとってみれば、ルールは本当にやりたいことを邪魔する存在でしかありません。

家に帰りたいというむき出しの主体性から来る行動も否定されれば、当人が怒りたくなるのも無理もないわけで、とりもなおさず認知症において大事にすべきことはこのむきだしの主体性を見落とすことなく把握して、それを大事にできる生活環境を整えるということにあるのではないかと私は思います。


そもそも人はどうして主体的でなくなるのでしょうか。

そんな風に主体性が最初から備わっているのであれば、どうして何がきっかけで主体性は失われていってしまうのでしょうか。

「主体的ではない状態」とはどんな状態かと言いますと、自分の中にある「むきだしの主体性」に目を背け続けている状態だと思います。

どうして自分の中の主体性に目を背けるのかと言いますと、高次脳機能が発達し、自分のことよりも社会集団の一員としてルールや価値観を守るという行動ができるようになるからです。

考えてみれば赤ちゃんとして生まれた時は誰だって傍若無人です。泣きたい時に泣き、寝たい時に眠り、おっぱいがあれば飲みたい時に飲みという生き方をしていると思います。言わば、むきだしの主体性がそのまま大事にされる時期と言えます。

しかし多くの野生動物でさえそうであるように、成長とともに集団の秩序を求められるようになります。それはおそらく生存確率を高めている動物としての本能的な行動でしょう。

人間はそこに言語による概念、概念から来る価値観を生み出し、他の動物とは決定的に異なる人間社会を生み出したという点が独特です。それによって他の動物には決してできない偉業も数え切れないくらい成し遂げてきましたが、その反面、人間社会の価値観はむきだしの主体性を見失わせるものであったとも言えるかもしれません

「排泄はトイレで行わなければならない」というルールがあるから、失禁が問題行為になるわけですし、

「人のものを盗んではならない」というルールがあるから、もの盗られ妄想が症状として認識されてしまうわけです。

むきだしの主体性に注目すれば、失禁は「出るものを出したい」という当然の欲求を果たしただけですし、自分が持っているはずの財布の場所の記憶がなくなれば家にいる人が盗ったのではないかと考えるのはごく自然な流れです。

結局、問題を問題と認識させているのは私達が人類の歴史の中で長い時間をかけて作り出してきた「価値観」という名のフィルターなのかもしれません。


西洋医学という概念は私達に様々な価値観を植え付けてきました。

「病気には必ず原因がある」
「原因を取りのぞけば病気は治る」
「病気の原因は医学を修めた医師に任せるべきである」
「医学の使命は命を守ることであり、医療従事者の行いは尊い」


考えてみれば、最初の「病気には必ず原因がある」というところまではよかったんです。

しかし病気の原因を自分ではない別のところに位置づけてしまったが故に、人間社会にしかありえない歪んだ認識を生み出してしまいました。

むきだしの主体性に注目すれば、病気の原因は外にあるのではなく、病気という状態が自分自身そのものだったことに気づくことができますが、

病気を自分の外にあるとみなした社会の価値観は、病気を「何か悪いものによってもたらされた是正すべき不適切状態」と認識してしまい、

本来は自分自身である病気の根源的な原因に目を背けさせ続けて、ついには「生命を終わらせたい」というむきだしの主体性を無視して、上記の価値観が結果的に患者へ苦痛を与え続ける延命医療へとつながってしまったのではないかと思います。


このように考えていきますと、「認知症」とは「むきだしの主体性を素直に表現できるようになった状態」だと言えるかもしれません。

私が提唱する主体的医療が、在宅医療のしかも終末期に近い状態でようやく一部だけ叶えられているということの背景には、終末期になってはじめてむきだしの主体性が露出してくるということが関係しているのかもしれません。

しかしそれでは医療はむしろ主体性を阻害する存在で、阻害しきれなかった時期でのみようやく主体性が大事にされるという、何というか非常に皮肉な構造になってしまっているように私は思います。

別に終末期医療の中にいなくとも、むきだしの主体性は高次脳機能という殻に包まれて誰の中にも存在しているはずです。

この中にある大事な主体性に気づくためには、社会の価値観というフィルターを見直す必要があります。

本当は自分はどうしたいのかという気持ちを症状ベースで気づき、その気持ちを分かりつつ社会の中でどのように生きていくかを他者との関わり合い、せめぎ合いの中で主体的に考えていく、

医療はあくまでもその流れを阻害せず、支える存在としてこれからは発展していくべきだと私は思います。

さあ、コロナ禍における医療の混乱ぶりをみて、

もう今の医療のままではよくないことに気づいていいはずです。

主体的医療の方向に舵をきりましょう。

実はそれは誰にでも、いまこの瞬間からできることです。


たがしゅう
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