「仏教」:小川仁志先生のオンライン哲学カフェ参加の御報告

2021/05/24 06:00:00 | イベント参加 | コメント:0件

恒例の小川仁志先生の哲学カフェに参加したので、記憶の新しいうちに感じたことを残しておこうと思います。

今回のテーマは「仏教とは何か?」というものでした。

「宗教」ではなく「仏教」に絞って哲学しようというのです。

というのも小川先生が最近お坊さんと関わる機会があったこともあり、

「仏教」の他の宗教とは違うオリジナルな部分に注目されてテーマとして取り上げられたようでした。

私自身も過去ブログで時々、仏教の本質に迫る感じについて取り上げたりもしていますし、

特に浄土真宗の開祖親鸞聖人の、同じ仏教の枠組みの中で常識を覆す発想などには大変深い学びがあると感じています。

そんな「仏教」の、他の宗教とは違う、「仏教」たるゆえんはどこにあるのでしょうか? 現役のお坊さんも交えた今回の哲学カフェ、おかげさまで「仏教」の漠然とした部分が整理されてきたように思います。

私が理解できたところで要点をまとめてみたいと思います。

「仏教」の始まりはインドで生まれたお釈迦様の思想が原点、その目指すところはこの世の全ての苦しみから逃れられるという「悟り」の境地です。

「仏教」自体はお釈迦様の直接の教えではなく、亡くなられた後に直接教えを聞いた弟子達がその思想をまとめたものがその大元となっています。

そして「悟り」を果たすために「三宝」と呼ばれる3つの要素「仏、法、僧」(ぶっぽうそう)があるというのです。

この3つについて、仏は「悟りを体現した理想の存在」、法が仏の教えの集大成、僧が法を学ぶ仏の弟子の集団だという理解が一般的なのだそうですが、

哲学カフェの中ではそれ以外の「仏・法・僧」の解釈を教えて頂きました。

それは”仏は「概念」、法は「現象」、僧は「主体」”というものです。

それだけ聞くと難しいかもしれませんが、私の理解で言えばこういうことです。

つまり人間が目指すべき理想像がそれなりに合理的な論理によって導かれていて、それを示す「概念」がまず存在します。「仏教」の場合それを「悟りの境地」と呼んだり、「涅槃(ねはん)」と表現したりしていますが、

他の「宗教」で当てはめるのであればいわゆる「神」がこれに相当します。

そしてその理想像に至るまでの教義(方法論)という形でどの宗教にも道筋が示されているわけですが、それは「概念」に向かって何か行動を起こした際に結果的に発生する「現象」の集合体だという見方ができます。

そしてその「現象」をどのように捉えるのかは、その宗教の枠組みにいる自分自身の「主体」によって定まるという構造があるということです。

まだわかりにくいかもしれません。ですが、この「仏・法・僧」という概念、「仏教」の中で生まれたものであるにも関わらず、

どうやらすべての「宗教」においてこの構造が含まれており、なおかつ興味深いことに「仏教」と他の「宗教」とで、この構造に決定的な違いがあるのだというのです。

つまり「仏教」は「仏」と「僧」が連続した存在で捉えるのに対し、他の「宗教」、例えばキリスト教やイスラム教などは、「仏」と「僧」は明確に区別されているというのです。

言い方を変えれば、「仏教」では「仏」を「自分の中にあるもの(内なるもの、人間の理想型)」に位置づけており、他の「宗教」では「仏(神)」を「自分の外にあるもの(他なるもの、人間が決して立ち入ることのできない絶対神)」に位置づけているということです。

今私が病気の根本的原因を自分の内側に求めるのが妥当であり、病気の原因を外側(病原体や栄養素欠乏など)に求める西洋医学的発想の医療には問題がある、と指摘している点とリンクしていて非常に興味深いです。

そして、さらに興味深いことに「仏教」において目指すべき理想像へ向かう方法に対して、「仏教」の開祖たるお釈迦様は「いくらでも変更してもよい」という趣旨のことを述べているのだそうです。

これはキリスト教における聖書や、イスラム教におけるコーランが絶対的な教義であって、それに従うことがすべてと捉えるようなスタンスとは大きく一線を画するスタイルではないかと思います(他の「宗教」について詳しいブログ読者の方でもし「解釈の誤りがある」と思われた方は何なりと御指摘頂ければ幸いです。)

哲学カフェの話題は「哲学と宗教」とはどう違うのかというテーマにも移っていきました。

このテーマに関して私は以前から、「哲学とは死ぬまで考え続ける(考えることをやめない)態度、宗教とは何かを信じ続ける態度」だという認識を持っていました。

ところが「仏教」の場合、目指すべき理想が先ほどのお釈迦様の「いくらでも変更してもよい」というものであるのであれば、

自分の納得のいくところへとお釈迦様の教えを参考にしつつも、それさえ時に変更を加えながら理想に向かっていくという意味で、非常に哲学に近いスタンスなのではないかと思うようになりました。

つまり目指すべき理想像を自分の外である「他なるもの」ではなく、自分の内である「内なるもの」に求めたことで「仏教」という宗教は「哲学」と限りなく近いスタンスに位置づけられるということです。どうりで哲学大好きの私が仏教に惹かれるわけです。

これで終われば私は非常にすっきりした気持ちで終わることができたのですが、そこは流石の小川先生、もう一つ私達をもやもやさせる質問を投げかけてこられます。

それは「死」というものに対する「哲学」と「仏教」それぞれの捉え方の違いについて、です。

というのも、「宗教」というのは「死」という科学的には解明不可能な事象に対して一定の見解を与える一方で、

そもそも「死」は存在するのかしないのかという点について、「成仏」や「涅槃寂静(ねはんじゃくじょう)」や「輪廻転生(りんねてんしょう)」などといった概念によってかえってあいまいにされているような感があります。

それに対して哲学における「死」の解釈は小川先生に言わせると明解なんだそうです。

例えば、哲学では「死」は「魂の不死」と捉えているというお話を聞きました。それの意味するところは軽く調べる感じでは私にはわかりかねたのですが、少なくとも哲学では「死」をこうであると明確に断じているという立場です。

本質的には同じような姿勢に思えた「哲学」と「仏教」における「死」というものの捉え方の違いはどこから生み出されるのかという問いについて考えさせられることになりました。

私はこの問いに対して、こう思いました。

「哲学はこの世に存在するもの(概念や論理も含めて)すべてを使って死というものを判断しており、仏教はこの世に存在しないものを設定して死というものを創造している」と。

言い換えれば「哲学はわからないものをわからないと認め、仏教はわからないものに対して仮定的な確信を与える」とでも言いましょうか。

哲学の方が素直なスタンスだという印象を受けるかもしれませんが、仏教のこのスタンスはよいことでもあり、悪いところでもあると私は思っています。

すなわち死は何も考えなければ誰にとっても大きな恐怖として君臨してしまうものであるかもしれませんが、

仏教はこのわからない死というものに対して、合っているかどうかは別として、そうだと確信できる仮定を与えることによって生の状態にある人達に死の恐怖を実質的にやわらげるという具体的な貢献をもたらしていると思うからです。

しかしながら、あくまでも仮定は仮定。これをよしとしてそのまま進むのか、その仮定ありきで進むことを決して認めないのかは、大きく人生の在り方が変わってくるのではないでしょうか。

そして両者は共存できるのでしょうか。共存できるような気もするし、そうでないような気もします。

ただ私の場合はどちらかと言えば、哲学のスタンスをよしとするかもしれません。

「死」という対象は極めて特殊です。なぜならばこれからどれだけ科学が進歩しても解明されようのないと思われる領域だからです。なぜならば人類史上、一度死んだ状態になってから生き返ってきた人はただの一人も存在しないからです。

そんな「死」を対象にした場合、仏教のスタンスは確かに一つの救いにはなるかもしれません。

しかしながら、それ以外の今はわからずとも将来的に解明されうるすべてのことについてわからないことはわからないと認め、そのまま考え続けるスタンスを持ち続けておいた方がいい、私はそんな風に思います。

今、コロナに対して世の中はわからないことをまるでわかったかのように解釈して暴走し続けています世の中に哲学が不足している証拠です。

少なくとも生の世界の「現象」は、生の中にあるものの中から生まれています。

その理由を説明する「概念」がすでに存在しているかもしれませんが、その「概念」はそれを捉える「主体」によっていくらでも変わりうるものだと思います。

それならば、生の中にあるものの中でわかることを基本にして疑問について考えて、その連続によって組み立てられていく論理によって、自分が最も信頼できる「概念」を構築していく生き方が最も妥当なのではないかと私は考える次第です。

・・・まずはマスクで防げていないのに、「マスクが効く」という前提で動いてしまっているスタンスを疑うところからはじめましょうか(^_^)


たがしゅう
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