苦難を乗り越えるために
2016/04/20 09:00:01 |
おすすめ本 |
コメント:6件
当ブログでは「自分で考える力」に重きを置いています。
先日は科学、哲学、宗教は「人間とは何か」について考える共通点がありながら、
それぞれにスタンスの違いがあり、永遠に考え続けるという哲学のスタンスに私は強い共感を覚えるという内容を記事にしました。
また糖質制限はなぜ効くのかという理屈を論理的に説明できるので科学的です。
科学というツールは揺さぶられようのない厳然たる事実として存在するので、何かを考えていく時に非常に役に立ちますし、他者へ説明する時の説得力もあります。
一方で事実はどうであれ、信じる所から出発する宗教に関しては「自分で考える」という視点と逆行している感じがするので、
3つのアプローチ法の中でも最も消極的なイメージを持っていました。
しかし、先日とある宗教書の存在を知ってから宗教に対する私の捉え方が変わりつつあります。
それは、「歎異抄(たんにしょう)」という仏教についての書物です。先日、NHKの「100分de名著」という番組でこの本が取り上げられ、非常にわかりやすく説明されていました。
もともと仏教の主流は修行や学問によって煩悩をなくし悟りを開くというものでした。
出家して世間と離れたところで難しい経典を読み込まなければ達する事ができない難行を行う事が是とされており、その修行は苦しく誰にでもできるものではありません。
しかし万人を救うとされているはずの仏教で、難行した人しか救われないという事にはじめて矛盾を感じたのが、後に浄土宗をひらいた法然(ほうねん)です。
法然は、それまでの僧侶が自分で努力をして到達しなければならないという「自力」の視点から、
それができない人も仏の力によって救われるべきだという「他力」の視点を新たに仏教へもたらし、有名な「南無阿弥陀仏」というお経を唱えることで難行・苦行ができない凡人でもその恩恵を受ける事ができるという「易行(いぎょう)」という方法を広めました。
そしてその法然の考え方に共感し受け継いでさらに発展させ、独自の仏教論を展開していったのが、後に浄土真宗をひらいた親鸞(しんらん)です。
歎異抄はその親鸞の考え方がまとめられた本なのですが、
それが今までの仏教の考え方とあまりにも違い過ぎる内容のため、批判や誤解をされやすい本という事でも知られてます。
どういう意味で誤解をされやすいかというと、上述の易行であっても救われる思想のみならず、例えば「悪人こそが救われる」というエッ?!と思うような、一見まじめに修行している人からすれば馬鹿馬鹿しく思えるような内容が説いてあるということです。
しかしそれは、人間というものの弱さを正直に捉えているからこその視点であり、だからこそ正道で人間は精錬潔癖であるべきだとするそれまでの仏教の教えと大きく異なる見解になったのだと思います。つまり歎異抄は仏教界におけるパラダイムシフトであったと言えます。
面白いのは歎異抄は自分で書いたのではなく、1288年頃に親鸞の門弟、唯円(ゆいえん)が記したという事です。
これは従来の心理学を批判し、自分で著書を残したのではなく、弟子たちがその思想を広めたアドラー心理学に通じるものがあります。
歎異抄についての解説を学んでいて私が思うのは、
親鸞は「人間は煩悩があって当たり前」、「殺生をしないと生きていけない現実もある」などと人間というものの悪い側面をごまかさず正直に捉えています。聖職とされる僧侶としてはなかなかできない行為のように思います。
そして親鸞は死ぬまで自分で悟ったとは言わなかったそうです。どこまでも正直な人であったと言えると思います。
けれどそんな親鸞の破天荒な教えのおかげで、従来の仏教では救われなかった農民・町民、あるいは殺生をしなければ生きていけない狩人や武士達、すべての人達の心が結果的に救われる事になり大きな支持を集めたわけです。
そういった事を踏まえて宗教というものの意義について改めて考えた時に、
確かに宗教というものは事実に基づいていない、あくまで空想に基づく考えであるので「信じるも信じないもあなた次第」といった地に足ついていない感覚がある点は否めません。
ただ、生きていれば俄かに受け入れがたい苦難や災難に巡り合う事があります。
例えば不慮の事故や災害などで一瞬にして肉親の命が失われたような事態です。
特に災害に関しては、昔の人はそのあまりにも理不尽な事態を神の仕業と置き換えて理解されてきた歴史があります。例えば、雷も「神鳴り」に語源があると言われています。
そうした出来事は今も昔も数限りなく繰り返されてきたはずで、その都度人は深い悲しみに直面してきたと思います。
そんな状況の時に「死んだら灰になるだけ」と科学的に説明した所で人の悲しみには何の役にも立ちません。
あるいはそうした事態をアドラー的に好意的に捉えようといったって、不可能とまでは言えないものの、なかなか厳しいものがあると思います。
天災と言えども、なんで自分がこんな目に合わなけれなならなかったのか、誰かに説明してもらわないと心の治まりがつかない状況ってあると思います。
そうした苦境において「いかなる状況でも万人が救われる」「身体は死せども魂は死なない」「輪廻転生」といった宗教の思想は、深い悲しみを受け入れるための力を与えてくれる事があると思います。
受け入れて心が治めることができれば、また歩き始める事ができます。そして再び歩き始めた時、その人は一回り強くなっていることでしょう。
私自身は特定の宗教を信じていませんが、肉親の死に直面しその葬式に出席した際に僧侶のお言葉によって悲しみが和らげられた経験があります。
人が直面する苦しみを乗り越えまた歩き始められるようになるために宗教というものが生み出され、発展されてきたのではないかと、そこの宗教の意義があるのではないかと私は思うわけです。
その意義においては宗教で言われている事が真実かどうかというのは必ずしも重要な問題ではありません。極端に言えば真っ赤なウソであったとしても、その人の心が救われるならばそれは良いウソなのではないかと思います。
宗教を盲目的に信じ、自分で考えなくなるというのはよくありませんが、
人生の苦難を乗り越えるためのテクニックの一つとして宗教を利用するのは悪くないかもしれません。
もう一つ面白いのは親鸞が90年という当時にしては長命の人生を生きたということです。
革新的な考えを持ちなおかつ長命であった、偶然にしては出来過ぎています。何か長命の要因が隠れている可能性があります。
なぜ親鸞が長く生きる事ができたのかという事を知るには、親鸞がはたしてどのような生活を送ってきたのか知る必要があります。
歎異抄、大変興味深い本です。
たがしゅう
プロフィール
Author:たがしゅう
本名:田頭秀悟(たがしら しゅうご)
オンライン診療医です。
漢方好きでもともとは脳神経内科が専門です。
今は何でも診る医者として活動しています。
糖質制限で10か月で30㎏の減量に成功しました。
糖質制限を通じて世界の見え方が変わりました。
今「自分で考える力」が強く求められています。
私にできることを少しずつでも進めていきたいと思います。
※当ブログ内で紹介する症例は事実を元にしたフィクションです。
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長生きの宗教家
親鸞も長生きですが、親鸞の教えを室町時代に広めた蓮如も84歳まで生きていますよ。
親鸞の師匠の法然も80歳近くまで生きています。
浄土真宗は、他の宗派とは異なっていて何でも許すところがあります。それが多くの人に受け入れられた理由でもあります。
宗教は信じることではありますが、法然も親鸞も従来の仏教の教えでは苦行を積まなければ救われないことに疑問を感じて、「南無阿弥陀仏」と唱えれば良いと当時の人々に言ってます。
疑問を持つか持たないかは、科学でも宗教でも同じなのかもしれませんね。
Re: 長生きの宗教家
コメント頂き有難うございます。
> 親鸞も長生きですが、親鸞の教えを室町時代に広めた蓮如も84歳まで生きていますよ。
> 親鸞の師匠の法然も80歳近くまで生きています。
ますます仏道において長寿の秘訣があるという事に確信を持ちます。
そこに糖質制限(辟穀)や少食が関わっているのではないかというのが私の予想ですが、調べてみて何か明確にわかればまた記事にしたいと思います。
> 疑問を持つか持たないかは、科学でも宗教でも同じなのかもしれませんね。
その通りで親鸞は宗教の枠組みの中で疑問を持ち、その事ときちんと向き合った人だと思います。
逆に科学的に考えようという時に、その前提に疑問を持たずに前提ありきで考えてしまう場面ってあると思います。
信じると疑う、この光と影のような対称的な行為は、常に緊張状態を保ちながら共存していくべき、という点で宗教と科学には本質的に共通する所があるのかもしれません。
私は小さな頃からずっと思っていたことがあり、「幸せになりたい」という願いはみな同じで、ブッダだってキリストだって、人々が幸せを見つける・気づくためにと色んな教えを残してくれたのに、宗派が違うというだけで憎しみあい、奪い合い、殺し合う。
今日も戦争が続く。
そんなことなら、一層、宗教なんてない方がましなんじゃないか?と。
日本人の私たちと外国の方との宗教の捉え方は全く違うとは理解していますが、いくら高い志があったとしても戦争をしてまで貫く幸せなどないと思うのです。
先生の記事と、話がそれてしまいましが、先生の記事を読み、また宗教について改めて考えさせられました。
Re: タイトルなし
コメント頂き有難うございます。
> 日本人の私たちと外国の方との宗教の捉え方は全く違うとは理解していますが、いくら高い志があったとしても戦争をしてまで貫く幸せなどないと思うのです。
その通りですね。
もとは人を悲しみから救うために生み出されたはずの宗教が原因で争いが生み出されるなんて悲しいことです。
宗教の本質を知り、その良い部分を自分の生き方に取り入れていきたいものです。
No title
EテレのSWITCHで渡辺謙×山中伸弥の回がありましたが、まもなく公開される映画『追憶の森』では、米国人科学者が富士の樹海で心の旅をする内容のようです。科学~哲学~宗教~心は世界共通のイシューですね
Re: No title
コメント頂き有難うございます。
> 仏教は「心の病院」であって心が健康な時には必要ない
なるほど、しっくりくる表現です。
確かに何かしらの悩みを抱えた時に宗教が利用されている場面が多いように思います。
科学と宗教は互いに対極にあるものかもしれませんが、わからない事をわかりたいと願う気持ちの上では共通しているのかもしれません。
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