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宗教と科学が合体した化け物

category - 素朴な疑問
2021/ 04/ 02
                 
前回の記事で、「嘘」をあばく「科学」が暴走し、世の中が過剰に「真実」化してしまっていると指摘しましたが、

そんな「科学」としばしば対立的に語られるものに「宗教」があると思います。

私は「科学」と「宗教」は真逆のようであって、実は本質的には同じ目的を持っていると考えています。

それはいずれも「人間とは何か?」「自分とは何か?」「人生とは何か?」といった根源的な問いに応えようとする試みであると思うからです。

そして両者のいいところを合わせて、永遠に考え続ける「哲学」のスタンスを私はよしとしているわけですが、

「宗教」というのは「嘘」だと考えることができるでしょうか。
            

というのも「宗教」の中で語られることは、必ずしも「事実」に基づいていません。

死後の世界についての言及がわかりやすいですが、「科学」ではこれを「わからない」と言うしかない所を、「宗教」ではまるで見てきたかのようにありありと語られていたりします。

死後の世界は本当にあるのかもしれませんが、少なくとも誰にもそれは確認されていませんし、宗教によって表現されている死後の世界は異なっていたりもします。

複数の描写が同時に成立することもないわけではありませんが、全く異なる描写であるとしたらどちらか一方が本当であったと仮定したとしても、他方が「事実」ではないという可能性が濃厚になってきます。

ただここで大事なことは「誰にも確認できていないこと」を「宗教」が取り扱っているということです。


前回の記事で私は、事実と異なるという点以外に「嘘」には2つの要素があると述べました。

①「嘘」には「目的」がある
②「嘘」には「自分」の在り方が関わっている


「目的」というのは基本的には、世の中にある特定の価値観の中で生きている限り、どうしても生じてくる悩みや苦しみを和らげるように仕向けるものです。

「宗教」は原理的に誰にも確認することができない死後の世界について、一定の見通しを与えることによって、それを信じられる人に対して安寧の感覚を実際に与えることができます。

そもそも「宗教」は生きている上で誰もが生じる悩みや苦しみを解消しようとする過程の中で生まれてきたものだと言えるでしょう。仏教においてお釈迦様の修行も苦しみから逃れようとするためだったといいます。

その意味で「宗教」には確固たる「目的」があると言えます。そしてその内容が「事実」に基づいていないという点でかなり「嘘」の要件を満たしてきます。

しかし「事実」に基づいていないというだけで「宗教」を「嘘」呼ばわりするには違和感があります。

一方で、人が「嘘」をつく背景には、必ず自分の状況をよくしたいという意志があります。

ところがもし「宗教」が「嘘」であれば、その「目的」はそれを掲げる宗教家自身に向けられているでしょうか。

いえ、そうではありません。「宗教」が持つ「目的」は宗教家「個人」ではなく、人間「全体」に向けられていると思います。

そして「宗教」を「嘘」というのに違和感がある最大の理由は、「扱っている内容が真実である可能性を残っている」ということにあると思います。

今後も死後の世界を直接的に確認することができる人間は、世の中に不可逆的変化というものが確固として存在する限り、今後も現れないでしょう。

ということは「宗教」が扱う死後の世界というのは、永遠に「嘘」かどうかを断定することができない領域ということになります。


「知識欲」という言葉があるように、人間にとってわかることは快感です。人間はいろいろなことをわかりたいと望んでいます。

その中で「死」というものは最難関の課題です。あくまでも間接的に理解するしかない存在となります。そこにあるのは推測や予想であって、どれ一つとして確かなものはありません。

「宗教」は、そんな不確かな状況の中で「死」というものを理解するためのもっともらしい一つの見解を示しています。

それは確かに「事実」には基づいていないかもしれません。しかしそう考えることによって人に安寧を与えうる力を持っているということだけは確かな「事実」です。

「宗教」は「嘘」かもしれないけれど、「嘘」と断定することはできない中で、科学にはできない価値を提供しているチャレンジングな存在なのかもしれません。

けれど私が思うに「宗教」は、そうしたわからないことばかりを扱って正解かどうかもわからず漂うだけのデタラメなものでは決してなく、

人間がどのように考え、どのように行動すれば苦しみがなくなるかを論理的かつ実践的に導いてきた秩序ある思考体系なのではないかと考えています。

「宗教」と聞けば、聖典の内容を盲目的に信じるだけの、自分の頭で考えないことを勧めるネガティブなものと受け止める人もいると思いますが、

人間とは何なのかをわかろうとする「科学」や「哲学」と本質的には同じところを目指すアプローチなのです。

ただその守備範囲に「事実」だと確認できない領域も含まれているというだけのことだと思います。


最近、私は「科学」が「宗教」化していると感じるところがあります。

「事実」から始めるのが「科学」、信じることから始めるのが「宗教」だという側面があると思いますが、

盲目的に”信じる”と言えば聞こえは悪いですが、「宗教」で信じる部分はあくまでも「事実」と確認できない部分です。

死後の世界のように「事実」と確認できない部分において、それをどのように解釈して心の安寧を得るかについて確信的に信じていることがあったとしても、

それは誰にも非難される筋合いのない自由な部分ですし、ある程度複数の解釈が成立しうる

それに対して「科学という名の宗教」には「事実」だと確認できるにも関わらず、その「事実」を確認しないままに特定の見解だけを盲信しそれを元に突き進んでしまっている強硬さがあります。

ウイルスが実際に伝播しているのか、実際に伝播したとして伝播したこと自体で即病気につながると言えるのか、ウイルスが伝播せずにもともと持っていた常在ウイルスが影響したという可能性は考えられないのか...

こうした疑問に答えられないまま、「ウイルスとの接触回避が最優先事項」という特定の価値観が強固に盲信されたまま世界が動き続け、とどまるところを知りません。

これは「科学」と「宗教」の悪いところが合体した化け物のような姿にしか私には思えません。

はたして、この化け物を退治するには一体どうすればよいのでしょうか。

それは「確かでないことには選択の余地を残す」ということに尽きるのではないでしょうか。

世の中は「確かでないこと」に対して、もっと謙虚に向き合わなければならないと思います。

そしてそれは個人においても心がけられるべき態度であろうと思います。


たがしゅう

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