コロナ騒動は「嘘」なのか

2021/04/01 11:40:00 | 素朴な疑問 | コメント:0件

本日はエイプリルフールということで、いつもと趣向を変えて「嘘」というものについて考察してみたいと思います。

念のため、これ自体が「嘘」の記事というわけではございませんので、どうか悪しからず。

さて、「嘘」をついたことがない人はおそらくいないのではないでしょうか。

ある時には、自分の危うい立場を守るため、またある時は誰かの心を傷つけないようにするために、「嘘」は様々な場面で必然的につかれているように思います。

勿論、自分の計画を有利に進めるためという悪意のある「嘘」もあり、一般的には「嘘」にはそのようなネガティブなイメージがつきまとっているようにも思えますが、

すべての「嘘」に共通するのは、「何らかの目的を達成するために事実とは異なることを伝える」ということではないかと思います。

そう、人が「嘘」をつくとき、そこには必ず「目的」があるのです。 でも目的もなく、自分が本当だと思って言っていたことが結果的には「嘘」の情報だったということもあるでしょう。

しかしその場合は、「嘘」とは呼ばず、「勘違い」とか「誤認」と呼ばれているのではないかと思います。そういう意味で人が「嘘」をつく時には必ず「目的」があると言ってよさそうです。

ユヴァル・ノア・ハラリ氏というイスラエルの歴史学者が書いた「サピエンス全史」というベストセラーの中で、

現代人ホモ・サピエンスがここまで発展することができたのは、「虚構を信じることができたから」だと論じているそうです。

つまり「嘘」をまるで事実にように感じ、その「嘘」が持つ目的に沿うことが、他の野生動物では決して獲得することのできない団結心を生み出し、様々な困難を克服することを可能にしたというのです。

しかしその前に「ことば」というものが生み出されなければ「嘘」は生まれようがありませんので、

ホモサピエンスは自然の中で生み出された「こどば」というものをうまく活用することで、その地位を確固たるものにしたということもできるかもしれません。つくづく「ことば」の持つ力は偉大だと感じます。

人類が繁栄するためについた「嘘」は神話や言い伝えという形で現代にも受け継がれてきています。

しかし科学が進歩するにつれて、そうした科学的根拠の乏しい話を軽く扱うような風潮は非常に高まってしまっているように思えます。

一方で「嘘」にはポジティブな側面もあることもまた事実です。

漫画ONE PIECEにおける「ウソップ」というキャラクターは、この漫画を知っている人ならよくわかると思いますが、「嘘」の持つポジティブな側面や、時にコミュニケーションの潤滑剤となるようなコミカルな側面など、「嘘」の持つ多面性を極めてわかりやすく表現していると感じます。

「嘘」にはそのように多面性があるにも関わらず、悪いものだと決めつけられ、ましてや科学的根拠がないからと存在自体が否定されてしまうようなことがあれば、それは非常にもったいないことだと思います。

ことばを扱う人が、成長するにつれて誰にも教えられていないのに自然に「嘘」を覚えるということは、

今の世の中に人が「嘘」をつくことが要求されるような必然的な構造が存在しているということになると思います。

つまり「嘘」をつかなければ、自分が苦しくなるということであり、苦しみから逃れるために人は「嘘」を活用しているということです。

あるいはこうも言うことができます。人は自分の喜びを増すために「嘘」を活用している、と。

いずれにしても人が「嘘」をつく時、そこには「自分」の在り方が密接に関わっているという構造があるということです。


さて、事実を重視する「科学」は、事実を歪める「嘘」をあばく武器としてしばしば利用されます。

現在のコロナ騒動は「嘘」だと主張する人も随分増えてきたように思います。あまりにも不合理な政策やルールが定められていく中で「嘘」だと感じられてしまうのも無理はないと思います。

しかし私はコロナに関しては「嘘」ではなく、「壮大な勘違い」だと思っています。

以前当ブログで、「科学が暴走してしまった」という内容を記事にしたことがありますが、今の世の中の状況を生み出してしまった本質的な要因は「嘘」を暴こうとする「科学」の性質にあると私は考えています。

「嘘」はそれ自体が「目的」を持っているにも関わらず、「科学」には、事実との不一致を理由にその存在意義そのものを否定してしまうという強健さが備わっています。

従って、世の中が科学的になればなっていくほど「嘘」が許容されにくい世界となっていき、科学的に評価されればされるほど「嘘」は少なくなっていく傾向があります。

しかし本当は科学的な評価がどうであろうと、「嘘」をついている側の「目的」というものは確固として存在しています。

従って、「嘘」が否定されたところで、「目的」は消えることはありません。科学的な世界では、この「目的」だけが取り残されて決して果たされることのない、宙に浮いたようなものとして漂うことになってしまいます。

そして「科学」が「嘘」を否定し続けることによって、「事実」や「真実」だけで埋め尽くされた世界へと変化していき、そのことによって人は人生の「目的」を果たすのが難しくなるという構造があるように思うのです。

今生活の不自由さを感じている人は非常に多いのではないでしょうか。そのことがその構造を如実に表しています。

私が今の世の中を「科学の暴走」と称したのは、「科学的根拠」と称して証明されたとは決して言い切れない「科学的な雰囲気を醸し出しているだけ」のことについても科学的に正しいと評価されてしまっていることがその理由なのですが、

見方を変えれば、「嘘」が過剰に「真実」的に受け止められてしまっている世の中となっているということです。

それでも私がコロナが「嘘」ではないと思うのは、そこに「目的」が存在していないからです。

ごく一部の富裕層が人口削減を「目的」としているのだという陰謀論も時に耳にしますが、そこは真偽確認が難しいのでひとまずおいておきましょう

私にはほとんどの人達が「嘘」というよりも、むしろ過剰に「真実」的に受け止めることによって今の世の中がもたらされているように思えるのです。

そこに一切の「目的」はありません。ただただ真実を追究しようとする、言わば善意によってコロナ騒動は生み出されてしまっています。だからこそ「壮大な勘違い」なのです。

マスクの感染予防に対する有効性が完全に証明されたわけではないのに、マスク装着が感染予防の世界のスタンダードとなってしまっていることはその代表的な例ですが、

すべてはウイルスが見えないことによって科学の暴走が許されてしまっている部分があるように思います。

本来、科学が正当にはたらくのであれば、ここは保留としてマスク装着するもしないも選択の余地があってしかるべきですが、それを強要する風潮が世の中に満ちあふれています。

勿論日本の場合は本当に強制されているわけではないものの、そういう風潮がはびこっていること自体が科学が暴走していることの表れです。



「真実」に支配された世界も考えものだと思います。

繰り返すようですが、人には誰もが自然に「嘘」をつく素養が備わっています。

それはきっと世の中に「嘘」が必要であるからです。「嘘」をつかなければ達成できない「目的」があるからです。

「真実」ばかりであればまだしも、本当は「真実」とは言い切れないことまでも「真実」として過剰に扱われてしまう世の中では、「嘘」の「目的」は過剰に抑圧されてしまうことになります。

そのような状況が続くと世の中はどうなってしまうのでしょうか。いつか負の感情が爆発したとしても決して不思議ではありません。

「真実」だけで歩めるほど世の中は整っていません。

だからもっと「嘘」をつこうと言いたいわけではありません。

「嘘」が生まれる余地を世の中に残しておきましょうと私は言いたいのです。

そのために、せめて「真実」とは言い切れないことを「真実」ではないと認めていくところからはじめていきましょう。

そうしないと世の中は暴走する科学によって息苦しくなっていく一方です。


たがしゅう
関連記事

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する