食べないこととどこまで向き合えるか

2014/07/09 00:01:00 | ふと思った事 | コメント:0件

先日の記事で、

断食は糖質制限でも改善しきらない病態に対して、

改善をもたらしうる今できる最大限の努力
だという見解を示しました。

まとめると私の中で、食事療法は次のように位置づけられます。

①カロリー制限(糖尿病学会推奨の高糖質、低脂肪食など):病気になるリスク高い

②弱い糖質制限(低グリセミック指数食、いわゆる「緩やかな」糖質制限食など):病気になるリスクやや低い

③標準的な糖質制限(江部先生の糖質制限食、修正アトキンス食など):病気になるリスク低い

④強い糖質制限(糖質ゼロ食、MEC食、古典的ケトン食=疑似絶食療法):病気になるリスク低い、やや難病態にも立ち向かえる

絶食療法(断食):難病態に立ち向かえる(※それで一生健康を維持できるかどうかは未知数)


食べることはリスクである」という私の考えは、

裏を返せば「食べないことが最も安全な方法である」という考えにつながり、現在私はこの見解に至りました。

しかし、断食は今この時代に行うにはあまりにも障壁が多すぎます。 なぜならば、現代社会は食品にあふれ、食文化が完成しきっている社会であるからです。

食べる事が当たり前で、あちらこちらで食育が叫ばれ、そもそも食べるために私たちは仕事をしています。

こういう「食べることが生きるための基本」という価値観が当たり前に存在する社会の中で、

食べないという選択をし続ける事はとても難しいことです。

また、たとえ食べない事を心に決めていたとしても、

ヒトの食欲は環境によって大きく左右されるので、

様々な誘惑が食べないという選択を邪魔してきます。他者との交流の際にも問題になってくるでしょう。



そもそも断食をしなければならない状況の人は限られてはきますが、

断食をしようと思った場合に、食べないこととどこまで向き合えるかという事を決めるのはその人の価値観になってくると思います。

私はまだ、2-3日断食するレベルの小さな断食を17回程度行ったくらいの経験しかありませんが、

その経験を通じて、「ヒトは毎日食べなければならない」というのは真実ではないと思うようになりました。

勿論、「毎日食べてもいい」のですが、「毎日食べなくてもいい」のです。

これまでの人生で食べるという文化に何十年もどっぷりとつかってきた人間が、

今日からいきなり食べないというのを行動に移すのはなかなか困難なことです。

しかし、もしも食べないという事に慣れ、食べるのは食べざるを得ないような状況(冠婚葬祭など)の時だけというのが当たり前という状況にする事ができれば、

倹約遺伝子をはじめ、生存に有利に働く様々な遺伝子をONにした状態を保ち、

食べる事に誘惑されず、時間を有効に使うことができ、記憶力も増強し、

なおかつ病気のリスクも最小限にすることができ、

ひいては世界の食糧問題にも貢献できるようになるかもしれません。



しかし、この方法は万人におすすめするものではありません。

多くの人は③で現状維持するには十分であり、難病態に立ち向かう必要がないからです。

③だけで解決しきれない何らかの問題を抱えている人のみが、選択肢として知っていればよいことだと思います。

私は将来的には、そういう人達も対象にした医療を展開したいと考えているので、

④⑤の実体験と知識は今のうちにしっかりと蓄えておく必要があると思っています。

特に⑤については、何のサポートもなしに実践する事はかなりの困難を伴います。そうした治療を行いやすくする環境もきわめて重要だと思っています。


「食べることが基本」だと世間は言いますが、

太古の昔に想いをはせれば、

「食べないことが基本」で、食べるという行為はあくまでオプションであったはずです。

常識を疑う事でみえてくるものがあると思います。





たがしゅう
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