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「治る」とはどういう状態か

category - 素朴な疑問
2021/ 06/ 03
                 
馬を水辺につれていけても水を飲ませることはできない」という言葉があります。

「本人にその気がなければ、いくら周りが環境を整えたとしても、やれることには限りがある」という意味で

「主体的医療」の普及を目指す私が、常に心の中に留めている言葉でもあります。

患者さんの希望は多くの場合「病気を治したい」で」、医師の仕事の目的も「病気を治す」ということで両者の利害は一致しているはずです。

言わば、「水を飲みたいと思っている馬を、水辺に連れて行くことが医師の仕事」という構造を示していて、そこには何の障壁もないスムーズな関係となっているように思えます。疑問の挟む余地はなさそうに思えます。

それなのに実際にはなぜ終末期においては医師の治そうとする行為が、患者の治りたいという希望を叶えられず、むしろ害をもたらす結果へとつながってしまうのでしょうか。

本日は「治る」とは本質的にどういうことなのか、について考え直してみたいと思います。
            

結論から言いますと、私が思うに「治る」とは「心と身体の状態が一致した状態」だと思います。

それに対して多くの患者が希望する「治る」という状態は、「目の前から症状が消えてなくなること」だと思いますし、

医者が行っている「治す」という行為も「患者の目の前から症状を消すこと」だと思います。

両者の利害は一致していますし、ある現象のことを人がどのように捉えるかは自由だという側面は勿論ありますが、

その捉え方が本質的ではなかった時に、現実にはその捉え方に矛盾する事実が生まれてくるということがあると思います。


多くの人にとって「病気」や「症状」は「どこかからやってきた私(患者)を悩ますもの」だと思います。

そして多くの医者にとっての仕事は「そんなどこかからやってきた病気や症状の原因を突き止めて退治すること」です。

しかし私の「症状」や「病気」に対する捉え方は、そうした一般的な捉え方とは根本的にちがいます。「病気(症状)とはその人自身」です。

病気がその人自身なのであれば、その人自身が消すべき対象にはなりえませんので、「病気を治す」という行為は「病気を消すことである」という捉え方は本質をはき違えているということになります。

病気の表現型として現れる症状はむやみやたらと起こっているわけではありません。そこには必ず必然的な意味があります。

発熱は異物を除去したり、身体の修復反応としての炎症を反映する現象ですし、咳やくしゃみ、下痢なども異物除去反応の一型です。

痛いということはその場所を中心に何らかの負担がかかっていることを示す警告信号ですし、めまいは神経の調整不全を示す警告信号です。

痛みが最もわかりやすいですが、この痛みの警告信号としての要素を無視し、この痛みを「除去すべき対象」として痛み止めを使用するのが多くの医者のアプローチであるわけですが、

そもそも警告を発するような事態が身体に発生しているが故に起こっている現象なのに、その警告的事態が無視され続けるとどうなっていくでしょうか。

身体は次第にその警告反応を強めます。10の声を上げても届かないようであれば、100の声を上げて相手に届くように身体は痛みを伝えます。

しかし多くの患者も医者もこれをリバウンドとか病気の悪化と捉えて、身体の警告反応に耳を傾けるどころか、さらに強い痛み止めを使い、無理矢理にでも身体のシステムを抑えようとします。

しかしその強引な抑制はある瞬間を境にして抑えきれなくなります。つまりどれだけ薬を使っても痛みが治まらない難治性の慢性疼痛と呼ばれる状態になります。

そうなると、いくら医者が努力したところで「病気を退治する」というその目的がどんな薬を使っても果たせない段階が必ず来るということになります。これを人は難病と解釈します。

一方で私はこの状態こそが「心と身体の状態が切り離されてしまった状態」であり、真の治療対象はこれだと考えています。

つまり心の方は「この苦しい症状をはやく私のもとから消し去ってくれ」という観念に強固に支配されてしまっているのに対して、身体は「今危険なことが起こっているからはやく何とかして!」と悲鳴を上げ続けているというすれ違いです。

このように心と身体がずれてしまった状態を一致させるためにできることは大きく2つしかありません。

①身体からの声を適切に解釈すること
②身体からの警告反応をもたらす原因に気づいて除去すること


どちらも実践するためには患者本人の主体的行動が不可欠な行為です。

②は「病気を退治すること」と同じじゃないかと思うかもしれませんが、退治する対象が微妙に違います。

退治すべきは「どこかから来た病気の原因」ではなく、「リアルな自分の身体で発生している原因」です。ここの違いを理解することはその後の行動に大きな影響をもたらします。

前者であれば「そんなもの素人が考えるより頭のいいお医者さんが考えた方がいいに決まっている、先生にお任せするしかない」という発想に陥りがちですが、

後者であれば「自分の身体でなぜそんなことが起こっているんだろうか、考えてみよう」という形で自分の頭で考えてみようという余地が生まれます。

勿論、何もアイデアが思い浮かばない時は、医者の力を借りるのも一つでしょう。私のオンラインクリニックはそのために開いているところがあります。

しかし「病気とはどこかからやってくるもの」という思想に支配されたお医者さんに相談したところで、受けるアドバイスは「病名診断」というパターン思考によって導かれた定型的な助言をもらうだけです。

それは「病気の原因が外部にある」ことを前提にもたらされたアドバイスなので、いつまで経っても自分の中で症状を起こしている真の原因に気づくことはできません。

そしてより重要なのは①の方です。これができていないから多くの終末期医療は悲惨になると言っても過言ではありません。

①を考える時に参考になるのは、野生動物の行動です。

痛み、めまい、下痢などの症状は当然ながら野生動物にも発生しうる現象です。そうした時に「病気」だとか「症状」などという概念自体が存在しない野生動物はどんな風に行動するでしょうか。

たとえば、先ほどの痛みの例で①と②を実践するのであれば具体的にはこうです。

①「痛みが出続けるということは、今あまり動かない方がいいということだな。まずは教えてくれてありがとう。少し痛みが出ない程度に活動を控えよう。」
②「さてなぜ痛みが出ているんだろうか、その場所に負担がかかっているのだろうか、もしくは神経を圧迫する何かがそこに存在するのだろうか、圧迫する何かがあるのだとしたら何がそれを育てているのだろうか、腫瘤があるのであれば育てているのは糖質やストレスによる血糖上昇かもしれない。食事の糖質は摂り過ぎていないだろうか、自分が気づいていないストレスがかかり続けていないだろうか・・・」

こうした見直しはまやかしでも何でもなく、状況を適切に捉えることで自律神経の過剰なオーバーヒートを防ぎ、結果的に痛みやそれに関連する症状が現実に治まってくるものです。

逆に今の状況を適切に捉えないでいると、例えば「なんで私だけこんな目にあうんだ!なぜ早くこの痛みが消えてくれないんだ!」などと思い、現実のとギャップに苦しみ続けてしまえばしまうほど、皮肉にも余計に自律神経をオーバーヒートさせ、身体が治る状態、すなわち心と身体が一致する状態から遠ざかっていきます。

ただこのような見直しによって可逆的に回復するのは、ある程度自己治癒力に余力がある人の話です。

「形あるものいつか壊れる」という言葉のように、残念ながら人間の身体の自己治癒力も衰えてきて、100%可逆的にもとの状態(その人がイメージする100%の状態)に戻ることはなくなってきます。

50%の力でやらないといけなくなることもあるし、30%の力でやらなければならないといけなくなる時期もいずれ必ずやってきます。そのことを「老化」と言います。

「老化」に伴って100%の期待通りに回復しない場合も、①と②の発想を持つことが本当の意味で「治る」ために必要不可欠です。

すなわち、たとえ50%であろうと、30%であろうと、「これでいい」と思える心の在り方が、その人を本当に治った状態に導く最大のポイントだと私は思うわけです。

その心の在り方をコントロールできるのは他ならぬ患者さん自身しかいません。だから主体的医療でないと根本的に病気を治すことはできないのです。

現代医療は30%まで、50%までしか回復しないという現実から目を背けさせ、100%戻ることが正しいという価値観を強要し、「心と身体を引き剥がす行為」だとも言えなくもありません。

そういう意味で人工呼吸器や胃瘻による延命行為も、「心と身体の状態を引き剥がす行為」であり、

難病とは「究極的なところまで心と身体が引き剥がされてしまった状態」だということが言えるかもしれません。

たとえ難病であろうとも、その時の身体の状態に自分の心を一致させることができれば「治る」ことはできると思うわけですが、

それを成し遂げるのは「病気の原因は外にある」という前提で勉強した医者ではありません。あくまでも患者本人しかいないのです。

そしてもう一つだけ付け加えるのであれば、どんなに心と身体が引き剥がされたとしても、最後の最後で心と身体が一致する状態こそが「死」というものだと解釈することもできます。

そういう意味で「死」は万人に残された唯一の救いと言えるかもしれません。

ただどうせ最後に「死」で心と身体が一致するとしても、そこまでの道のりもできれば心と身体はつながっていたいと思うのは筋ではないでしょうか。

ならば身に起こっている「病気」や「症状」を適切に解釈するということは、

私達が不本意な人生を生きずに済むように、すべての人間に課せられた課題だと私は思います。


たがしゅう

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コメント

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体の感じていることを心で思えることでは?
「体の感じていることを心で思えることでは?」のように思います。

「体で感じる」こと、「心で思う」こと、「頭で考える」こと、「口で言う」こと、が一致している人は、余り病気に成りませんし、成っても直ぐ戻りますね。
Re: 体の感じていることを心で思えることでは?
金子 芳幸 さん

 コメント頂き有難うございます。

> 「体の感じていることを心で思えることでは?」のように思います。

 そうですね。ただどのように心で捉えるかという点に自由度が高く、その捉え方が身体本来のメッセージから外れてしまうと心と身体がどんどん離れていくという構造だと思います。

 例えば、身体が緊張して動かないときに、「なんでこんな肝心なときに身体が動かないんだ!しっかりしろ!」「この病気を病気を治さないと大変なことになる」と捉えてしまうと、身体からの本来のメッセージの意味をはき違えてしまっていると私は思います。
 本来のメッセージに沿うのであれば、安心な環境に身を移したり、深呼吸をして緊張を整えたり、「今自分の身体が危険を感じているということなんだな。わかった、教えてくれてありがとう。行動を見直してみるよ」という風に考えるのがよいのではないかと私は思います。