不快を快に転化させるには

2019/10/07 23:55:01 | ふと思った事 | コメント:0件

運動による健康効果があることは実感的にも間違いはないだろうと思います。

ただ運動は一方でやり過ぎると酸化ストレス源となり、スポーツ選手によっては短命の印象があることもあり、

運動量は多ければ多いほどよいという単純な話にはならないということも言えそうです。

そんな運動に対して私達はどのように向き合えばよいのでしょうか。

こういう場合にこそ私は私の持論、「体調は最良のバロメータ」を有効活用すべきだと考えています。

やって体調が良くなる運動は続け、やっていて辛くなる運動は必ずしも続けることはないということです。

こういうと単純ですが、人間の場合はそこに解釈を挟む余地があります。

身体的に快か不快かと言えば、軽く続けられる有酸素運動であれば程度に応じて快と感じる可能性はありますが、

基本的に運動が与える身体変化は快というよりも不快に近いのではないかと思います。息切れがしますし、筋肉痛も出ます。

ただその筋肉痛に対して私達は「次に筋肉が強くなるために必要不可欠なステップ」などという解釈を挟むことができます。

あるいは何かしらの大会や選手権に出て勝利したり、栄誉を獲得するという目標を意識していれば、その不快な身体変化を「乗り越えるべき壁」と解釈して継続し続けることも人間ならば可能です。

要するに「快・不快」の情報が単純に「すべき・すべきでない」と必ずしも対応していない所に運動の難しさと奥深さがあります。


しかし最近私は勤務医時代に比べて運動をする機会が増えてきましたが、

筋肉痛も感じるようになってそれ自体は若干不快よりの情報ではありますが、

だんだんとそれを繰り返していると、その若干の痛みも心地よくなりつつあって、

さらには運動後の睡眠が非常に気持ちよくなるという好循環に見舞われることが多くなってきています。

つまり不快に思えた情報が快に感じるように適応してきているという感じです。

人間のみ頭の中の解釈によって不快の情報をやり続けざるを得ないことも多くなっているストレス社会に私は生きていますが、

逆に不快の情報の捉え方を変えることによって、その不快を解釈のみならず実際の快へと転化させることも可能であるということに、

今さらながら気づいてきたところがあります。

人間に与えられた解釈という力を、そのように良い方向へ使っていく必要性を強く感じています。


たがしゅう
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