哲学カフェから学ぶ主体性

2019/01/23 00:00:01 | たがしゅう哲学カフェ | コメント:0件

今度行うたがしゅう哲学カフェの司会の参考にするために、過去の録音データを聞き直してみました。

リアルタイムで対話してきた時とはまた違った魅力があって、あらためて思考が整理されていく感覚があり心地よかったです。

哲学カフェの司会って、やってみると実はなかなか面白いものがあります。

司会をするのは難しいというイメージがあるかもしれませんが、今までにいろいろな哲学カフェに参加してみて、

司会の方のタイプにも様々なパターンがあります。必ずしもうまくしゃべってまとめるタイプの司会者でなくても、

参加者に自由に語らせる形でも何となく参加者それぞれの中でそれなりの満足感が生じるというのが、

哲学カフェのとても面白いところなのです。 そもそも哲学カフェでは一定の結論を出す必要はないという前提がありますので、

何とかまとめようと肩に力を入れなくてもいいのですが、私のようなタイプの司会者はついついそこに注力して、

誰も発言しなかったとしても、それなりに良い話が聞けたと参加者の方々に思ってもらえるよう、テーマに関する一応の予習や事前情報収集はしてくるのです。

しかしながら、哲学カフェ当日、参加者の皆さんの様々な意見に触れていくにつれ、

当初自分が言おうと予定していた内容も、いつの間にかどこかへすっ飛んでしまって、

それでも当日のその盛り上がりの中で、何となく自分の中で頭の中が整理された感覚を覚えてすっきりしたりするのです。

それが参加された皆さん、それぞれの頭の中で起こっているとしたら素晴らしいと思いますし、そうなっていることを願うばかりですが、

ここに主体性を育てる重要性が垣間見える構図が隠れているように私は思うのです。


哲学カフェの参加者は年齢も性別も立場も、これまでに得られた人生経験もすべてが違っていますが、

それぞれの状況でそれぞれが自分なりの条件の中でテーマについて自分の頭の中で考えて思考の活動・整理が行われます。

こうした自分の頭で考えて自分が受けるべき医療を考えるという作業が医療でも行われれば、私が提唱する主体的医療ということへとつながっていきます。

というよりも哲学カフェでの行いはストレスマネジメントにもつながるので、哲学カフェの活動そのものが主体的医療の一環だとみることもできると思います。

今は病気になったら、病院へ行き、そもそも自分で考える行為を放棄し、病院の医者によって与えられる一定の価値観に皆が一様に従っている状況です。

哲学カフェで例えれば、参加者は自分で考えるのを放棄し、司会の人間が話すテーマについてのその人の価値観を無言で受け入れているような状況です。

受動的医療とはそんな息苦しい状況を意味していることになるのではないでしょうか。

哲学カフェに参加すれば主体性の何たるかが体感できると私は思います。

興味のある方は是非一緒に哲学しましょう。


たがしゅう
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