科学を正しく使うべし

2018/06/08 00:00:01 | ふと思った事 | コメント:2件

私は糖質制限を知るきっかけを与えて下さった夏井睦先生の「新しい創傷治療」のサイトを、

毎日欠かさず読んでおりますが、先日の更新履歴に夏井先生の次のような文章が書かれていました。

(以下、引用)

私は過去を懐かしんだり旧交を温めるのが苦手」と書きましたが,

こういう先達も先行者も師匠もいない前代未聞の治療を一人で始め,

19歳女性、人工関節露出のように「どうしたら治せるのか/治らない場合はどうなるのか/何が正解の治療なのか」について

世界中の医者の誰も経験していない症例を治療せざるを得なくなったため,嫌でも思考パターンは徹底的な未来派志向になります。

過去を振り返っても正解は得られないし,進むべき道を指し示してくれる先人もいなければ,「自分で考えて自分で前に進む」しか道はありません。

そして,前代未聞の治療を始めてしまうと逃げ場はありません。

治療方針決定に一緒に悩んでくれる先輩も同僚もいないし,困ったことがあっても紹介する病院もありません(紹介しても「消毒しないから化膿した」と非難されるのがオチ)。

泣いても祈っても解決法は得られません。祈りを捧げる神もいなければ,魂を売れば願いを聞いてくれる悪魔もいません。

そして,湿潤治療開眼から23年目に突入しました。思えば,随分遠くまで来たものです。

(引用、ここまで)



私はこの文章を読んで、一番先頭を走る人の孤独感や不安感たるやいかほどであろうか、と思いました。

糖質制限にしても先を走る偉大な先生達がいたからこそ私は私の中で糖質制限を納得する事ができましたし、

もしそれがなく自分一人だけが糖質制限の意義に気付き、それを多くの人に広めようとした場合に、

はたして今のようにライフワークとして位置付けることができたであろうかと、途中で心が折られることはなかっただろうかと想像します。

夏井先生はまさにそのような試練を乗り越えて、いまや湿潤治療という外傷治療の新たな礎を見事に築かれました。

当初誰一人味方はおらず、それどころか自分を潰しにかかる敵ばかりだったであろう状況の中で、

ぶれることなく自分の主張を周囲に理解させる時の原動力は何だったのであろうかと考えたときに、

そこに「科学」の果たした役割は大きかったのであろうと想像する次第です。

たとえ周りの状況がどうであろうと科学的な事実は不変です。

1+1はどんな状況でも2ですし、地球にいる限り万物は万有引力の法則に従います。

そうした覆しようのない事実を積み重ねて論理を展開していくことで、まだ誰も見たことのない世界の説明を試みたと、

その科学に裏付けられた自信が夏井先生を支え、ぶれない軸を持たせることにつながったのではないかと私は思います。

私は「世界のすべてが科学で説明できるわけではない。科学でわからないものを意識しておくことも必要だ」と常日頃主張していますが、

今回の夏井先生のコメントを読むにつけ、科学というものの安定感、信頼性には、それはそれでゆるぎないものがあるということを思い知らされました。


翻って医療界全体を俯瞰してみますと、

科学的根拠を重視する「EBM(Evidence Based Medicine)」の必要性が叫ばれるようになって久しいです。

しかし実際には科学という名の統計学で、誤りも不確かさもそのままにして、科学に従っている風の態度をとっている医療者がほとんどです。

それはおそらく本来の科学の使い方ではないのであろうと思います。

エビデンスにこだわり過ぎることで本質からどんどんずれていく様子

私はこれまで何度も目の当たりにしてきました。


きっと科学は、正しく用いることで未開の地を開拓する上での羅針盤のような存在にもなりうると私は思います。

今、決して多くの人達が健康を保てているとは言えない現状を見るにつけ、

私たちはおそらく正しく科学を使えておらず、その表面的かつ象徴的な部分だけに酔い知れてしまっているのかもしれない、と思います。

エビデンスよりも生理学、生理学よりも物理学、物理学よりも数学・・・

よりベースの安定した科学に立ち返り、それでも自分のやっていることは正しいと言えるのか、

そういう視点を持ってこれからも考えていかなければならないと感じました。

そしてその上で、やはり科学の限界も理解した上で、

科学ではアプローチできないことへの意識も忘れずにいたいと私は思います。


たがしゅう
関連記事

コメント

「科学的」とは?

2018/06/08(金) 15:42:44 | URL | 名無し #-
よく「科学的に正しい」とか「科学的根拠が有る」として物事の正否を判断することが有ります。

しかし、たがしゅう先生がおっしゃるように科学には限界が有ります。

例えば、かつてβ遮断薬は慢性心不全には禁忌とされていましたが、今では180度変わって著効な治療薬となっています。
もしも全ての医療関係者が科学を盲信していたら、多くの患者を救うことは不可能だったと思います。
禁忌であることに疑いを持った人達が存在したからこそ可能になったのだと思います。
β遮断薬に限らず、このような例はいくらでもあると思います。

現在、正しいと思っている科学的知識はあくまで現時点で私達が共有している経験を自分達で解釈した物に過ぎないと思います。
よって、後になって経験が増加するにつれて「科学的に正しい」とは変わり得るのは必定だと思います。

※一部こちらより引用しました。
 『私たちはインフォームド・コンセントと称して何を話しているのか』
  http://jspccs.jp/wp-content/uploads/j2504_573.pdf

Re: 「科学的」とは?

2018/06/08(金) 16:25:08 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
名無し さん

 コメント頂き有難うございます。

 少なくとも医療の世界で語られる「科学的根拠」は、そもそも恣意性がおおいに混ざる余地のある統計学を中心に土台がぐらついているものが多いという事は認識しておく必要があるかと思います。かたや本当に科学的根拠のしっかりした事実も医学の世界には存在しています(例:糖質のみが血糖値を直接上昇させる、など)。
 それらを一緒くたにして「科学的根拠」という言葉の固いイメージだけで信用して、自分で考える作業を怠れば我々はしばしば間違うことに気を付けておいた方がよいと私は思います。

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する