「ストレス」:たがしゅう哲学カフェ in 大阪〜後編〜

2019/10/25 23:20:01 | たがしゅう哲学カフェ | コメント:0件

「ストレス」をテーマにしたたがしゅう哲学カフェ、最後に私が非常に勉強になったことを記して一連の感想記載を終えたいと思います。

著しいストレスを抱えた人には共感を持って接するべしだということが金科玉条の如く言われますが、

今回の哲学カフェの中では、「自分は優しい言葉をかけられるより、普通に接してもらった方がよい」という方がおられました。

苦しい時に「苦しいですよね」などと苦しくない立場の人から言われても何の足しにもならないというのです。

私は援助的コミュニケーションの技術として、「苦しんでいる人は、自分の苦しみをわかってくれる人がいると嬉しい」ということを基本に考えていましたので、

見るからに苦しい状況におかれた人に対して行うべきは、たとえ完全でなかったとしても、その苦しみを理解しようと努める共感の精神だと思っていただけにこの発言はショックでした。 なぜならば傍からみただけでは、その人が苦しみを分かち合ってほしいのか、そんなことよりも普通に接してほしいのかを判別することができないからです。

さらにはその意見を述べられた人はこうもおっしゃいました。

「私に何かできることがあれば教えて」ではなくて、「私にはこういうことができるけどやってもいい?」と聞いてもらった方がいいというのです。

こうなってくると、何かに苦しんでいる人に対して具体的にとるべき行動が、少なくとも相手の苦しみを理解しようというだけでは不十分に思えてきて、

今まで私が大事にしていた原則が崩れそうな不安感に襲われました。

ところがまた別の方がこの話を聞いて、こんなことをおっしゃいました。

「本当の共感では感情の先取りをしてはいけないのだと思います」

この意見を聞いて私は生じた不安感が氷解し、もやもやとしていたものが非常にすっきりしたような気がしました。

そう苦しんでいるかどうか、そしてその人がどうしてほしいかを、本人がそれを自分の口で語るまで、聞いている側はひたすら待つことが必要なのだと感じたのです。

すぐれた心理カウンセラーは何も言わずただ話を聞き続けるものだといいます。

そうして自分の中から生まれた希望にまさに私が医療の中で大事に思う主体性の芽が隠れているのだと思います。

苦しんでいる人の苦しみを受け止めて支えたいというのならば、その主体性が出てくるまではサポートに徹し、ただそばに居続けるということが、とても大事だということを感じた次第です。


私はこれからオンライン診療という場でこのことを肝に銘じたいと思いました。

それ以外でも苦しんでいる人を助ける立場におかれた時は、今回の哲学カフェでの学びを思い出して支えたいと感じた次第です。


たがしゅう
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