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「ストレス」:たがしゅう哲学カフェ in 大阪~中編~
ストレスは良くも悪くも、どのように受け止めるかによって、たとえ巨大なものであっても成長の糧にできるという話の流れが生まれましたが、
その話の流れの中で、「ストレスとは善も悪もない『現象』である」という意見がありました。
例えば「雨が降る」ということと同じようなものだと、人によっては雨を嫌がるという人もいれば、
逆に雨を天からの恵みだとして感謝する人も一方で存在するわけです。
それでも雨の量が多ければ感謝もしにくいかもしれません。これがストレスの大きさとリンクします。
あるいは雨の降るタイミングによっては感謝できないこともあるかもしれない、このことはストレスを受け止めるのに重要なタイミング、あるいはそれにかかる時間の長さを反映します。
けれどそれでも人は自然の中で、自然法則の中で生きていくより他になく、なんとかして困難を乗り越えて成長していく、そういうものだというのです。
この例え話が展開されていく中で、話題は、「知っているかどうかでストレスが変わる」という方向へ移っていきました。
というのも、例えばある地域が大雨による自然災害に見舞われていることもあれば、
同じ瞬間、別の地域ではお祭りが開かれているという状況もあるわけです。
SNS等で情報はすぐに拡散する時代になりましたが、そうした時期にお祭りを開くことを不謹慎だといってバッシングする心の動きがあると思います。
ここでそのバッシングをする人は、ストレスを感じたために、その解消行動としてバッシングを行っている構図があると思いますが、
この場合、SNS等で情報を得たからこそバッシングという行動に移ったわけであって、
情報がなければストレスはそもそも生じえなかったという話になると思います。
一方で別の視点で興味深いことをおっしゃる方がいらっしゃったのですが、
人は自分が怒っている時に自分の顔は見えていません。
しかしその時に手鏡などを向けるなどして、怒っている人に自分自身の顔を見せてみると、
途端に冷静になって怒るのを止めるようになった、という話があるのだそうです。
これというのは、先ほどとは逆に、見えないからこそ感じているストレスという風にも言えるかもしれません。
ある時には情報があることでストレスを感じ、また別の時には情報がないことでストレスを感じということが起こりえるということです。
人は自分だけの人生を生き、自分だけの目線で世の中を眺めています。
その目線の中で自分の価値観に沿うものはストレスと感じず、そぐわないものをストレスと感じているということになると思います。
しかしその目線に、他人の目線を入れる、すなわち様々な視点で世の中を慣れるようになればなるほど、
同じストレスをストレスと感じにくくなるストレスマネジメントがうまくできるようになるのではないかというのはどうでしょうか。
そう考えれば、情報が多ければ多いほどストレスマネジメントがしやすくなる、ということになるでしょうか。
そこまで考えた所で、話を根底からひっくり返すような意見も出されました。
人生は川の流れのように、流れには逆らえない部分があると。
その流れを進んでいく中で時に岩にぶつかりそうになった時に、オールを漕いで岩を避けるようなことはできると。
これをストレスマネジメントと呼ぶならば、確かにその手数は多い方がよいかもしれないけれど、
小手先の技術では如何ともしがたい、自然のあまりの偉大さにひれ伏すしかない瞬間もあるのだということです。
見えない部分を減らし、見える部分を増やしていく努力は必要だと思います。
しかしながらそれで全てが解決できるほど世界は単純ではないというのが、今回の教訓の一つであったように思います。
たがしゅう
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