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「ことば」:たにやま哲学カフェ参加の御報告

category - イベント参加
2019/ 02/ 28
                 
鹿児島でいつもお世話になっているたにやま哲学カフェへ今回も参加して参りました。

今回のテーマは「ことば」についてでした。

「言葉」でもなく「言語」でもなく、「ことば」です。司会された方がこのテーマを選んだ背景を後でお聞きしたところ、

ことばの発し方によってポジティブにもネガティブにもなると、自分はポジティブなことばに興味を持っているが、みんなはどのように思っているのかということでこのテーマを選ばれたそうです。

私がまず最初に思ったのは、ことばというのは人類が生み出した最大の発明品だということです。
            

人間以外の動物の世界でもコミュニケーションは存在します。しかしそのどれもが基本的にことば以外を使った、いわゆる「非言語的コミュニケーション」です。

言語的コミュニケーションを扱えるのは人間だけで、その最大のメリットは相手へ確実にメッセージを伝えることができるということではないかと考えました。

ところがその思いは今回の哲学カフェで90分の時間が過ぎ去っていく中で徐々に変化していきます。


ことばは自分の中にある気持ちを伝えるためのツールであるという意見も出ました。

また「ことだま」ということばがあるように、ことばにも気持ちが宿るという意見もありました。

その一方で、海外旅行に行って外国のことばは全くわからなかったけれど、ジェスチャーなどを駆使して、いわゆる外国の言語を用いずとも旅行期間中何とかなったという経験談を話された方もいらっしゃいました。

ことばを使って伝えること、ことばを使わずに伝えること。それぞれに特徴があるけれど、いずれにしても「伝える」という点に対話はフォーカスしていきました。

一方で人間だけの発明とは言うものの、イルカの超音波や、あるいはことばを使わない表情やしぐさ、あるいは手話であってもそれは広い意味での「ことば」ではないかという意見も出ました。

これは言語的コミュニケーションと非言語的コミュニケーションと分けた場合の、非言語的コミュニケーションの中に「言語」は含まれていないけど、「ことば」は含まれているという感じでしょうか。

そうするとコミュニケーションそのものが「ことば」のやりとりであるという構造も見えてくるように思います。


さてそんなことばの「伝える」という側面に注目が集まっている中、

ことばは伝えるためだけではなく、「自分を理解するため」にも使われるのではないかという意見も出ました。

「あつい」とか「うれしい」とか「さみしい」とか、私達は自分の中に起こっている変化をことばを使って整理している側面は確かにあるように思います。

逆に言えば、ことばがないと自分を知ろうとする際にえも言われぬもどかしさであったり、すっきりしない感じがしてしまうのを、ことばというものが解消してくれるということもできるかもしれません。

言わば自分の理解に秩序をもたらすとでもいいましょうか。肩書きとかもそうかもしれませんね。

例えば私は医師ですが、「医師」ということばによってそのことばの持つイメージが共有され、それを聞いて理解した人にある種の安定化をもたらすわけですが、

医師という言葉も何もなければ、私はただの私。何者でもないはずです。

しかし医師という言葉があり、医師という概念があり、医師というものの社会の中での役割が共有されていることによって、

私は社会の中で私の位置を確かに感じ取ることができているように思います。

ただ逆に医師であるが故に、医師らしく振舞わなければならない、ですとか、ことばが自分の行動に影響を与えている側面もあるように思います。


私達はことばを発する時に逐一何ということばを話そうかを話す前に考えているでしょうか。

勿論、ある程度ざっくりと何を言おうかと考える場面はあると思います。しかし日常生活の中でことばを発する場合のほとんどは、そうたいした考えもなく、何かを伝えようという意図もなく、

自分の中からのものをとりあえず発してみていたり、あるいは習慣的にクセとなっているセリフがある意味で自動的に出てきていたりすることが多いのではないかと思います。

けれどそういうことばが「浅いことば」だとすれば、時には誰かを説得したり、誰かに想いを伝えようと必死にことばを選んだり、ことばの発し方を工夫したりする場面もあると思います。

自分の中からぽろっと漏れ出てくるような「浅いことば」、相手へ確固たる自分の思いを確実に伝えようとする「深いことば」

どうやらことばの持つ変幻自在な側面も見えてきたようにも思えます。


最初私はことばは確実に伝えるための発明品という表現をしましたが、

そんなことばというのは実は、使う人間や生まれ育った場所、時代背景などによっても非常に変化しうる移ろうものであるということです。

しかし確実性もそれはそれで嘘ではありません。ことばの確実性のおかげで私ははるか昔に生まれた偉人の名言からその偉人の思考に触れることが可能となっています。

でもそうであるにも関わらずことばには流動性があるということです。興味深い存在ですね。

若者言葉という言葉もあるように、使う世代によっても違いますし、とかく効率性をもとめて省略する傾向も自然に発生します。

ことばを使ってどうしたいという意図が、ことばそのものに反映されるということなのだと思います。


もう一つ、私が思ったのは例えば日本語では「わたし」を意味する言葉は、

「僕」「「あたし」「わし」「おれ」「自分」「まろ」「せっしゃ」「それがし」などなどたくさんあります。

けれど英語で言えば「わたし」を意味する言葉は、私が知る限り「I」だけです。

同じ言葉に対してのこうした違いは何を元に生まれてくるのだろうかという疑問も投げかけてみました。

それは日本人は相手を思いやる文化が根付いているからだという意見がありました。

相手を思いやるからこそ様々な表現が必要になる、今では悪いイメージさえある「忖度(そんたく)」という言葉も、もともとはそんな日本人の思いやりの性質を表現した言葉でした。

それに対して英語圏の人達はあいまいをよしとしない。だからことばに多様性が生まれないとする意見です。

その真偽はおいておくとしても、とにかくことばには個人の価値観だけではなく、集団の価値観が込められている可能性があるということです。

自分の中からだけ生まれているとも思えることばは、実は長い年月を経て様々な時代の様々な人達の想いが込められていて、

その想いも込みでさらに自分の想いをも込めることができるという不思議な存在だと、そんな気がしました。


最後に、ことばは自分の中から生み出されるということを中心に語り合ってきました。

ことばが内側から生まれるのではなく、ことばが外側から届けられるという感じもあるのではないかという意見がありました。

確かに、ある場所でこのことを話そうと思っていたにも関わらず、

その瞬間、その場所で、そこにいる人達によって作られる空気、様々な要因が働きかけて、

自分では事前には思いもよらないようなことばを話していたという経験は私にもあります。「ことばが降りてくる」という表現もあります。

ことばには多様性、変幻自在性があるのみならず、私達が意識しないところで不思議な力までをも帯びているものなのかもしれません。


まさにことばの可能性は無限大です。

これからもことばを大事にし、時にその変動性に翻弄されながらも、

その可能性に夢を感じながらことばと接していきたいという気持ちになりました。


次回のたにやま哲学カフェは4月30日(火)の予定だそうですが、

次回はなんと私が司会で「医療」についてたにやま哲学カフェをさせていただけることになりました。

御興味のある方は、最新の情報をFacebookページでご確認ください

皆様との対話を心よりお待ち申し上げます。


たがしゅう

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コメント

非公開コメント
        

自分を理解する
言葉は自分を理解する為にもある。
これには納得してしまいました。
例えば赤ちゃんは自分の内部に起こっている「痛い」「寒い」「気持ち悪い」等の違和感を泣くことで表現しますが、大人になると「言葉で解消出来ている」のでしょうね。だから泣く必要がない。
そう考えると、「何でも言葉にできる人・言葉表現力の豊かな人」はストレスを抱えづらいという側面もあるのではないかと考えたりしました。
喜びやうれしいことはあえて言葉にせずとも体にプラスの作用が働きますが、悲しみや不安は積極的に言葉にすることで、混沌とした心理状態から抜け出しやすくなりストレスの軽減にも役立つのではないでしょうか。
周囲を見てみると、「寡黙な方よりおしゃべりでうるさい方ほど元気」
そう感じます。
Re: 自分を理解する
だいきち さん

コメント頂き有難うございます。

「ことばで自分を理解する」
その側面があるからこそ、ポジティブなことばを発すれば、自分をポジティブへと変えることが可能となるのかもしれませんね。