論文にこだわらなくていい

2017/06/02 00:00:01 | ふと思った事 | コメント:4件

医師の世界ではいかに多くの論文を書き上げるかという事が一種のステータスとなっています。

論文をたくさん書いて世界に認められた医師は、例えば教授になったり、その道のリーダー的存在として周りから見られます。

そして立派な肩書がついて、医療とは関係のない一般人も、その大層な肩書を見て今までさぞ立派な仕事をされてきたのだろうと察します。

しかしそのような論文をすべての医師達が読んでいるかと言えば、そういうわけではありません。

自分の興味のある分野の論文なら細かく読むかもしれませんが、そうでもなければまず読まないですし、

自分の興味ある分野でさえ、医学論文の数は膨大なので全てを読み切ることなど不可能です。

かたや論文1本書き上げるのには相当な労力を要します。書きあげたとしても投稿の際に非常に細かい重箱の隅をつつくような質問の嵐を受け、

修正に修正をかけて受理された論文は非常に限られた条件下での事象しか表現されていなかったりします。 自分の示したかったことが曲げに曲げられてようやく論文が医学雑誌に載ったとしても、

その論文を読むのは、その領域に興味を持つ医師の中の一部であり、しかも内容の多くは査読により制限される始末です。

冷静になって考えると、こんな非効率なシステムがステータスとなっていること自体どうかしていると私は思います。

しかし医学論文という形でないと他の医師達に信用してもらえないから、研究を志す意志達はルールに則って今日も論文を書くのです。

でも、「医師達に信用してもらう事に必ずしもこだわらなくてもよいのではないか」と、ふと私は思いました。


要は、何のために論文を書くのかということです。

自分が出世するため、出世して給料を上げて名誉を得るため、家族を養うため・・・?、そういう事ならば、論文を書き続ける意義はあると思います。

けれどそれが「最終的に目の前の患者さんを救うため」という事に根ざしているのであれば、

自分が調べた情報を発表する場所は必ずしもそんな非効率な医学雑誌の場でなくてもいいはずではないでしょうか。

例えば、N=1(被験者数1名)で何かしらの実験を行い、重大な事実がわかった場合、

その事を論文化して医学雑誌に投稿しようとしたところで、どこの雑誌に出しても箸にも棒にも掛かりません。それはエビデンスのない事実を軽視するEBM社会の弊害です。

そして仮に医学雑誌に載ったとしても、その情報を一般人である患者さんが直接読むことはまずありません。

N=1であっても、その情報が参考になり、場合によっては症状を改善したり、命を助ける事につながる患者さんはもしかしたらいるかもしれません。

それならば、論文という形にこだわらず、ダイレクトに患者さんに伝えられるメディアの方がよいのではないでしょうか。

つまり私ならば、私が気づいた事実をこのブログに載せた方が、

苦労しても書いても何度もはじかれ、やっと載ったとしても言いたいことの半分も言えていない、しかも限られた医者しか読んでいない医学雑誌に載せてもらうよりも、

よほど世の為、人の為になるのではないかと考えます。


・・・え?そんなブログなんてもの、誰も信用しちゃくれない・・・ですか?

信用は自分で作ればいいのです。医学雑誌よりも信用されるブログにすればいいのです。

「たがしゅうの言っていることならば信用できる」と思ってもらい、私の実験結果を読者の方にストレートに伝える事ができる環境を作ることができれば、

その方が、頑張って論文を書いて医学雑誌に載ることよりも、よほど患者さんのためになるのではないかと思っています。

だから私の毎日のブログ活動は、

日々読者の方々への信用を作り上げていく作業でもあるのです。


たがしゅう
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コメント

No title

2017/06/02(金) 11:52:44 | URL | 楢原卓哉 #-
先生の言う通りだと思います^^これからもよろしくお願いします。

Re: No title

2017/06/02(金) 12:06:15 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
楢原卓哉 さん

 コメント頂き有難うございます。

2017/06/04(日) 22:25:43 | URL | だいきち #-
久しぶりのコメントです。記事はしっかり拝読させていただいてます。

現代は情報が氾濫し、有益な物が偽物に紛れこんでいます。昔は「医師」とか「先生」の聖職者と言われる肩書きの方々は「情」がありました。今は名ばかりの方々が多すぎます。絶対的決定力を持つ聖職者が自己の保身や出世に力を注ぎ「情」を注ぐことをお座なりにし始めたら、もう世の中は頼る物が無くなります。重大な判断を「受け手」が判断しなければならない悲しい時代とってしまいます。
だからこそ、受けてを一番に考える「情」のある記事、たがしゅう先生のブログは、お世話でもなく有益な情報です。
大変でしょうが、今後もよろしくお願いします。

Re: 情

2017/06/05(月) 06:15:58 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
だいきち さん

 コメント頂き有難うございます。

> 重大な判断を「受け手」が判断しなければならない悲しい時代

 そういう風に思う気持ちはわかります。
 けれどヒトがヒトである限り、先生であろうと聖職者であろうとヒトは間違います。
 信頼ができて互いを信じ合える関係はよいものですが、かといって全てを任せきってしまう関係はいつの時代もよろしくないと私は考えます。

 理想は自分の頭で考えつつ、他人を信頼し、人類共同体レベルで行動できる思考パターンだと思います。

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