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レールの上ではなく平野を進む

category - ふと思った事
2017/ 03/ 22
                 
私は医師の世界では取り立てて優秀な方ではありません。

もともと大学受験のセンター試験で大失敗し、真面目が取りえであった私を母校の面接官が温情でギリギリ医学部へ入学させてくれたところから始まっています。

医師になって以降も内科医として一般的な事は対応できますが、

取り立ててすごい専門技術があるというわけではなく、研究者として論文を執筆する能力も低い方です。

医師の世界には私の上にたくさんの優秀な医師達が君臨しています。

同じ土俵で勝負をすればそうした優秀な医師達にアドラー心理学で言う所の「劣等コンプレックス」を感じざるを得ない状況ですが、

世界は広いのです。必ずしも同じ土俵に居続ける必要はないと気付けば随分と楽になります。
            

すなわち、自分にしかできない事は何だろうか、という視点に立って考えるのです。

優秀な医学論文を書くことは、私でなくとも誰か優秀な医師がやってくれるはずです。

しかし糖質制限を知り、その効果を身を持って実感し、神経内科医の経験を経て、しかも漢方にも興味を持つ私には、私にしかできない仕事があるように思うのです。


学校教育の世界では、受験命の詰込み教育が見直され、

一時期ゆとり教育が教育界を席巻し、大きな方針転換を迫られましたが、

その後、そのゆとり教育の欠陥ありとの事で再び見直されて、元の教育方針に戻りつつあると聞きます。

けれど私はゆとり教育という方針そのものは良かったと思っています。問題はその概念と方法論です。

私が賛同するのは、ゆとり教育の「ひとつのものさしで図らない」という部分についてです。

学力という一つのものさしで生徒を評価し、そこから外れた者は落ちこぼれという烙印を押される風潮が私は嫌でした。

学力が低いけれど芸術の才能がある子が校内で低く見積もられるというのは多くの方が指摘するところではありますが、

他にも、学力もあって芸術の才能もあるという子は、その学力という名のレールに乗せられて、芸術の才能に蓋をしてしまう可能性だってあるわけです。

一つの価値観で固定することは、生物の多様性を無視することでもあります。

だからいろいろな価値観を認めるというゆとり教育の概念がよかったのに、

円周率を3.14ではなく、およそ3で教えるとか、かけっこで順位を決めないとか、何をやってんだという感じでした。

一直線に並べられたレールの上を走るのではなく、

無限に広がる平面の上を、それぞれが行きたい方向へ突き進んでいく、

それを温かく見守ることができる社会を作っていくべきだと私は思うのです。

だから私は既存の医師の世界という名のレールに縛られることなく、

広い意味で医療を捉え、医療という名の広大な平野の中を自由なスタンスで歩き続け、

まだ見ぬ荒野へ突き進んでいきたいと考えています。


たがしゅう

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