自分で会得するしかない

2017/03/09 00:00:01 | ふと思った事 | コメント:0件

前回に引き続き相田みつを美術館への二度目の訪問で学んだことを記事にします。

今回のテーマは「あなたのこころが」ということで作品が展覧されていたそうです。

「しあわせはいつもじぶんのこころが決める」という詩に代表されるように、

自分の心の在り方を見つめ直す機会を与えてくれる作品が多かったように思います。

これはアドラー心理学の「自己受容」から始めるスタンスや、先日フランス人から学んだ「知的エゴイズム」の中の個人主義にも通じるところがあります。

そしてもう一つ、裏のテーマとしてタイピングされた詩の文章をとそれをみつを先生が書にしたものが交互に展示されていて、

詩と書の違いについて解説されている箇所がありました。 なぜ詩のままではダメだったのか、なぜ改めてしかも長い年月をかけて書にしたためなければならなかったのか、

それは詩のままでは情報量が多く、きちんと自分の伝えたいメッセージが伝わらないおそれがあったからではないかと館長の相田一人さんは解説されていました。

詩でも十分に情報が凝縮されていて、それでも解説文がないと解釈が難しいものもあるくらいだと凡人なら思いますが、

みつを先生はそれでも情報過多であったと考えた、すなわち、みつを先生にとって書をしたためることは情報凝縮であったというのです。

情報を凝縮しすぎるとシンプルすぎて正しくメッセージが伝わらない、けれど情報が多すぎるとこれもまた相手へ伝える情報が散漫になってしまう。

そのちょうどいい所を探してみつを先生は長年書と向き合い、悪戦苦闘されてきたのではないかと思います。


もう一つ、こんな話もありました。

字を書くときに力を入れると力みます。力むと字が固くなります。

そうかといって力を入れないと字がたるみます。

そのちょうどいい所は口で説明しても理解してもらえないという話です。

情報の集約にしても、字を書くときの力の入れ方にしても、

ちょうどいい塩梅を身に着けるには、教わるよりも失敗を繰り返して自分で会得するしかないという事を感じました。


鎌倉時代の僧侶で浄土真宗の開祖、親鸞の考え方がまとめられた「歎異抄」では、

どうしても煩悩を取り去る事ができない罪を抱えた自分をも、全て救ってくれる阿弥陀仏様へ委ねればよいという「他力」の信心について説かれていますが、

さりとて念仏も何もせずに何をやっても阿弥陀様が助けてくれるとふんぞり返っていたら救われないという注意書きも書かれているので、

委ねればいいのか、委ねてはダメなのか、読んでいて結局どちらにも着地させてもらえないもどかしさがあります。

しかし人間は突き詰めればいつまでもこのような半端な状態であり、

その中で自分でいろいろ経験しながら一番よい塩梅の所を死ぬまで探し続けていく必要があるものなのだと思えば、

それは究極の意味でバランスを取りながら生きていることとなり、

両極端に走らなくて済み、幸せに向かって歩いていけますよという究極の人生の教えなのかもしれません。

本当の自分の幸せへの道は、誰かが教えてくれるものではなく、

自分で探していくしかないものなのだと私は思います。


たがしゅう
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