貴重な縁を大事にする

2017/03/08 00:00:01 | ふと思った事 | コメント:1件

先日、東京の相田みつを美術館へ二度目の訪問をしました。

こちらの美術館は3ヶ月に1回、展示作品の総入れ替えを行なっているらしく、

二度目の訪問でも、前回の訪問時とはまた違った作品の種類と構成から成っていて、

また新たな気づきを与えてもらう事ができます。

今回は運のいい事に私の訪問中に、相田みつを先生の長男で美術館館長の相田一人(かずひと)さんの気まぐれトークショーというものが開催されていましたので聴講させてもらいました。

館長は誤解されがちなみつを先生の字体がめんどうくさくて適当に書いたものではなく、

10代から20代の書家の基本を心得た上で、30代から自分の言葉を自分のやり方で伝える書を追求した結果、あの味わい深い字体にたどり着いたという事を教えて下さいました。 相田先生がまず詩を書いて、それを書にしたため完成させるまでには、何度も何度も失敗を繰り返し、

すごいものでは詩ができてから書になるまで10年かかったものまであるそうです。

また一回一回が清書で下書きなど一切しなかったそうなので、紙代も決して馬鹿にならなかったようで、

当時の一流企業の初任給が15000円という時代に、紙代が30000円くらいかかっていたそうです。

それでも相田みつを先生は、副業を一切行わず、筆の道一本で生きていくスタンスを生涯崩さなかったそうです。

はたしてどれだけの覚悟がそこにはあったのでしょうか。

今でこそ大変有名な先生として広く知られていますが、

名が知られ始めたのは、初の著作「にんげんだもの」が発刊された60歳の頃からであったそうです。

非常に遅咲きだったみつを先生、いくら才能があっても将来名を上げる確実な保証があったわけではないのに、

それでも途中で道を曲げることなく、長い冬の時代を耐え忍び最後まで信念を貫きとおしたその生き方には感服します。

正直言ってそんな経済状況では食べるものもろくになかったのではないかと想像されましたので、

トークショーの後、一人館長に本のサインを求めた際にその疑問をぶつけてみたところ、

「確かにミルク代も足りなかった時代もあったと聞いている」とのお答えでした。

もしかしたら相田みつを先生は結果的に断食を繰り返していた状況もあったかもしれないとも思いました。

それがひょっとしたら天才的なアイデアの思い付きの土壌を作っていたのだとすれば、

何とも深く学ぶところの大きい生き方のスタンスです。

この貴重なトークショーを運よく聞けた事に対し私は非常に縁というものを感じました。

というのも今回はスケジュールの都合上、美術館に滞在できる時間はわずか1時間でした。

その1時間の間に、たまたま行われた15分程度のトークショーを最初から最後まで聞けたという幸運です。

この貴重な御縁を大事に、私も相田先生のスタンスから学びを得て生きていきたいと思います。


たがしゅう
関連記事

コメント

管理人のみ閲覧できます

2017/03/09(木) 00:58:57 | | #
このコメントは管理人のみ閲覧できます

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する