世界をネガティブな目線で見ない

2017/02/23 00:00:01 | 普段の診療より | コメント:0件

私が変われば世界は変わる」というアドラー心理学から学んだ言葉は、

どんなに悪い状況でも自分の視方次第で良い方向に持っていく事ができるというポジティブな意味で用いがちですが、

逆もまた然りなのだなと思う場面もよくあります。

私は神経内科医として認知症診療に携わる機会も多いです。

多くの患者さんを見ていて思うのは、「認知症になるのが怖い」という大きな不安です。

その不安が時に暴走し肥大化し、自分自身を苦しめてしまっているという状況を、

私は医師の立場から客観的に見ていて強く感じます。 昔は「痴呆」と差別的に呼ばれていたのが、「認知症」という呼び名に変わり認知症診療が広く世に知られるようになったことも影響しているのでしょうか。

患者さん達は気軽に医師に対して「もの忘れが心配で・・・」という不安を打ち明けるようになりました。

ただ、中にはそれが明らかに度忘れのレベル、すなわち誰でもそのくらいのうっかりはあるでしょうというレベルのものであっても、
「もの忘れが心配だから」という理由で薬を求めようとされる患者さんもいらっしゃいます。

度忘れと病的なもの忘れの見分け方はいろいろありますが、

一番わかりやすいのは場面の一部を忘れたか、場面ごと忘れたかという違いです。

例えば「昨日の晩御飯で何を食べたかを忘れるのは度忘れ、晩御飯を食べたこと自体を忘れるのは病的なもの忘れ」

あるいは「旅行に行ってやった事を一部思い出せないのは度忘れ、旅行に行ったこと自体を思い出せないのは病的な物忘れ」という感じです。

問題は度忘れのレベルであっても世の中の流れによって不安を助長され、薬を強く希望する患者さんが結構いるということなのです。

患者さんが「もの忘れが不安」をあまりに連呼されれば、

抗認知症薬の副作用について認識の甘い医師なら、すぐに薬を処方してしまうのではないでしょうか。

そのくせそういう患者さんに食事療法での認知症予防指導をしても全く良い反応を示さない事が多いです。

これはまさに自分自身で病気ではないのに自分を病気の世界に引き込んでいるようなものだと思います。


主観というものは、しばしば変動します。

私が診ていても会う度に「もの忘れが進行している」とおっしゃる患者さんは結構おられます。

確かに客観的にみても進行しているという場面はありますが、それと同じくらい客観的にみて横ばいなのに「悪くなっている」と主張し続ける患者さんもおられます。

「だんだん悪くなっている」「よくなるはずがない」という目線で世の中を見ていれば、

何もかもがそのように見えてくるのではないでしょうか。

そしてそのようにネガティブに捉える事で、実際に身体の方にもストレスホルモンなどを介して悪い影響が出てしまうわけですから、

名実ともに病気を自分で呼び込んでいるという事になってしまいます。


でも確かに診察室で検査をして認知機能テストが横ばいであったとしても、

そういうテストには反映されないような問題行動とか、実際に一緒に住んでいる家族にしかわからないような「認知症が進んでいる」という状況もあるかもしれません。

しかしそうだとしても、最初から決めつけずにフラットな目線で現実を眺める事が大事なのです。

自分の目の前に広がるシンプルな世界を、自分の色眼鏡で複雑にすることはありません。

そして目の前の現象がどうであったとしても、やるべきことはぶれません。

「First, do no harm(まず害をなすなかれ)」

副作用をもたらすかもしれない薬を切望するのではなく、

認知症の原因となっているかもしれない今ある害悪と向き合い、

それをコントロールしようとすることだと思います。

本当の敵は外ではなく、意外に自分の中にあるという事を、

最近特によく感じます。


たがしゅう
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