Post
我の強い言葉は受け流す
このまま説明を続けても相手が理解してくれることはきっとないだろうなと思う瞬間が何となくわかるようになってきます。
そういう時は相手をどうこうしようという発想を捨て、自然の流れに身を任せるようにします。つまり説明するのを諦めます。
糖質制限を伝えたいのに説明をしないというのは、一見その目的から最も遠ざかる行為であるように思えますが、
「急がば回れ」、これが一番の近道であるかもしれません。
あるいは、ブログやSNSでも様々な意見が飛び交っていますが、
中に非常に長い文章で自分の意見が書かれているのを目にすることがあります。
そうした内容を読んで私は、ある種の凄さを感じると同時に、「この人はもしも反対意見を述べられたとしても、おそらくそれを認める事はないのだろうな」という諦めにも似た感覚を覚える事があります。
長文にも質のよい長文とそうでない長文があると思います。ここで私が取り上げるのは後者です。
質の悪い長文にはいろいろなタイプがあります。
例えば、言いたい事がまとまっておらず、同じような表現が重複したりして無駄に長くなっている文章です。
もう一つは想いが強すぎてバランスを欠いている文章です。バランスとは自己批判の余地を残しているかどうかという事です。
具体的には、「〇〇であるに違いない」「きっと〇〇になるであろう」「〇〇と考える人は間違っている」などの表現が含まれつつ、ひたすら長い文章です。
そういう文章を書く人はおそらく自分の中の正義のようなものがあって、それを周囲に認めさせたいという想いが強いのだと思います。
しかし100%正しい思想などあるはずもありません。どれだけ自分の考えが合理的であったとしても、どこかで自分の気づかない所で自分が間違っているかもしれないと思っておくことが大事だと私は考えます。
相手を言い負かす事には気持ちが良い側面があります。
しかし言い負かす、言い負かされるの観点がある時点で競争原理の中で生きている事になります。
優劣のない広い平面上の世界の中で、相手がどう思おうと自分の間違っているかもしれない意見をただ愚直に述べるのみ、というスタンスで語れば、
そこには異論・反論の余地が生まれます。そうした意見を受け止め、さらに発展させていく事で人類全体に貢献するという心持ちでいれば、思考の好循環が生まれます。
それなのに、「私の考えは完璧だ。あなたの思想は間違っている。直ちに反省し見直しなさい」というようなニュアンスの文章を書いてしまえば、
読者に「あぁ、この人には何を言っても無駄そうだな」という感情を芽生えさせ、折角の異論・反論の好機を失ってしまいます。
その事に気が付かないと言った本人は「言い負かしてやった。どうだ参ったか」と気持ちよい気分に浸っていたとしても、
本質は「裸の王様」、賢い読者からは見放されて折角の発展の機会をみすみす自分で失う事になります。
だから、私はそうした我の強い文章をみた時には、
たとえそれに対する反論を論理的に述べる事ができたとしても、あえて何も言わずに受け流すようにしています。
相手と同じ競争原理に取り込まれないように、不毛な議論には自分が負けたと思われたとしても構わないから終止符を打つ、というようにしています。
変わらないものの流れには逆らわない、同時に自分の中には常に変えられる余地を残しておく、
そのように考えて文章を書き続けることが、私の中の世界を豊かに拡げていくのに好ましいスタンスなのではないかと今は考えています。
たがしゅう
コメント
管理人のみ閲覧できます
2016-12-26 15:00 編集