Post
古書に込められた想い
category - ふと思った事
2016/
06/
20インターネットの発達に伴い、
ブログやフェイスブック、ツイッターなどのSNSも普及し、
一般人が気軽に文章を書いて、それを様々な人の目に触れさせる事ができるようになりました。
しかしパソコンやスマホをベースに作り出すその文章は、
いつでも修正可能で、ちょっとした空き時間にかけるような気軽に書けるものです。
しかし少し昔の時代の文章というものは、
それほど気軽書けるものではなかったのではないでしょうか。
ブログやフェイスブック、ツイッターなどのSNSも普及し、
一般人が気軽に文章を書いて、それを様々な人の目に触れさせる事ができるようになりました。
しかしパソコンやスマホをベースに作り出すその文章は、
いつでも修正可能で、ちょっとした空き時間にかけるような気軽に書けるものです。
しかし少し昔の時代の文章というものは、
それほど気軽書けるものではなかったのではないでしょうか。
ブログなら書き損じはすぐにバックスペース、デリートで消すだけですし、
鉛筆やシャーペンで書いた文章も消しゴムを使えば書き直す事ができます。
しかし筆やボールペンでは書き直しができないので、それだけで文章を書く際に緊張感が生まれます。
また印刷技術は、火薬、羅針盤と並び、15~16世紀の三大発明として歴史に残っていますが、
それ以前の世界は書いたものを世に残す場合は、書いて書き写すより他に方法がなかったはずです。
ましてや今のようにコピーや電子データとして文章を残す事など到底できません。
するとそのような技術がない時代に、
もしも何らかの素晴らしい文章と出会い、それを誰かに伝えたいと思った場合には、
真剣に一言一句間違える事のないよう、ただただ慎重に書き写されていたのではないかという事が想像されます。
何が言いたいかと言いますと、昔の時代に緊張感とともに書き残された書物には、
それだけ間違いなく後世に伝えたいという熱い想いがこめられているのではないかという事です。
漢方の勉強をしていると、傷寒論、黄帝内経、神農本草経が三大古典と呼ばれていて、
熟練の漢方医の先生達から相当価値のある書籍として扱われている事を知る事ができます。
確かに古い本だからといって馬鹿にできない、実地に即して事実をありのままに記して分析した貴重な情報にあふれている事に気がつかされます。
「温故知新」という言葉がありますが、
古代の人達が決死の想いで残した文章の重みを、
私はしかと受け止めて今に活かしたいと思います。
たがしゅう
コメント