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自分の頭で考え続ける
第2次世界大戦中にナチスの強制収容所から脱出し、アメリカへ亡命したドイツ系ユダヤ人「ハンナ・アーレント」、
哲学を学んだ彼女は1960年代初頭、何百万ものユダヤ人を収容所へ移送した、
ナチス戦犯アドルフ・アイヒマンが逃亡先で逮捕されたニュースを聞きます。
ハンナは自らの人生を大きく滅茶苦茶にしたアイヒマンを裁くためのスラエルで行われた歴史的裁判に立ち会い、
その報告書をザ・ニューヨーカーという雑誌にレポートを発表する事になりました。
ところが裁判で見たアイヒマンの姿は、皆が想像していたような極悪人ではありませんでした。
アイヒマンはユダヤ人を強制収容所に送り、その結果殺害されてしまうという工程を、
自分の頭で考えることなく、あくまで上から指示されたこととしてただただ事務的に処理していたというのです。
つまりアイヒマンは自分で考える事を放棄したがゆえに、罪の意識が全くなく、
そうであるにも関わらず、結果的に残虐な行為に加担してしまっていたわけです。
このような悪をハンナは「凡庸な悪」と呼び、「アイヒマンはどこにでもいるような普通の人間だった」と報告書で指摘したのです。
しかしその結果、ハンナは同じ辛い想いをした仲間であるはずのドイツ系ユダヤ人達から、
戦犯アイヒマンを擁護したかのような誤解を受けて、裏切り者の烙印を押されて、様々な人々からひどい批判を浴びせられ続けます。
しかし、自分の頭で考え続けたハンナ・アーレントは、死ぬ直前まで自分の主張を崩さなかったのです。
この映画、実に考えさせられるところがありました。
映画の中での大きなメッセージの一つは「自分で考える事を放棄した人間はもはや人間ではない」というものでした。
自分の頭で考えない事は、知らず知らずのうちに悪や罪につながりうる行為なのかもしれません。
このアイヒマンのような悪は、カロリー制限を無根拠に信奉し、自分の頭で考えないような医師にも通じるものがありますが、
何も医師だけの話ではなく、患者だってそうかもしれないと私は思いました。
この間も、病気の治療法についてある患者さんに二つの選択肢を提示して説明したときの反応が、
「どちらにすればいいかなんて私にはわからないから先生が決めて下さい」というものでした。
でもこちらは医学的な事を噛み砕いてメリット・デメリットを紹介し、考えられるように説明をしているわけです。
それなのに「わからない」などというのは、医者を信頼するといえば聞こえはいいですが、その実は「思考の放棄」だと思います。
あるいは、わからない事が出てきた時に、その事についてろくに調べもせずに、自分の中ですぐに結論を決めてしまうような人もいますが、これも思考の放棄です。
考えているようで何も考えていない、考えるのが面倒だから手近な結論に落とし込んでいるだけなのです。
しかしながら、今はある患者さんの例を出しましたが、
これはある意味いつ自分の身にもふりかかるともしれない事だと思います。
というのも医学の事であれば私は多少は詳しいですが、他分野ではまったくの素人であるわけですし、
その逆の立場になったときに、自分は自分の頭できちんと考え続けられるかどうか、ということです。
自分が考えない事によって、自分が苦しむ事になってしまうかもしれないし、
それだけならまだしも、アイヒマンのように他の誰かに苦しみを与えてしまうかもしれない。
そうならないようにするためにも、
とにかく「自分の頭で考えること」が重要なのだと感じました。
たがしゅう
コメント
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2014-12-02 17:27 編集
たがしゅうさん
トッドの類型では日独、あるいはスウェーデン、朝鮮半島、スペイン北部、フランスの一部が権威主義的直系家族に根ざした文化圏であるとされます。
日本の近代医学はベルリン大学を頂点としたドイツ的権威主義をそのまま移植したものだと思いますが、そしてもともとの文化的土壌が似通っていることから抵抗なく移植され、たがしゅうさんが言う「自分の頭で考える」ことを完全放棄した日本版アイヒマンが量産されているのでしょうか。
グラスルーツ的に自分の頭で考えるといっても、それは相当な学習の上でしか成り立たないことだと思います。
2016-03-25 16:12 佐々木 URL 編集
Re: たがしゅうさん
コメント頂き有難うございます。
確かに少し前まで医学教育の中でドイツ語はよく用いられていましたし、未だにその名残りが見られる医学界での専門用語もちらほら見受けられます。
権威主義は自分で考える能力を奪います。自分で考える力を養いたいのなら、まずはその事実に気がつくところから始めるべきなのかもしれません。
2016-03-26 11:13 たがしゅう URL 編集