主体的医療について語りにくい社会

2024/05/15 16:00:00 | 主体的医療 | コメント:0件

以前、私は「主体的医療について語り合う朝活」というイベントをやっていました。

その時に感じた今に通じる違和感について今回は書き記しておこうと思います。

「主体的医療」というのは、「自分の頭で考えて自分の心身を整えていくための医療体系」と表現することもできますが、

別の言い方をすれば、既知の現代医学が対象を表から見ているのに対して、「主体的医療」では同じ対象を裏から見ているような見方をする、という説明の仕方ができます。

現代医学の表からの見方は「病原体病因論」で、病気をもたらす何らかの外部原因について追究しようとするスタンスです。

一方の主体的医療の裏からの見方は「宿主病因論」で、病気とは外部環境の影響を受けながらも基本的には自分自身の表現型として表されるものとして見るスタンスです。だからこそ主体的医療の方は自分の頭で考えない限り実践できない、とも言えます。

例えば、「がん」という対象であれば、現代医学では「遺伝子異常が原因で起こる無秩序に増殖し続ける悪性細胞」とみなしますが、

主体的医療では「糖代謝過剰駆動状態に適応するために後天的に遺伝子を変化させた結果としての細胞(自分自身)の姿」とみなします。

捉えている事象は同じであっても、どちらのスタンスで捉えるかによって次にとるべき行動が全く変わってくるというのがポイントです。 そのような「主体的医療」の視点に気づくと、現代医学で定義された何千、何万もの病気に対して「主体性」の入り込む余地があることがわかりますし、

逆に言えば、現代医学は医療に「主体性」の入る余地がまるでないかのように言説を唱え続けている、その結果「お医者様にお任せするしかない」という価値観をはびこらせてしまっていると言うこともできます。

そんな状況に対して、いち早く「主体的医療」の視点に気づいた人間として、少しでも多くの人に「主体的医療」の視点から見える様々な観点を提供し、それぞれが自分の頭で考えてもらえるようにする場を作ろうと思って始めたのが、

「主体的医療について学び合う朝活」という企画だったのです。

大事なことは参加者の「主体性」なので、一方的な押し付けにならないように、あくまでも私に見えた景色はいち意見として提示することを心がけ、思考を深めることを支援することに徹しました。

細々とした活動でしたが、ありがたいことに数名の方が参加してくれて毎回場として成立させることができましたが、

何度か続けているうちに、次第に自分の中での違和感が大きくなっていくのがわかりました。

その違和感を一言で表現するならば、「意見が全く溶け合わない」と言うことなのです。

なんと言うか、一旦は私の意見に賛同を示したとしても、すぐにまた元の世界に戻っていく感じとでも言いましょうか。

結局、世の中は圧倒的多数の「病原体病因論という前提に立った現代医学」の言説に満たされています。

「主体的医療」的な言説は、少数ながらあったとしても、「主体的医療」という形をとっていませんので、

「主体的医療」的な意見に触れたとしても、最終的には「医療のことは専門家に任せるのが一番だ」という多くの人達の意識の中に根強く定着している思考体系に戻ってしまいます。

朝の30分やそこら、「主体的医療」的な意見にふれたところで、結果的には誰の現実も何ら変わることはないように思えました。

もちろん、そもそもたいして多くの人に知られていない活動ですから、多くの人に知られるようになるまで地道に活動を続けていくという選択肢もあるでしょう。

しかしながら、私は知られているか知られていないかという問題でもないような気がしたのです。

朝活に参加してくれた人はまだいい方で、その周りには「主体的医療」的な意見にふれたとしてもそこに何ら価値を見出さない人達がたくさんいるような気がしたのです。

なぜ「主体的医療」的な意見に価値を見出さないのかと言えば、世の中があまりにも多くの現代医学の表側の言説に満たされているからです。

「表側」と表現したら、まるで「主体的医療」の方はアンダーグラウンドな思想であるように思われてしまうかもしれませんが、あくまでも視点の違いだということをわかりやすく伝えるために使っている「言葉」に過ぎません。

ある意味で、現代医学を表側だとすれば「主体的医療」のやっていることは確かにアンダーグラウンド、いわゆる常識外れなことなのかもしれませんが、

逆に言えば「主体的医療」の方を表側とすれば、現代医学は主体性を失わせるような非常に常識外れな医療を展開しているように見えています。表か裏かはお互い様なのです。

話がそれてしまいましたが、要はこんな現代医学の言説にまみれた世界の中で、「主体的医療」について叫んだところで誰にも響かないと思って、

主体的医療について学び合う朝活」の活動に終止符を打った、という流れがありました。


その次に私が考えたのは、「主体的医療」の言説を集中的に学ぶことのできる空間を作ることでした。

オープンな場で「主体的医療」の言説にふれたとしても、結局あふれんばかりの現代医学の言説だらけの社会で日常生活を送る以上は、何事もなかったかのように「主体的医療」の言説は忘れ去られてしまう公算が高いと。

それであれば、一旦外界から隔絶したところで、私が「主体的医療」の視点に気づくに至ったプロセスを追体験できるように、

「主体的医療」の言説に十分にふれることのできる新しい社会が必要だ、と思って作ったのが「主体的医療ダイアロジカルスクール」でした。

ここで、日常生活の片手間で「主体的医療」の言説にふれるのではなく、

「主体的医療」の価値をある程度認めた段階にいる人が、世の中の喧騒に流されることなく、ここでなら「主体的医療」に存分にふれることのできる場にしようと思ったのです。

そして若干の金銭的ハードルを設けることによって、より真剣に学ばないと損をするというインセンティブも発生する仕組みにしました(※逆に言えば、真剣に学ぶことで金額に対して与えられる価値が大きくなるという構造)。

「主体的医療」は「現代医学」の「病原体病因論」の思想と異なり、唯一無二の正解があるとは考えません。

上述の「がん」の例で考えても、「糖代謝過剰駆動状態に適応するために細胞が後天的に遺伝子を変化させている」という構造までは伝えることができても、

でははたして自分の何がどうなって糖代謝過剰駆動状態をもたらしているのか、については第三者がわかりきることができません(唯一、客観的に確認できる要素は糖質量ですが、これさえ処理能力には個人差があります)。

だから「主体的医療」の視点からの言説を置き続けることによって、それぞれが考える幅を広げるきっかけをできるだけ多く置いてみるということを今は取り組んでいます。

しかし一方で医学の情報は人類共有の財産であり、決して囲い込みはしてはいけないという考えも私にはあるため、

主体的医療を集中的に学ぶ有料のクローズドなコミュニティでありながら、

有益だと思えばメンバーが自由に情報を外に出してもよいというセミクローズドなスタンスをとることにしました。

ある程度学んであとは自分の頭で考えていけると思えば、気兼ねなくやめてもらっていいということもスクール説明会の際には強調しました。

そのような方針で始めた「主体的医療ダイアロジカルスクール」でしたが、

開校から半年弱の2024年5月15日現在、ありがたくも10名の参加者に集まって頂くことができました。

しかし、ここでもまた私に大きな違和感が立ちはだかりつつあります。

やはりほとんどの人は「主体的医療」について学ぶことに価値を見出していない、ということです。

私は一連のコロナ騒動は、「主体的医療」を強く学ぶ必要性を、強烈に暗示した出来事だと思っています。

医療に任せていたら、社会丸ごと無茶苦茶にされて、そのくせ自分のやったことを振り返ることもせず、

まるでおもちゃ箱をひっくり返して好き放題遊んで、部屋をとんでもなく散らかし切っても、平気な顔をして過ごしているこどものように、

自分さえ良ければそれでよしというような原理で動いています。

まだ相手が社会性のできていないこどもであれば許されるかもしれませんが、

たくさんの大人達が運営している医療がそんな態度であるのなら、

そんな人達の横暴に任せたら大変なことになることは想像に難くないはずです。

実際に社会は大変なことにさせられた(いや、今もなお現在進行形で大変にさせられている)わけですし。

それはまさに「主体的医療」を学ぼうと思う強烈なきっかけになって然るべき出来事ではないかと思います。

にもかかわらず、今の医療の違和感にはそれでもなおほとんどの人が気づいておらず、「コロナは終わった」とか「ワクチンは問題ない」などと思っていたり(あるいはそのような意識さえ昇っていなかったり)するのは、

それくらい「現代医学」の言説が骨身に染みて文化レベルで浸透し切っていることの現れではないかと私には思えます。

これだけ強力な追い風があっても、人々が「主体的医療」の考えを知ってみようかと思えない現実を目の当たりにして、

正直私はいつも絶望感を禁じ得ませんけれども、

少なくとも今集まってくれているメンバーの皆さんや、

これから一緒に合流してくれるかもしれない未来のメンバーさん達と、

たとえごく少数派の活動になろうとも、より有意義な内容に高めていけるように、

ライフワークとして一所懸命に取り組んでいければと思っています。

もしかしたら私に必要なのは、メンバーを増やそうとする工夫ではなく、

大多数の人達に相手にされなかったとしても、それでも何とか続けていく覚悟なのかもしれません。


たがしゅう
関連記事

コメント

コメントの投稿


管理者にだけ表示を許可する