SNSは極論の海

2024/05/09 12:50:00 | SNSについて | コメント:2件

最近、SNSの情報、特にX(旧Twitter)とYouTubeの情報からなるべく離れようというチャレンジを心がけていますが、

これがなかなか難しくて、少しでもスキマ時間ができたらXやYouTubeを立ち上げてしまう自分に気づいてしまいます。

やはり自分で考えなくても次々と扇動的な情報に触れられるのは楽だし、瞬間的に満たされる部分があるのでしょう。これって糖質の特徴に似ているなと改めて思います。

一方で、これらのプラットフォームを使わないと集めるのが難しい情報もあると思っています。

例えば、WHO主導の言論統制につながる国際保健規則やパンデミック条約についての情報は、新聞、テレビで入手するのはまず不可能です。書籍はもしかしたら入手できるかもしれませんが、情報の鮮度が古くなります。

これらの情報にも扇動的な部分はあろうかと思います。しかしだからと言って、それらに全く触れないというのもいかがなものでしょうか。

考える機会そのものが失われていき、自分の知らないところで非常に社会の歪みがどんどん進行してしまうことにもなりかねません。

自分のX、YouTube依存を脱却できない状態に対して言い訳したいわけではありませんが、そもそも本当に離れるべきなのか否かという点について、私は今まだ迷いの中におります。

そんな中、この迷いについて思考を深める一冊に出会いました。
話が通じない相手と話をする方法――哲学者が教える不可能を可能にする対話術 単行本(ソフトカバー) – 2024/2/2
ピーター・ボゴジアン (著), ジェームズ・リンゼイ (著), 藤井翔太 (監修), 遠藤進平 (翻訳)


話が通じない相手と話をする方法――哲学者が教える不可能を可能にする対話術


こちらの本は、意見の異なる人とそれでも良い会話ができるようになるためのコツについて、

非常に実践的かつ具体的なテクニックが36種類も書かれているのですが、

その中に、ソーシャルメディア(SNS)を使いこなすことの難しさについて書かれている項がありました。

読んでみて、私は率直に「SNSは極論の海なんだな」という感想を持ちました。

例えば、まずXに関して言えば情報の特徴として次の要素が挙げられます。

①非言語的情報が抜け落ちる
②周りで誰が聞いているのかを認識しにくい
③より良いところを見せようとして非を認めにくくなる


「〇〇は問題だ」という言葉を見た時に、ある人は問題提起だと受け取るかもしれないし、別の人は自分への批判だと受け取るかもしれません。

そしてSNSは情報収集のみならず、情報発信のツールとして使われている側面が大きいですから、

情報を発信する側の立場に立てば、いかに自分に目を向けてもらえるかということを考えて情報を作り出そうとする意図が働きます。

当初は「思ったことをただつぶやく」程度のニュアンスから始まったものが、「多数の人を惹きつけるために先鋭化した情報を流す」という側面が目立ってきたとも言えるかもしれません。

その状況が、Xにおいていわゆる扇動性の高い情報を目にしやすいという状況につながっているのだと思います。

しかも対面であれば言うのをためらうような表現であっても、匿名かつ聴衆が見えないが故にその表現の先鋭化には歯止めが効かないところもあります。

さらに言えば、先鋭化が突き抜けている意見ほど、注目を集めやすい傾向まであるので、フォロワー数やチャンネル登録者が増えて、さらにその先鋭化した意見が多くの人の目に触れやすくなっていきます。

そのような極めて先鋭化した意見を目にした情報受信者は、扇動的に感情が揺さぶられて、罵詈雑言・誹謗中傷のやり取りが起こりやすい土壌が作られてしまいます。

そしてその先鋭化した情報を発信している人も、それまでフォロワー数をたくさん稼いで自信を強くした中で、

そのような罵詈雑言的な意見を浴びせられたら、当然ながら反発的に応答するようになり、意見が訂正されたり修正されたりすることもなく、さらに先鋭化していくという悪循環が形成されます。

その結果、SNSでいわゆる「極論」と感じられるような意見に遭遇しやすくなっているのではないかと、そのようなことが書かれていました。


「なるほど」と思う一方で、新たな疑問も浮かびました。

そもそも、「極論」とは何なのでしょうか?

パッと思い浮かぶのは「人は殺すべきである」のようなほとんどの人が同意できないような意見のことかと思いますが、

SNSと言えども、流石にそこまでの意見にはまず出くわすことはありません。

SNSが極論の海なのであれば、極論と判断する基準はもう少し下げて考えるべきかもしれません。

次に考えるのは、自分の意見を極論だと思って発することはあまりないと言うことです。

「極論を言えば◯◯となりますが」という言い回しはありますが、それは自分の意見が極論なのではなく、「自分の意見を極端にすれば」という意味を伝えているわけで、

基本的に「極論」は自分ではない誰かの意見に対して感じるものであるように思います。

例えば、私が推進している「糖質制限食」に関して言えば、「いついかなる場合も人は皆、糖質を制限すべきである」というのは「極論」であるように私は感じます。

でも、もしかしたらこの意見を「極論」だと感じない人もいるかもしれませんね。

つまり、誰にとっても等しく「極論である」と感じられる意見はなく、

ある人にとって「極端」だと感じられて、しかもそれが到底変わる余地があるようには感じられない意見が「極論」なのかもしれません。

そしてこの「極論」について、上記の本には次のようにも書かれていました。

「極論は否定すること」

言論の自由から言えば、どんな意見も発せられる自由はあるのかもしれません。でも極論を許してはいけないというのです。

「極論」が許されてしまえば、「人は殺すべきである」という意見も他の意見と等しく尊重すべきだという話になってしまいますが、それは明らかに違うでしょう、ということです。

そこまでひどい「極論」はないにしても、SNSの空間には先ほど述べたようなメカニズムで「極論」的な情報に溢れています。

「極論」は否定すべきであれば、そのSNSの場で反論してしまうべきなのかと思うかもしれませんが、

そこに大きな罠があると思っています。そのSNSでの「極論」への否定が、相手にも新たな「極論」として受け止められ、溝は深まるばかりという悪循環に陥ってしまうからです。

最近問題となっている「国やWHOがパンデミック宣言をして有事だと判断すれば、彼らが誤情報だと判断する全ての情報は検閲し、削除されたり、有罪に処すべきだ」という意見は私にとってまさに「極論」であるわけですが、

SNSはこういう「極論」と出会う場であり、その反対の意志はSNSとは別の場で表明されるべきなのかもしれません。

つまりSNSは「極論」を知るための場として活用し、議論する場としては絶対に使わないということです。

上述の本では相手の「極論」を言いくるめるようなノウハウは書かれておらず、

むしろ相手と同意できる「極論」を共通の敵と定め、その「極論」を否定しつつ一緒に生成的に会話していくにはどうすればいいかというノウハウがたくさん書かれています。

そのような生成的なやり取りを行う場合、できることならば非言語的情報が可能な限り削ぎ落とされないような対面の場が望ましいのかもしれませんが、

相手が国となれば、一国民としてはそんな場自体を設けることもできません。

でも「極論」は否定しなければならない。ならば、なるべく多くの人が同意できるような形で、丁寧に言葉を紡いでいくことから始めるべきだと思います。

このブログも非言語的情報が削ぎ落とされたフィールドなので、限界はあるのかもしれませんが、

私はひとまずここで丁寧に「極論」を否定していければと思います。

というわけで、XやYouTubeから離れる作戦は早速失敗に終わってしまいましたが、

「SNSは極論の海である」という認識を持ち、SNSは主に「極論」を入手することに特化して使うようにし、そこで決して議論はせず、

あるいは自分がSNSを使って情報を発信する場合も、なるべく扇動的にならないように丁寧な言葉づかいを心がけ、

あくまでも情報交換という程度の位置付けに留まるよう扱っていければと思います。

扇動的な情報がウワーッと押し寄せてくるので、そんな風にコントロールするのは難しそうですけどね。本当、特徴が糖質とそっくりです。

それでも認識が変われば、行動も変わるかもしれません。

何度でも挑戦して自分の落とし所を探してみようと思います。


たがしゅう
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コメント

2024/05/10(金) 14:27:54 | URL | JN #-
コメント失礼いたします。

たがしゅう先生のブログとは関連のない話をいつもコメントし申し訳ございません。

スルーしていただいても削除していただいても構いません。

たがしゅう先生のお考えをちょっと聞いてみたいと思いました。

今日生まれた赤ちゃんがこの先80年、100年生きていくのは大変困難であろうと言う事は想像に難くありません。

約100年の間、その子に降りかかるかもしれない困難を列挙してみます。

①日本が戦争をする②敵国が日本を攻める③原子力発電所が爆発する④大地震が起こる⑤大洪水が起こる⑥大火災が発生し、地域一体が消失する⑦難病または不治の病を患う⑧何かを苦にして自殺をする⑨雷が落ちて直撃を受ける⑩友人知人もしくは知りもしない相手に殺害される11交通事故に遭う12好きな登山をしていて遭難する13・・・

今を生きる私たちはその子の未来を保証してあげないといけません。私たちにその子の未来を保障してあげれるでしょうか?大変難しいと思います。

報道機関は不正を暴いているでしょうか?政権に忖度していませんか?

報道期間は国家権力警察権力に立てつくような存在でしょうか?

医療機関における専門家と言われる医師は自分の子供に胸を張って威張れるだけの仕事をしているでしょうか?
とてもそうとは思えません。

100年先のこの日本は、この世界は、この地球は、どうなっているのでしょうか?私たちはもう死んでこの世にはいません。

しかし自分の子供や孫たちが幸せに暮らせる環境を作る義務が、今、この世に生きる私たちにはあるのです。

しかし、何もできないのです。絶望は限りなくあるけど、希望はありません。たがしゅう先生はどう思われますか。私とは違い、もっとポジティブな考え方をされてますか。主体的医療、ポジティブヘルス、ウェルビーイング、等々。

Re: タイトルなし

2024/05/10(金) 14:56:07 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
JN さん

 コメント頂き有難うございます。
 大変重要な問いかけだと思います。

 私の考えも揺れ動いているので、あくまでも「現時点で思うこと」という前提で考えてみますと、
 確かにこども達の未来を保証してあげたいのはやまやまなのですが、自分にそれほどの力はないという厳然たる事実が立ちはだかります。
 気づけば社会は、というか医療はずいぶん歪んでしまっていたのだなと、半ばあきらめにも近い感覚で私は今の世の中を眺めています。

 ①から(12)の災厄に対して、私ができることはほとんどないのですが、唯一⑦だけは、「そのあなたが難病と思っている状態には違う見方があるかもしれない」ことを伝えることくらいはできるかもしれません。それさえ微力ですし、ほとんどのこども達には伝わらないい、いや誰にも伝わらなくても不思議ではない話です。私も限りなく絶望が大きい状況だと思っています。

 あとはこの絶望的に変わらない世の中で、極論に対しては反対の意思を示しながらも、いかに自分の幸せを見出すか、荒波の中をそれでも何とか生きていく姿をこども達にできる限り見せていくということくらいでしょうか。そう言いながら、実際にはこども達との接点は少ないので、今は言葉を残し続けることくらいしか思いつきませんが。

 できる限りのことをやって、死を迎える(世界が終わりを迎える)のなら、それはやむなしと思うしかないのかもしれませんね。

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