「運動が健康に良い」熟考

2024/02/08 17:50:00 | 読者の方からの御投稿 | コメント:12件

ブログ読者のココアさんから興味深いコメントを頂きました。

昨夜テレビを見ていたら、ある医師が一日の歩数が1000歩ふえるごとに寿命がのびるとか言ってました。

じゃ私みたいにポリオで66歳のお婆さんで
一日、9000歩どころか1000歩歩くのがやっとの私は明日にでも死ぬのか?

車いすの友人は皆、短命なのか⁈とつっこみ入れてしまいました。


ポリオということはココアさんはおそらく、足が不自由で車椅子を日常的に使っておられるということだと思うのですが、

そのココアさんならではの着眼点だと思いますし、ここから色々考えることができそうです。

そもそもまず「運動は健康に良い」という言説は、医師のみならず様々な人達が推奨する健康法のド定番のようなところがあります。

激しい運動は別にしても、少なくとも適度な運動の健康に対する効果を否定する医療者はまずいないのではないかと想像します。

ではココアさんのように何らかの事情で運動量が少なくならざるを得ない人は、その時点で適度な運動をできる人よりも不健康であることを覚悟しなければならないのかと言えば、

決してそんなことはないと私ならば考えます。 とは言え、私は運動は健康に良くないと主張したいわけではありません。

運動が健康に良いことは医学論文のみならず、様々な場面で実証されていることでもあると思います。

問題は、なぜ運動がそこまで多くの人に健康をもたらすのかということです。

その理由を端的に言えば、「食べ過ぎることが当たり前の文化になっているから」だと私は考えています。

基本的に運動とは食べ過ぎによる弊害を和らげる方向に働くと思います。

糖質制限を学んでいる人であればよくわかると思いますが、運動はインスリンの力を借りることなく血糖を下げることができます。

従って、食べ過ぎて血糖値が上がり、自分のインスリンで血糖値が下げきれなかったとしても、運動を行えば筋肉運動によってさらに血糖を消費して血糖値を下げることができます。

また運動により全身の循環が良くなり、食べ過ぎることによって蓄積した過剰な物質を処理する方向にも働きかけることもできます。

だから、これだけ万人にとって「運動が健康に良い」と評されているということは、それだけ万人が食べ過ぎの状態に陥っているということの裏返しではないかと私は思います。

「いやいや、そんなに太っている人は一部の人だけで、ほとんどの人はそんなに太っていないじゃないか」と思われる人もいるかもしれませんが、

食べ過ぎることでの弊害は、必ずしも「肥満」という形では現れないと私は考えています。

むしろ太るということは、食べることの害から身を守っている側面があるとさえ思っています。

どういうことかと言いますと、わかりやすく糖質の害で考えてみるならば、

太る人は糖質を摂取した時にインスリンをたくさん出せる人です。インスリンを十分に出せれば摂取した糖質を脂肪に変換して皮下脂肪として蓄積すると同時に、血糖値の上昇を防いで、悪影響から守ることにもなります。

ただその悪影響から身を守る能力にも限界があるので、その能力の限界を超えて太り続けると、どこかの段階で血糖が処理しきれなくなるということに注意が必要です。

一方で太らない人は同じ状況で太る人に比べてインスリンが十分に出せないわけです。

そうするとどうなるかと言えば、まずは糖質が吸収された場合は、血糖値の乱高下が起こり、酸化ストレスが生み出されて動脈硬化や神経変性などいわゆる老化的な変化が促進されてしまいます。

場合によっては過剰な炎症を引き起こし、アレルギーや自己免疫疾患などの過剰適応主体の病気へとつながってしまうこともあるでしょう。

つまり太らない人は、食べ過ぎることによって太らない代わりに別の病気の発症リスクが高まっていくと言えると思うのです。

しかし太る人であろうと太らない人であろうと、運動をすれば前述の理屈で食べることによって生じる害を軽減することができます。

もっと言えば、食べ過ぎることには糖質の中毒性が関わっていたり、「食育」だとか「食べることは生きること」などの食べることを当たり前とする文化的背景が、

裏を返せば、食べないことへの怖さ、食べないことには修行やストイックのイメージがつきまとう文化がほとんどの人達にとって深いレベルで浸透しているので、

「運動は健康に良い」というのは、言ってみれば、食べ過ぎることを許されながら行うことのできる健康法だというわけです。だからこそ多くの人に受け入れられるのではないかと私は思います。

私がよく患者さんに糖質制限の話をして、1ヶ月後に再診した際に「食事療法は実践されましたか?」と聞くと、

「食事療法は難しかった」という言葉の後に続くよく聞くセリフに「やっぱり運動しないとダメですよね」というものがあります。

私はそれに対して「運動すると基本的にお腹が空きますので、食事を変えずに運動を頑張っても結局は食べ過ぎてしまうと思いますよ」と返答するのですが、

結局、糖質制限食の話はうやむやとなり、診察の度に「(体調やデータがよくならないのは)やっぱり運動ができてないからでしょうね」という嘆きを繰り返す無限ループとなってしまう状況によく遭遇します。

それくらい運動というのは誰にも受け入れられやすい(けれど継続的に実践することが難しい)健康法だということだし、

それくらい食べ過ぎるという行動はこの飽食の時代において、しかも糖質のような合法的な中毒性物質に溢れたこの世界において、

誰にとっても変え難い習慣となってしまっているということだと私は思います。


ということはここで運動とは逆ベクトルの健康法があるということに気づくと思います。

つまり「食べ過ぎる」と「運動する」がセットとなっているので、その逆は「食べないでおく」「運動しないでおく」もセットだということです。

「運動が健康に良い」が成立するのは食べ過ぎて害がある時だけだと思います。そもそも食べていないのであれば運動によるメリットは得られませんし、わざわざ運動する必要もなくなります。

「食べ過ぎる」ことが当たり前の文化の立場からみれば、「食べないでおく」つまり「断食」という行為は不健康な方向へ向かうとか、我慢するとか、修行するというニュアンスでしか捉えられないかもしれませんが、

私は「断食」は「運動」と両翼を成す健康法だと思っています。

ただ食べることが当たり前の文化へと偏り過ぎてしまったせいで、

その価値が歪められてしまった結果、我慢や修行のニュアンスが出てしまうのだとも思っています。

しかし本来は「運動」と「断食」は同じくらいの価値を持って受け止められるべきだと思います。野生動物だってそうであるはずです。

野生動物に直接聞けたわけではありませんが、私が想像するに野生動物は「運動(食べる)」と「断食(食べない)」を同じくらい大事にしているように思えます。

そういえば、運動する人やアスリートの間ではプロテインを多く摂取することは常識ですし、

バルクアップ(筋肉量増加)には糖質の摂取が重要だという話も聞いたことがあります。おそらく糖質によるインスリン分泌(栄養取り込み作用)を利用しているのでしょう。

先日たまたま観たニュース動画で、筋トレ好きなタレントさんが食べ物を減らすことに嫌悪感を表明している場面がありました。そういう意味でも「運動」と「断食」は逆のベクトルを向いていると見ることができます。


この「運動」と「断食」のバランスをとることができれば、人体の恒常性はうまく保たれやすいのではないかというのが私の考えです。

だから冒頭のココアさんのように、車椅子生活が主体で運動量が少ないのであれば、

それに見合った食事量に調整することができれば、十分に健康を保つことができるのではないかと私は思います。

決して運動できなければ健康になれないということではないと私は思います。

ただそもそも今の社会が何も考えなければ、まず間違いなく食べ過ぎるように誘導されるという構造に気づかなければ、

運動量が少なくなることで不利益を被る可能性が高いという言い方もできるかもしれません。

まずは糖質の中毒性に気づき、

自分の運動量に応じた本来の食べるべき量を体得して、

その上で「食べる(運動する)」と「食べない(運動しない)」のバランスを取れる人が増えるのが望ましいと私は考える次第です。

読者の皆様はいかがお感じになられますでしょうか。


たがしゅう
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コメント

健康の維持

2024/02/10(土) 08:46:00 | URL | ゴトウ #-
お世話になっております。
個人的には糖質制限をしていれば食べ過ぎても太ることはないと思っています。これは糖質制限を始めて10年近く経過した自身の経験に基づくものでしかないですが。
以前、アスリートの平均寿命が短いというどこかの大学の研究結果を聞いたことがあり、以来運動についてはやり過ぎない(=心拍数を上げ過ぎない)ことを心掛けています(アスリートともなると肉体的活動以外にも相当のストレスがあるでしょうから一般人よりはるかに負担が大きいだろうということは想像できます)。
これまた自身が経験的に思うことではではありますが、運動で脂肪燃焼ができるということにもかなり懐疑的です(そもそも40度未満の体温のヒトの体内で脂肪が燃焼されるというメカニズムが良くわかりません)し、運動だけで脂肪を減らすのはかなり難しいとも考えます。
基本的に健康維持のためには良質のタンパク質・脂質を十分に摂り、筋力をある程度維持すること、そしてストレスを溜めないことかなあと思います。

Re: 健康の維持

2024/02/10(土) 10:49:46 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
ゴトウ さん

 コメント頂き有難うございます。
 
 私も運動により自身の持つ潜在能力を引き出すことは大変有意義だと思いますが、
 全方向的、全世代的に健康に良いかのように語られる風潮には違和感があります。
 特に人生の終末期に向けて、人は必ず運動能力を低下させていきます。それは自然の摂理です。
 それなのに運動が全てであるかのように考え過ぎていると、年齢を重ねれば重ねるほど不健康へ向かっていくことになってしまいます。
 どちらかといえば、不健康なのは運動が全てであるかのように偏った思考の方なのではないかと私は考えています。

 特に穏やかな老衰を迎えるためには、人生の後半に向けていかに運動とは逆ベクトルの健康法(恒常性維持法)と親しんでいくかということの方が重要で、今の世の中にはそうしたことを支援する言説が圧倒的に不足しているように個人的には感じています。

 運動で脂肪が燃焼するという話も、一見当たり前のようであって、確かに疑う価値のあるところかもしれませんね。筋肉の量や質を変化させることはできても、脂肪の量の増減には直接的に寄与していない可能性は十分に考えられます。脂肪の量に直接的に関与するのは、食べた量と食べたものをどのように扱うかという代謝の方向性ではないかと私は考える次第です。
 

2024/02/10(土) 14:31:16 | URL | ココア #-
たがしゅう先生、私のコメントに答えていただきありがとうございます。

運動できないあせりみたいなものを感じていたので。

ごく最近、身近にとても健康に気をつけている方がいてその方がお二人とも急に倒れるということがありました。

お一人は散歩中に倒れ数日後にお亡くなりになりました。

もうお一人は回復はされましたがリハビリされてます。

食事、運動にあれだけ気をつけていた方が?
と驚くとともにメディアなどで推奨されている健康法なるものは本当なのか?と思っていたところです。

たまたま事例が重なっただけかもしれませんが、
健康でいるためには、運動しなければならない、
バランスの取れた食事をしなければいけない、
~しなければ健康でいられない、
そんな脅迫観念みたいなものがストレスになっていたのかな?なんて思ってしまいました。

Re: タイトルなし

2024/02/10(土) 22:48:10 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
ココア さん

 コメント頂き有難うございます。
 少しでも参考になれば幸いです。

 運動はその延長線上にきつさを伴う行為だと思います。
 健康であるために運動を行うべきであるという発想よりも、
 人生を豊かにするために運動すべきなのか、断食すべきなのか、自分の身体の声を聞きながら整えていく発想を私は好みます。

初動負荷トレーニング

2024/02/11(日) 00:34:43 | URL | ネコプヨ #miENxvkA
私は若い頃かなりの筋トレ好きでして、体を大きくしたいという願望もあったのですが、20年ほど前に小山裕史氏考案の初動負荷トレーニングに出会って考え方が変わりました。
 
野球のイチローが実践していることでそこそこ知られていますが、その他にも多くのアスリートがケガ防止や選手寿命の延長に成功しています。

理論を説明するのは結構難しいのですが、実際やってみると分かりやすいのが、一般的な筋トレでは行った直後鍛えた部位周辺の関節可動域が狭まるところ、初動負荷では逆に可動域が広がります。また左右差、歪みの矯正にも効果がらあります。

トレーニングと名は付いても鍛えるというより動かしながら整えるという発想で、過大な負荷もかけないのでやっていて息が乱れることもありません。

なのでアスリートよりもむしろある程度高齢になってきて体に不調もある一般人にこそすすめたいほどで、糖質制限や今回の話題の食べ過ぎないこととも矛盾しないのではないかと思ったので、おこがましいのですが紹介してみました。

2024/02/11(日) 08:04:25 | URL | タヌパパ #-
自分の経験ですが、食事制限なしで運動だけで痩せるためには、月間走行距離で300㎞は必要でした。普通の方が運動で痩せることは無理かと思います。現在の糖質制限下では週に30km程度でも体重が減少するので、長い距離を走った後は糖質含めてしっかり食べるようにしています。
自分にとっての運動の良さはストレス解消です。特に会社勤めのころはそうでした。
但し走りすぎて故障することも多々あったので、最近は頑張りすぎないように心がけています。

Re: 初動負荷トレーニング

2024/02/11(日) 08:06:17 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
ネコプヨ さん

 コメント及び情報を頂き有難うございます。
 存じ上げない方法だったので、とりあえず「初動負荷トレーニング」で検索して、以下の動画を観てみました。
 https://youtu.be/k3TBpDapyyI?si=Y1-kA7BY0pBC-udt

 なるほど、関節可動域が広がるということの意味がよくわかりますし、自力ではなかなかできない筋肉の使い方をマシンを活用することで実現できるという運動のようですね。
 確かに運動の概念を広げてくれる目から鱗のアプローチであるように思いました。
 運動と言えば、息が切れる、しんどい、頑張って繰り返すというイメージがつきまといがちですが、そうでない運動のあり方もあると。
 年齢を重ね、運動能力が低下したとしても、その時の筋肉なりの運動の仕方がある、その選択肢もあるんだということを教えてもらえたような気がしてありがたかったです。

Re: タイトルなし

2024/02/11(日) 08:18:16 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
タヌパパ さん

 コメント頂き有難うございます。
 私も10代の頃に肥満体をなんとかしようとジョギングを習慣づけようと試みたことがありましたが、きつくて1ヶ月でやめてしまいました。
 やめた理由はきつい割に効果が感じられないことです。しかしこのきつさがネックで、普通に常識的な価値観で生きていると、「運動でやせられないのはきつさに耐えることができない自分の弱さが原因だ」と思ってしまうということです。言い換えれば「効果がないのは運動が足りないせいだ」と。「食事療法の効果が足りないのはカロリーの減らし方が足りないせいだ」というのと同じ構造です。そんなに効果が出ないことは、根本を疑ってみるのもいいのかもしれません。

 そういえば、縁あって整形外科の病院で時々アルバイトをしているのですが、若い人でも疲労骨折で受診する人が結構います。もちろんそういう人が集まる場所だからという面はありますが、野生動物ではおそらくそんなことは頻繁には起こらないことでしょう。そう考えると、今の運動のあり方はもう少し見直されてもいいのかもしれませんが、アスリートとして誇りを持って頑張っている人達はどう思うのでしょうか。

2024/02/12(月) 12:59:38 | URL | JN #-
コメント失礼いたします。

人の一生、生老病死の中で運動に対しては、あまり注意深く考える必要は果たしてあるのだろうかと言う思いがいたします。

糖質制限を選択した私たちにはそれだけで充分に健康的な生活に寄与するだけの食生活であると考えております。

たとえ健康に寄与する運動をしたところで、与えられた寿命が 2倍にも3倍にもなるわけではありません。

もちろん家族に迷惑をかけて生きるか生きないかの違いはありますが。

たかが長生きできても100年です。

屋外で健康のためと思って、ウォーキングやランニングやサイクリングをしたところで、交通事故に遭って、半身不随になってしまうと言うことだってあります。

運命は避けようがありません。

皆さんがコメントされている内容ぶち壊すようで恐縮しますが。

私は趣味で日々サイクリングをしておりますが、健康長寿を得ようとしてしているわけでもありません。ただ好きだからです。

今年70歳になる自分としては他に趣味もありません。

Re: タイトルなし

2024/02/12(月) 16:59:09 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
JN さん

 コメント頂き有難うございます。
 私は異なる意見を置いて頂けることは有難いことだと思っております。

 ご指摘の点はごもっともと思います。
 どれだけ健康に気をつけていても、その努力が何かの機会に途切れさせてしまう理不尽はありうる世界に私たちは生きていると思います。
 だから日々を楽しく生きる、その考え方はとても共感できるものです。期限を意識したり、理不尽がありうることを踏まえるからこそ日々を大切にできるところもあると思います。
 どこに楽しみを見出すか、どこまで健康を気遣うか、どこまでの状態を受け入れるか、それぞれ個性のあって良い部分だと私は思います。

2024/02/12(月) 18:35:16 | URL | タヌパパ #-
 「もちろん家族に迷惑をかけて生きるか生きないかの違いはありますが。」

 私も、良く思う言葉です。

 今、癌と宣告されたらば、とりあえずは抗癌剤も手術も放射線も避けて、今まで通り生きて、最後はモルヒネがいいです。

Re: タイトルなし

2024/02/12(月) 19:21:24 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
タヌパパ さん

 コメント頂き有難うございます。

 私は最近、自分は自分の中で完結できる存在ではなく、家族を含めた周囲との関係の中で自在に変化する存在であると感じます。
 だから家族や近い関係にある人とはことある毎に対話していかないと、自分が分断してしまうような辛さにつながってしまうのかもしれないと思っています。「家族に迷惑をかけてしまう」と思いながら死を迎えるのはその具体例の一つなのかもしれません。

 臨死の場面においても家族と対話し続ける必要があり、その結果、他人からどう思われようとも、家族の中で納得が得られるような形で逝くことができれば、それが理想的であるように感じます。理想通りにはなかなかいかないかもしれませんが。

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