芸術と哲学で人生を守り抜く

2023/11/22 15:00:00 | 偉人に学ぶ | コメント:2件

世代ではありませんが、昔尾崎豊さんというロック歌手がいましたね。

音楽にうとい私でも知っている「卒業」という曲は、社会の抑圧や理不尽に対して抗うような歌詞が特徴的だと思っています。

それなのにコロナ禍ではロック歌手に属する人達は皆従っていたように感じられました。社会からの「公衆衛生」という名の抑圧に。

その結果なのか、最近歌手の方々が早逝されるニュースが立て続けに報道されてしまっているのは決して無関係ではないように私には感じられています。

今の時代に尾崎豊さんが生きていたら一体どんな風に声を上げていたのでしょうか。それともやはり従っていたのでしょうか。

ロック歌手だけではありません。聞くところによれば、抑圧からの解放を目指す宗教家の方もワクチン接種に唯唯諾諾と従っていたようです。

自由な選択を主張するリベラルと呼ばれる思想派の方々もそうでした。

しかも日本だけではなく、世界的にそうでした。日頃から社会の抑圧を問題視している人達のほとんどが、むしろ自分達から行動を制限する方への賛同的な意思を示し続けてしまったと、

これがここ数年、コロナ禍と呼ばれる時代で起こった紛れもない事実だと私には感じられていました。 なぜここまで国境を超えて全世界を席巻する抑圧が実現されてしまったのでしょうか。今、未だその動きは止んでいないとさえ言える状況だと思います。

端的に言えば、これは「芸術の敗北」であり、「哲学の敗北」でもあると私は思っています。

私なんかよりよほど頭の良い考える力を持つ人達が、あるいは芸術の才能を持ち遺憾無く発揮できる立場にある人達が、その優秀な頭脳を駆使しても従わざるを得なくさせたものは一体何だったのでしょうか。

私は「医療」が力を持ちすぎてしまったことに起因していると、

私がその業界にいるからというわけではありませんが、医療の暴走が今回の大事件の本丸にあると思っています。

そこに政治や経済が「科学」という強力な後ろ盾となる価値観に、

加えて「お金」という凄まじい燃料を投じられ続けながら、その暴走が許され続けてしまった結果ではないかと感じています。

「今だけ、金だけ、自分だけ」という言葉があるように、

大量の「お金」によって駆動された価値観は、弱者がどれだけ不幸になったとしてもその事実に盲目的にさせるような構造がそこにあると感じざるを得ません。

優秀な芸術家でも、聡明な哲学者でも、とても敵わないくらい巨大な抑圧源となってしまった以上、

私を含めた凡人は、もはやこの止められない大きな流れの犠牲になるより他にはないのでしょうか。


自画自賛にならないように表現したいですが、

この歪んだ状況に対する私の強みとして、まず私には医学のメインストリームを一通り経験してきた背景があります。

そして医学のメインストリームには糖質制限食や湿潤療法をはじめとした根本的な勘違いが結構あることも幸運なことに身をもって体験することができた経緯もあります。

多くの人達は医者や医学が動かし難い立派な存在だと信じ込んでいますので、他分野の人達はここに根本的な誤解があるという視点を持つことが困難なのだと想像します。

とは言え医療業界にいれば疑いやすいわけでもなく、むしろ自分達の存在を否定するような行為なのでより疑いにくいとさえ言えるかもしれませんが、そこは私が本当に幸運だったところだと思っています。

その上で哲学にも興味を持ち続けて、いろいろなことを継続的に考える機会にも恵まれました。

さらに芸術の持つ可能性にも着目して、折に触れ芸術とは一体何なのかを考え続けてきました。

特に横山大観という一人の画家の生き方にはかなり惹かれるものがありました。彼は愛煙家でしたし、戦争も経験し、行ってみれば極めてストレスの多い人生を生きてきたわけですが、

晩年まで見事な作品を生み出し続け、89歳でその生涯を閉じました。平均寿命が40歳代であった当時の健康状況を踏まえれば驚異的な健康長寿であるように思えます。

その健康長寿に彼の芸術への向き合い方が肯定的な影響をもたらした可能性を考えずにはいられません。


こうした流れを踏まえて、私が今の医学に対して思うのは、

今の医療は主体性を抑圧する方へ仕向けるように著しい発展を遂げてしまったということです。

言い方を変えれば、芸術や哲学を骨抜きにしてしまう方向へと強力に進化してしまったということです。

横山大観という人はきっと、あくまでも私の想像ではありますが、きっと自分の中にあるモヤモヤを芸術作品にぶつけていたんだと思うんです。そのことが彼が生き続ける上での大きな支えになっていたのではないかと。

つまり芸術が自分の主体性を守る一つの大きな手段になっていたということです。

一方の哲学にも自分の主体性を守る役割があるのではないかと思います。

健康とは何か、病気とは何か、自由とは何か、生きるとは何か、その答えはきっと千差万別ですが、考え続けることで自分の生きたい方向が見えてくるという実感を私は持っています。

そんな主体性を守る芸術や哲学が、コロナ禍における医療の暴走で国境や民族文化を超えて一斉に抑圧するという大事件が起こってしまったわけです。

優秀な芸術家も聡明な哲学者でも抗うことのできなかった大きな抑圧力です。

となれば、きつい状況であることには違いないですが、私たちの目指すべき方向は「芸術と哲学の復興活動」ではないかという方向性が見えてきます。

こういうと凡人には到底できない難しいことだと思われてしまうかもしれません。

でも「哲学カフェ」という場によって、実は哲学は頭の良い人しかできない難しい知的活動ではなく、むしろ誰にでも開かれた日常的な活動であるという実感を持つことができました。

芸術も同じような身近さがあると言うことはできないでしょうか。そもそも芸術とは何でしょうか。

私の友人にずっと肺がんを抱えていたけれど、厳格な糖質制限食を自分の考えで実践し続けて、自分の考えを文筆という形で残し続けるという生き方をされている方がいました。

彼は医療との関わりを最小にし、医療者が見ると驚くほど元気な状態で最期の最期まで過ごし、最終的に立派な旅立ちを見せたという人でした。私には彼の生き様は見事で、芸術的であったように感じられました。

横山大観の生き方とリンクするようにも思えました。そして芸術的であると同時に主体的な生き方だったのかもしれません。

そう考えると、誰もが自分の人生における芸術家と言えるような存在なのかもしれません。

芸術というのは基本的に自分の中からしか生み出すことができないものですよね。

自分の作品を誰かに頼んで作ってもらったら、それは自分の芸術ではなく誰かの芸術だと思います。もちろん、共同制作ということはあり得ますが、その場合も自分の中から何かを生み出す作業は必要不可欠であるはずです。

だから自分はどうしたいのかを考え、自分らしく生きること、

いろいろな考えがあることを知りながらも、その中で自分はどう生きるかを選び、時には迷い、道を変えたり、逆戻りしたりしながら前に進んでいくような自分ならではの生き方が、

芸術的であり、主体的な生き方だと言えるのではないでしょうか。

そのような芸術活動を復興させるためには、哲学の力が欠かせません。哲学を使って医療の何が芸術を邪魔しているのかを考えてみることです。

私がまず思うのは「命絶対主義」「健康第一主義」と言えるような状況、

言い換えれば、まるで「健康」を人質に取られているかのような固定観念が、私たちの芸術を抑圧させてしまっているのではないでしょうか。

そしてその固定観念を信じて疑わない状況に持っていく医療側からの一方的な言説、

しかもこれらの言説は「お金」の力で歪んだ政治・経済と一体化して強力な権力を持って立ちはだかります。

まずはこうした一方的な言説に立ち向かう必要があるでしょう。

そして健康を自分の手に取り戻すことです。健康が人質に取られてしまえば言いたいことも言えるはずもありません。

死というものが日常から切り離されてしまったことも極めて大きな変化だったと思います。

それゆえ死という不可解なものを私たちは怖がることしかできなくなったと。


もうこれ以上、医療の好きにさせてはいけないと私は思います。

医療がなんと言おうと、私は私の人生を生きるのです。

そうやって人生を生き切る人が増える世界を私は目指していきます。


たがしゅう
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コメント

2023/11/24(金) 08:38:55 | URL | タヌパパ #-
 久しぶりにコメントさせていただきます。
 「医療」が力を持ちすぎてしまった」という点には強く同感いたします。またその原因として、今の日本は、太平洋戦争の反省が過剰になってか、命を大切にしすぎているのではないかと、また命を救う行為が絶対善とされて、誰も反論でない風潮がはこびっているように思います。
塩野七生さんの「ローマ人の物語」文庫版22巻に、「社会的にも知的にも高いローマ人になればなるほど、頭脳的にも精神的にも肉体的にも、消耗しつくした後でもなお生き延びるのを嫌ったのである。」とありました。極めて健全な心持ちだと思います。

Re: タイトルなし

2023/11/24(金) 08:54:35 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
タヌパパ さん

 コメント頂き有難うございます。

> 頭脳的にも精神的にも肉体的にも、消耗しつくした後でもなお生き延びるのを嫌った

 いいですね。ハッとさせられます。

 頭脳的にも精神的にも肉体的にもまだこれからという段階においては生きたいと望んでしかるべきだと思いますが、
 その逆の準備をしていく準備、心構え、価値観が社会にはあまりにも足りていないように感じられます。

 現状、そのような生きのびないことを望むことを支援する言説がない中では、自らが主体的に決断して生きていかない限り、命絶対主義の犠牲になってしまうのは必至の文化となってしまっているように思います。その具体的な表現型として象徴的なのが望まぬ延命治療の横行だと考えています。なぜ望まぬ延命治療が行われてしまうのか、望みを考えずに任せ続けてきたからではないかと思うのです。

 世の中に少しずつでも主体的医療の考えが広まり、それを支援する文化や言説も育っていけば、主体的に生き抜くことにこんなにも苦労を必要とすることのない時代がくるはずです。そう信じて主体的医療の言説を振りまいていきたいです。

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