診断基準とは作成者の意図を反映するクリアカットな境界線

2023/09/17 18:00:00 | 薬害について | コメント:0件

2023年9月7日に一般社団法人ワクチン問題研究会という会の設立記者会見が開かれました。

テレビやYouTubeなど、ワクチンについての言論封殺があからさまに行われている中で、一つの団体を作り上げ明確にワクチンを問題視する声を上げていく活動自体には心から敬意を評します。

ただその活動内容については正直言って私は賛同しかねるところがあります。

というのも会の活動方針について動画やホームページではこう述べられています。

当研究会は、ワクチン接種後症候群の診断基準の作成、鑑別診断法・検査法の開発、診療ガイドラインの作成、有効な治療法の開発を目指しています。


私はこの研究会の目的についてはあまり賛同していません。

というのも診断基準を作るということは、突き詰めれば被害者全体を救うことができないと私は考えるからです。

診断基準を作ったり、確立した検査方法を開発したりすると言えば、非常にもっともらしく聞こえるかもしれません。

例えば嘘をついて本当は体調不良など感じていないのに「私はワクチン接種後の被害者だ」と言い張る人に対して、診断基準や検査方法があればそうした悪質な人間を排除し、薬害の真の被害者だけを正当に判断することができると思うかもしれません。

ところが、ことはそう単純ではありません。先日ブログ記事で取り上げたカネミ油症の件を思い起こしてみてもらいたいと思います。

カネミ油症には調査班が組織され、診断基準が制定され、検査方法が確立しています。その診断基準にも紆余曲折さまざまな変更がありましたが、2004年以降はその診断基準が固定的に用いられています

ちなみにどんな診断基準になっているのかと言いますと、以下の通りです。

(以下、「油症の検診と治療の手引き:2023年4月1日改訂版」より引用)

【油症診断基準】

発病条件
PCBの混入したカネミ米ぬか油を摂取していること。
(ただし、油症母親を介して児にPCBが移行する場合があり、多くの場合で家族発生がみられる。)

重要な所見
①ざ瘡様皮疹
顔面、臀部、そのほか間擦部などにみられる黒色面皰(めんぽう)、面皰に炎症所見の加わったもの、
および粥状内容物をもつ皮下嚢胞とそれらの化膿傾向。

②色素沈着
顔面、眼瞼結膜、歯肉、指趾爪などの色素沈着
(いわゆるブラックベイビーを含む)

③マイボーム腺分泌過多

④血液PCBの性状および濃度の異常

⑤血液PCQの性状および濃度の異常
参考となる血中PCQ値
1) 0.1 ppb以上 :異常に高い濃度
2) 0.03~0.09 ppb :1)と3)の境界領域濃度
3) 0.02 ppb(検出限界)以下 :通常みられる濃度

⑥血液2,3,4,7,8-pentachlorodibenzofuran
(Pe CDF)の濃度の異常
1) 50 pg/g lipids以上 :高い濃度
2) 30 pg/g lipids以上、50pg/g lipids未満:やや高い濃度
3) 30pg/g lipids未満 :通常みられる濃度

参考となる症状と所見
1.自覚症状
1)全身倦怠感
2)頭重ないし頭痛
3)四肢のパレステジア
 (異常感覚)
4)眼脂過多
5)せき、たん
6)不定の腹痛
7)月経の変化
2.他覚的所見
1)気管支炎所見
2)爪の変形
3)粘液嚢炎
4)血清中性脂肪の増加
5)血清γ-GTPの増加
6)血清ビリルビンの減少
7)新生児のSFD
 (過小体重児)
 (Small-For-Dates Baby)
8)小児では、
 成長抑制および歯牙異常
 (永久歯の萌出遅延)

※診断基準は油症か否かについての判断の基準を示したもので、必ずしも油症の重症度とは関係ありません。
※血液PCBの性状と濃度の異常および血液2,3,4,7,8-pentachlorodibenzofuran(Pe CDF)の濃度
の異常については、地域差・職業などを考慮する必要があります。
※油症の診断は発病条件と症状、所見を参考に受診者の年齢および時間的経過を考慮のうえ、総合的に判断されます。

(引用、ここまで)



どうでしょうか。きっちりとした診断基準ができていると言えますでしょうか。具体的な検査技術も確立したと言えますでしょうか。

ある種、一般社団法人ワクチン問題研究会の目指している未来がそこにあると言ってもいいでしょうか。このように診断基準や検査技術が確立されたことでカネミ油症の患者さん達は救われることができたでしょうか。

勿論、一部の患者さんを薬害被害者として認定したという功績はあると思います。しかし少なくとも14,000人以上が申請の声を上げたのに対して、認定されたのはわずか2370人、全体の約17%に過ぎません。発覚から55年も経過しているのにもかかわらず、です。

また55年目にしてようやく次世代への影響の有無についての調査も開始されましたが、ここでも診断基準の壁が立ちはだかり、1200人ほどのカネミ油症患者の次世代に当たる方々に対して認定されたのはわずか50名(約4%)です。

それでは認定されなかった83%のカネミ油症被害を訴えた方々、あるいは96%の次世代の方々は診断基準によって正当に判断されたと言えるのでしょうか。場合によっては何らかの嘘を診断基準によって見抜くことに成功したのでしょうか。私は決してそうとは思いません。

単純に多くの被害を受けた方々が条件を満たさない診断基準が作成されただけ、だと思います。

カネミ油症の場合は、PCBおよびその類似構造物の血中濃度が鍵となっています。研究班によれば、これらの物質は一度体内に取り込まれるとなかなか分解することができず、半減期はヒトで7.5年とする見解や、ヒトの寿命を超えているという医師の意見まであります。

それであればいくら時間が経過した患者さんであっても、PCBおよび類似物質の血中濃度は高くなりそうなものですが、結果としては17%未満の患者しか認定できていない診断基準になっているということです。私には83%以上の被害者の方が全員嘘をついているとは到底思えません。

異物に対する除去反応の程度には個人差があります。PCBおよび類似物質がごく少量入っただけでも苛烈な症状を呈した人はいくらでもいるであろうと思います。そうした人は診断基準のせいで薬害がより認められない世界線の中で生きなければならないことになってしまいます。

一方でそれでも分解は確実にされていくものであるならば、摂取当初が最大の影響力をもたらし、その後は時間経過とともに少なくとも理論上は影響力が小さくなっていくはずですが、

たとえば、「カネミ油症を国がずっと認めてくれない」という負の感情は、きっかけはごく少量のPCBおよび類似物質の摂取によって引き起こされたかもしれない種々の身体症状を、自律神経の過剰刺激状態を通じて何倍にも増幅されて苦しみ続けてしまうことにも寄与しているようにも思えます。

また他方で、多くの人を認定できるように診断基準を緩めればそれで済むという問題でも当然ありません。診断基準を緩めれば緩めるほど、PCBおよび類似物質の関与がすでになくなっているような慢性的な体調不良者までも薬害被害者として認定しなければならなくなってしまいます。

つまりどんな診断基準を作成しても、救う人と救われない人を分断させたり、救うべきでない人を救ってしまったりのジレンマを生じてしまうということなのです。


少し話は逸れますが、診断基準は医学界のさまざまなところにはびこっています。たとえば高血圧の治療ガイドラインがあります。

最新のものは2019年度版のようですが、そこでは高血圧の基準は診察室での血圧としては140/90mmHg以上が、診察室外(家庭内)での血圧では135/85mmHg以上ということになっています。

ですがご存じの方もおられると思いますが、高血圧の診断基準にもまた変遷がありました。実は1987年の旧厚労省では180/100mmHg以上を高血圧の診断基準としていました。

ところで、高血圧であるかどうかの診断基準はどのように策定されるのでしょうか。

建前は疫学研究などによって、どの程度の血圧の人に病気が多く発症し、それをどの程度まで下げれば病気の予防につながるのかというデータが蓄積されて決まるということになると思いますが、

この診断基準もどこに設定するかによって、先ほどと同様の問題を生じます。診断基準が高めに設定され過ぎても血圧が高すぎる人へ適切なタイミングで治療介入することが困難になりますし、

逆に診断基準が低め、すなわち少しでも血圧が高ければ高血圧だと診断されてしまうような状況になると、本来必要のない人に治療介入を行うことになり、たとえば降圧剤の副作用などの悪影響が多くの人にもたらされてしまう可能性が出てきます。

そういう意味では診断基準の策定に薬害の認定と同じジレンマが生まれてしまうわけですが、

薬害認定目的の診断基準が厳し目に設定されて、多くの被害者の人達が認定されずにいるにの対して、高血圧の診断基準の場合はかなり多くの人が認定されてしまうくらいの緩さになっているという構造の差を感じることができます。

事実日本全国で高血圧と診断されているのは、約4,300万人いると言われています。ものすごい数の人がある意味で認定されているわけです。

薬害と疾患の診断基準は目的が違うと思われるかもしれません。それはその通りですが、私がここで言いたいのはそういうことではありません。

診断基準というのは作成者の意図を反映させることができるツールだということです。言い換えれば、ある集団を作成者が引いた境界線でくっきりと分断する作業だということです。

クリアカットに区切れば、必ずその区切ったことによって弊害を受ける人が生み出されてしまいます。

クリアカットに分けることには勿論わかりやすさや便利さがあるわけですが、それは誰にとってのわかりやすさや便利さであるかを考えた場合、一番その恩恵を受けるのは作成者だと思うのです。

言い換えれば、診断基準を作成することは、そこまで突き詰めても診断を受ける側を救い切ることにはつながらないということです。


もっと言えば、ワクチン問題研究会は、「ワクチン接種後症候群(PVS: Post Vaccine Syndrome)」という疾患概念の普及を目指しているようですが、

私はそのようにどこからどこまでが「PVS」であるという境界を作ること自体が同じ土俵の上で戦い続ける行為のように思えてしまいます。

同じ土俵の上で議論し合うこと自体が悪いわけでは当然ありません。しかし今の医学はその土俵自体が歪みに歪んでしまっているように私には思えるのです。

これだけ明らかに有害なワクチンが、あれだけ非常に有効であるかのように喧伝されてしまう土俵に、今の医学はなってしまっているのです。

そしてもうコロナワクチンに関して言えば、その症状の多彩さは一つの症候群として理解する範疇を超えています。内科は勿論、循環器内科、呼吸器内科、消化器内科、神経内科、腎臓内科、膠原病内科、血液内科、外科、脳神経外科、産婦人科、小児科、精神科、心療内科、救急診療科、眼科、耳鼻咽喉科、皮膚科、形成外科などあらゆる臨床診療科にコロナの症状やコロナワクチン接種後の症状はまたがっています。

たとえば水痘・帯状疱疹ウイルスが皮膚科を中心に耳鼻科、脳神経内科などの特定の診療科が対応する範疇に留まったり、B型肝炎ウイルスであれば眼科や腎臓内科などで取り扱われたりするようなことはまずない、にも関わらず、です。

それは、コロナウイルスが人類で初めて全臨床診療領域に害をもたらすようなウイルスへと変異したと考えるよりも、PCR検査というツールを通じて、これまででは考えられないほど世界中の人達をコロナとしてみなして対応したことを反映していると考える方が妥当だと私は思っています。

世界中の人を調べれば、同じコロナPCR検査陽性者を診ていても、目を中心に炎症を起こす人もいれば、重症化してしまう人もいるでしょう。母集団が巨大すぎるのであれば、その中で様々なバリエーションが観察されると思います。

コロナは全身に影響を及ぼす特殊なウイルスではなく、私たちがコロナを見る目が特別だったということだと思うのです。

そしてワクチン接種後症候群の診断基準を確立するという行為の延長線上には、これからもワクチン接種を認めていくという医療観を採用し続けることもあるように思っています。それこそが「同じ土俵で戦う」の意味するところです。

私はここまで医学が歪んでしまった以上は、一旦その土俵から離れることも大いに検討すべきだと思っています。

具体的にはまずはワクチンをもう二度と打たないこと、その上でワクチン被害であるかどうかを認定する診断基準を求めないこと、

できればワクチンのことを意識しないで済む世界線で生きていくこと、自分の今の状態がどんな状態であるかに関わらず、今の本来的ではない状態から身体を整えて幸せに生きていくためにはどう考えて、どう行動していくかを具体的に実践していくこと、です。

この方針であれば誰一人薬害の被害者としては認められないかもしれないけれど、望む人全員へより望ましい状態をもたらす可能性を提供することができるのではないかと私は思うのです。

その活動は、おそらく一人だけでは難しく、同じ意志を持つ仲間と一緒に行っていく必要があると思っています。

ただ残念ながら医療に頼る、良い医者を探すという発想のままでは、なかなか同じ土俵の価値観からは抜け出せないだろうと思います。

勿論、全く頼らないというわけではなく、最悪緊急の場合には頼ってもよいという部分は頭の隅に残しながらも、基本的には現代医療から離れる努力を心がけていくのが良いと私は思います。それが唯一被害者全救済をもたらしうる道だと私は思っています。

医療は「ワクチンは絶対だ」という価値観が強固に固定し続けているので、現代医療およびその価値観に基づく業界からはなるべく距離をとるということも大事になってくるでしょう。

考えれば考えるほど途方もない作業だし、そんな世捨て人のような生き方をするくらいなら、多少の不満があっても今の医療に改善を求める方がいいと思われるかもしれません。

それはそれで尊重されるべき決断です。しかし私にはどうしてもその先の世界では薬害の価値観からは逃れられないのではないかと思えてしまいます。

だから私は別の土俵に乗って生きるという選択肢を作りたいと心から思っています。

最近は結論がいつも同じになってしまうようで恐縮ですが、

私は既存の医療から離れても健康で幸せに生きていくことを支える、境界がゆるやかな団体を作りたいです。


たがしゅう
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