がんを「災害」とみなすか、「自分自身」とみなすか

2023/08/24 13:00:00 | がんに関すること | コメント:0件



上図は有名な「ルピンの壺」と呼ばれる多義図形です。

1915年にデンマークの心理学者、エドガー・ルピンによって考案されたそうです。

この図形は黒い部分に注目すれば壺に見えるし、白い部分に注目すれば向かい合う2人の横顔に見えると思います。

この2つの視点、仮に「どちらが真実か」と問われれば、どちらも真実だということを理解するのは容易だと思います。

ですがそれはあくまでも2つの視点があることをフラットに見られる立場にある時の場合です。

「真実は常にひとつ」という有名漫画のセリフも、真実についての考えを迷わせてしまいますが、

私は常にひとつなのは、真実ではなく「事実」だと思っています。上図で言えば「そのような形の図がある」ということ、初期設定や初期条件のようなものが事実です。

これをどのような視点でどう解釈するかによって作られるものが、その人の中での「真実」であり、これは人の味方や立場によっていくらでもあり得ると思います。

黒い部分に注目したって、壺ではなく、トロフィーだと見る人だっていても不思議ではないわけですから。

今回のブログ記事でお伝えしたいのは、「がん」というものに対して、現代医療が導く真実と、私の主体的医療からの視点で見た真実の違いについてです。 決して「現代医療は真実ではない」と言うつもりはありませんし、「私の真実の方が正しい」と主張するつもりもありません。

あくまでもがんに対する私の考え方、1つの選択肢を提示するつもりで書きますので、どうか誤解のなきようにお願いいたします。


がんに関しては、先ほどのルピンの壺のたとえで言えば、

医療が主導してこの図が黒い壺にしか見えなくなるような言説ばかりを普及することで、

それがひとつの大きな文化として定着してしまったことで、誰もが「がん」についての真実は1つであるとしか思えない状況になってしまっているように思います。

どのような真実かと言えば、「がんというのは災害である」という視点です。

「災害」という言葉には、誰にでも起こりうるというニュアンスもありますし、

一度発生すると非日常的かつ危機的な状況がもたらされることがありうるというニュアンスもありますし、

もうひとつ、「自分の身に降りかかる不幸」のようなニュアンスもあるのではないかと思います。

そしてがんを「災害」とみなすからこそ、それを未然に防げるというのであれば「防災」を心がけようという発想になりますし、

その発想に基づいて医学はがんに対して、物理的に消滅させることができる手段として手術、抗がん剤、放射線を活用し、発展させてきました。

これらの治療アプローチで不幸にも自分の身にふりかかってきた「災害」たるがんを物理的に消滅させることが可能となります。

台風や地震などの災害よりもより確実に災害の息の根を止めることができることを医学の進歩として受け止めることもできるでしょう。

一方でがんだけを特異的に潰すほどには医学は発展できておらず、がんを潰すことは同時に自分の身体の一部を傷つけることにもつながります。

でもがんは災害ですし、治療手段は防災なので、こうした自分の身体が傷つく現象は防災活動に伴って起こる不可避的な現象として解釈され、医療はこの付随的な現象を少なくするためにさらに様々な努力を行うことになります。

その結果、拡大手術よりも縮小手術、細胞毒から分子標的治療薬、一括照射よりも分割照射などのように、医療は治療手段を改良していきました。それにより確かに治療に伴う有害事象は少なくなってきたかもしれません。

しかしこうした努力を続けてもなお、がんの患者数は増えていく一方で、さらに防災の範囲を広げ、防災に付随する有害現象の最小化の努力を続けていくという視点、

これががんにおける黒い壺の視点です。



一方、私は同じ「がん」という対象(事実)を白い向かい合う2人の横顔のような視点で見ています。

がんは「災害」ではなく、「自分自身の表現型のひとつ」、「自分自身を構成する細胞が環境に合わせて変化した形」という考えです。

多くの意味が削ぎ落とされる可能性を覚悟で、「災害」のようにシンプルな言葉で表すならば、「がんは自分自身である」であるという言葉でも表現することもできるかもしれません。

「自分自身」という言葉を使うことで、「誰にでも起こりうるもの」というニュアンスは共通しますが、

「自分に降りかかる不幸」のニュアンスではなく、「自分の行いや考えが反映されている必然的なもの」というニュアンスが出てきます。

あるいは「自分とがん細胞がつながっている」というニュアンスも出てきます。

「非日常的かつ危機的」なニュアンスではなく、「日常的かつ平時的」なニュアンスの方も出てきます。

「自分自身」と捉えるからこそ、治療アプローチは「自分自身の状態を整えること」という発想へとつながります。

それで、がん細胞は「糖代謝が通常の細胞に比べて過剰に駆動された状態」という事実がありますので、

がんがあるということは、自分自身が糖代謝が過剰に駆動されるような環境にあるということを意味することになります。

ひとつは当然糖質の過剰摂取が要因として考えられるでしょうし、もうひとつはストレスの存在が考えられます。

ストレスと一口で言えば幅広いですし、理論上は物理的ストレスとか化学的ストレスなど様々な領域の刺激がストレスになりえますが、

これだけがん患者が増え続けている状況を考えますと、そのストレスはわかりにくくて長続きするものである可能性が高くなってきます。

そうすると一番候補として考えやすいストレスは、精神的ストレス、特に不安や恐怖といった感情ではないかと私は思います。

従って、がんという「自分自身」に対して行う治療行動は、糖質の摂取量や頻度を見直したり、不安や恐怖を中心に自分の心の在り方を見直す作業になっていくと思います。

それでも生きていれば何かしらストレスは必ずあり続けますし、精神的ストレスのみならず、たとえば添加物だとか自分の意識しないところでストレスがかかり続けてしまうこともある訳なので、

自分自身を整えるという治療行動によって、必ずしも整えられるとは限らない可能性も考えておく必要があると思います。

これががんにおける白い向かい合う2人の横顔の視点です。



考えてみれば「災害」そのものが、「不安・恐怖」のストレスを引き起こすものだと思います。普段私たちはあまり「災害」のことを意識しないことによって災害のストレスから身を守っているようなところがあります。

いや身を守ると考える自体で意識していることになりますので、普段はそもそも「災害」は意識の上にのぼらないと言った方が適切かもしれません。

ですが一度「災害」が目の前に起こっていると認識すれば、これから先自分は生きられるのかとか、ここから先安全に生きていくことは可能なのか、などといった危機的な意識に考えが支配されていくかもしれません。

がん医療にまつわっては、そうした考えを支持する見解に非常に多く満たされていますので、そう思うのは無理もない状況だと思います。

そしてそうした言説が広まっていることによって、がんというものが非常に特別な病気であるという扱いを受けているように感じられることがあります。

ひとつ私が思うのは、がんは本当に「災害」なのだろうか、ということです。

もちろん世の中は「災害」だと捉える言説に多く満たされていますし、「災害」と捉えること自体は可能です。

ただもはや国民の2人に1人の割合でがんになると言われている時代で、「災害」と呼ぶには頻度が多すぎるような気がします。

それに「災害」とみなすこと自体の不安・恐怖で、がんが育ちうる構造も別視点に立つからこそ見えてきます。

「災害」とみなすことだけが全てではないということ、

「災害」とみなすことによって見えなくなる側面や被りうる不利益も確かにあるのだということ、

「自分自身」だとみなす別の選択肢もあるのだということを、

フラットに受け止めてもらった上で、がんをどのようにみなしてどのように対処していくかという問題を主体的に考えてもらえればと思います。


がんを「自分自身」と捉える私の立場からすれば、がんは特別な現象では決してありません。

誤解を恐れずに言うならば、風邪の延長線上にあると言っても過言ではない状態です。

私が提唱する「過剰適応」と「消耗疲弊」の概念で言えば、風邪は「軽い可逆的過剰適応」で、がんは「中等度の可逆的過剰適応」となるからです。

相手が風邪と認識される状態であろうと、がんと認識される状態であろうと、

平時の状態から無理しすぎている状態にあるという意味では共通しているわけですし、

やるべきことはなぜ無理をしているのかを主体的に考えて、適切に休むという行動を取ることなのです。

少なくともそういう考え方やそれに伴う対処の仕方もあるのだということが、

一人でも多くの人に伝わることを願うばかりです。

選択肢がある上でやはり「災害」とみなすのであれば、その選択は尊重されてしかるべきだと思います。

ただ選択肢が与えられることなく、まるで真実がひとつしかないかのように伝えられている状況は、

少なくともそのバランスを是正すべきだと私は考える次第です。


たがしゅう
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