手軽な快楽は自制を失わせる

2023/06/01 12:00:00 | 主体的医療 | コメント:2件

まだまだ悪性リンパ腫に対して総見直しすべきことは多いのですが、

誰も考えてこなかった視点からの考察をなるべく説得力を持たせながら説明する作業は、正直言ってかなり体力を使います。なのでなかなか更新ができずにおります。

そこで今回は少し箸休め的に最近私が思っていることを書いてみようと思います。

私は生きることの先に死がある限り、いわゆる「病気」と呼ばれる状態になるのは必然だと思っています。

ただその病気のなり方には個人差がありますよね。さっきまで元気だった人が急に体調を崩したり、あるいはゆっくりゆっくりと時間をかけて体調が悪くなっていったり、

はたまた良くなったり、悪くなったりを繰り返しながら、だんだん悪くなっていったり、という具合で様々なパターンがあります。

この誰にも避けられない大きな流れがあるということをまず皆が認識しておいた方がいいと思う一方で、

体調が悪くなるという現象を基本的に運悪く自分に降りかかってきた「災難」だと捉えてしまうと、この必然的な現象に対して不満を感じたり、援助を求めたりしてしまう構造があります。 本当に自分には一切の責任のない「災難」だというのであれば、そう思っても無理もない話ではあります。ですが、私はあらゆる体調不良は外部・内部の環境変化に対する環境適応の現れだと捉えています。

そう考えれば、体調不良は環境に適応しようとした結果の現れであり、環境の適応の仕方を間違っていたのかもしれないし、環境に対して過剰に適応行動を取り過ぎていたのかもしれないという観点で、自分におおいに関係しているという可能性が見えてきます。

そのように体調というものが常に自分がどうすべきかを教えてくれている存在であるということが理解できれば、自分がどのように身体を使っていくかが見えてくるわけですから、

体調が悪くなれば一旦休ませてみたり、休み過ぎてだるくなってきたら身体を動かしてみたり、などとちょうど良い状態を探し続けていくことで、極端に身体に負荷をかけるということはなくなるはずです。

しかしそれでも、一定の確率で急病というものが発生しています。心筋梗塞とか脳梗塞などの突然発症する病気のことです。

急に病気になるような出来事は「それは身体の環境適応だから」と納得できるような事象では決してないでしょう。

そんな急病ともなれば、それは単なる「災難」以外の何者でもないと思えて然るべきでしょう。

もっと言えば、誰もが言われなくてもが生きているはずです。もちろんお金や人間関係、文化などの制約はあるかもしれないけれど、

程度の差こそあれ皆が、食べたいものを食べ、行きたいところへ行き、やりたいことをやっているように思います。人間の欲望は抑えることができないとも聞きます。

それは身体が環境に適応していることではないのでしょうか。その結果、急病に襲われるとあってはやりきれません。「災難」だと捉えて、自分には責任のない不幸だと、自分は誰かに助けてもらう必要のある被害者だと思っても無理もありません。

生きたいように生きているのに、ある時急に急病に襲われる、なんでそんな理不尽なことが起こるのでしょうか。

私は辛い状況に遭遇した際に、それがなぜ起こったのかわからずにいることはとても不幸なことだと思います。

逆に言えば、辛い状況に遭遇したとしても、なぜそういう事態となったのかがわかれば、納得もできるし、対策も考えられます。

私は生きたいように生きている人をある時急に急病に落とし込むように仕向ける自然界の最大の構造は、「中毒」だと思います。

もっと本質的に言えば、「手軽な快楽が自制を失わせる」ということです。


私は糖質制限の話を人に伝える時に、ポイントとしてよく強調するのは「糖質の中毒性」です。

中毒とは要するに「わかっちゃいるけどやめられない」というやつで、たとえ有害性が指摘されているものであっても、あるいはその有害性を認識していたとしても、快楽のためにその中毒性物質・中毒性行動を止めることができない状態です。

タバコとかアルコール、あるいは麻薬の類など、法律で規制を受けているものはその有害性がまだ理解されやすいわけですが、それでも止めるのは困難です。

漫画ONE PIECEに出てくる白ひげという海賊の船長がお酒をガブガブ飲んでいて船員に身体を気遣われた際に放った台詞で「バカやろう飲みてぇもの飲んで体に悪いワケあるか」というものがありますが、

普通はそう考えるのが自然だと私は思います。酒が毒ならばなぜ最初から毒のように不味くないのかと考えることができるからです。

ましてや合法的なのに中毒性があるものについてはますます止めるのが困難です。なぜならば手軽に快楽を得ることができるからです。コーヒー(カフェイン)などがその代表だと思います。

そして糖質も合法的な中毒性物質の代表格です。「糖質の摂り過ぎは万病に通じるんですよ」と私が経験や実績をもとに熱弁しようとも、

その熱は糖質の中毒性を自覚できない人には決して伝わることはありません。だって糖質はおいしいですし、安くて日々の食卓を支えますし、日本の文化で大事にされてきたものでもあるからです。

だからこそ「食べ過ぎは良くないということはわかるけれど、食べないというわけにはいかない」という理解にとどまってしまうのです。

白ひげの言葉を借りれば、「バカやろう食べてぇもの食べて体に悪いワケあるか」という理解に落ち着くわけです。

でも「中毒」の怖いのは、手っ取り早く快楽が得られてしまうこと、それが故に長々と習慣が続いているうちに自分でコントロールする力が失われてしまうこと、

そして最大の問題は、中毒によって得られた快感は中毒性物質によって作られた感覚であり、中毒性物質を一旦やめない限りは自分が中毒であることに気づけないということです。

私は糖質制限をやってみて驚いたことは数ありますが、一番驚いたことの一つが、

それまで高額な炊飯器を購入するほど「三度の飯よりごはんが好き」だったと信じて疑わなかったのが、糖質を制限する生活を続けていくにつれて、ご飯への執着が驚くほど少なくなり消えていったということでした。

なんだったら「ご飯が好き」だというのは、生まれ持っての自分のアイデンティティくらいに思っていたのが、なんとご飯を常食する習慣によって作られていた感覚だったと知ったのは驚きでした。

要は糖質の頻回過剰摂取習慣が、糖質摂取によって体調を崩すという環境適応を受けて、次の糖質摂取を減らすという適応行動をもたらす自制力を鈍らせる構造となっているということです。

この中毒によってもたらされる行動・習慣が長い時間をかけて自制する力を失わせていき、ある時急病を発症させる理由になっているという仮説を私は持っています。

アルコール中毒の人がはたから見てボロボロの状態になっていても飲酒をやめないのも、

万引きを繰り返す人が捕まるリスクがあっても犯行を繰り返すことで最終的に投獄されてしまうのも、

糖質中毒の人がまさか自分が糖質中毒とは知らずに糖質頻回過剰摂取習慣を繰り返し、ある時急病に見舞われてしまうのも、

全て「手軽な快楽で自制が失われた」ためだと私は考えます。


ただその構造がわかった上で、それでも手軽な快楽を使うというのであればそれはその人の自由ですよね。

手軽な快楽と言えばネガティブに伝わるかもしれませんが、決して絶対悪ではありません。むしろ辛い時期にある人にとって支えになることだってあるでしょう。

でもその構造を知らないで、なんで自分だけがこんな「災難」に見舞われたんだと考えている人がいるのだとすれば、それはとても不幸なことだと思いますし、

正直言って、世の中はそんな人だらけだと私には見えています。

だから私は糖質制限をきちんと知ってもらい、その上で結果的に糖質制限を実践するかどうかは自分で自由に選んでもらえればいいと思うのですが、

少なくとも「糖質の中毒性」については知識を持って、またできれば知識だけではなく一旦糖質制限をある程度の長期間やってみて、

「糖質を食べたいという気持ちは糖質によって作られていた」という構造を一度は実感してもらえれば
と願っています。

そうでないと、これからも急病患者は産まれ続けてしまうと思いますし、

何よりその人はこれからも現代医療に頼り続けるという以外の選択肢が考えられなくなってしまいます。

そしてまたその現代医療に頼り続けるという選択肢もまた「手軽な快楽」であり、「自制を失わせる」という皮肉な構造があるのです。


最後にもう一つだけ、中毒の恐ろしさを。

実はこれだけ中毒の構造、特に糖質中毒の構造を理解しているはずのこの私であっても、

最近はあまり厳密に糖質制限をやり過ぎないという自分ルールにしていることもあって、

時々ご飯を食べる行為を許してしまっていることがあるのですが、

そんな私でも「まあいっか」となって糖質を摂り続ける習慣になってしまっていることがあるということです。

それでも知識も経験もあるので、このままではダメだと思って軌道修正しようとはするのですが、

そこでまた「手軽な快楽」の誘惑に負けて、しばしば「自制を失う」日々です。

これでは私もある日急に病気で倒れても全く持って不思議ではありません。

ただ少なくとも現時点で、私はもしも急病になったとしても、それを「災難」だとはみなしません。

自分の人生の行動の積み重ねの結果と捉えますし、その上で今後どうするかは現代医療の推奨にとらわれずに自分の頭で考えていく自信はすごくあります。

どんな病気になっても受け入れて行動する自信があるということです。

それは必ずしも「治す」ということを目指すアプローチではなく。「整える」ということを目指すと言った方が適切かもしれません。

私のように実践を通じて思考を深めていけば、たとえ中毒の構造によって自制が効かなくなったとしても、

自制が効かずに困難な状況に追い込まれたとしても、それもまた人生と受け止められることで不幸を感じる人は少なくなっていくのではないかと淡い希望を抱いています。


……なんだかまとまりのない記事になってしまいました。

要するに「知らないで病気になるのと知った上で病気になるのでは雲泥の差」ということであって、

「知らないで病気になることの不幸を、知ることが和らげてくれるかもしれない」と、

その知るべき知識として核となるのが「中毒」、とまとめられる話でした。


たがしゅう
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コメント

備えあれば。。。

2023/06/04(日) 19:18:50 | URL | ファニー #-
私の家族もよく言ってました「食べたいということは体が欲しているということ」。当時は反論できなかったものです。
欲望に対しては、個人的には「知識」や「事前対策」が大きな武器になると感じています。

例えば、小腹が空いた時用にナッツ類や手作りの糖質制限クッキーなどを用意しておけば満足できます。そうすればスナック菓子などを買ってしまう誘惑と戦う必要がありません。また、肉が好きな人なら「肉ならいくらでも食べてOK」という知識が強い味方になるはずです。

アルコールの様に代替が効きにくいものの方が難しいですね。その点、糖質制限はエリスリトールや大豆粉など色々あるので助かります。ただ、やはりまだ広く受け入れられていないためレシピを探すのも少々苦労しますし、頭を使わないといけないのが面倒であり、楽しいところでもあります。

Re: 備えあれば。。。

2023/06/08(木) 10:42:56 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
ファニー さん

 コメント頂き有難うございます。

 糖質中心の食事をしばらく続けた時とタンパク質中心の食事をしばらく続けた時との食欲の起こり方の違いは、口で言ってもきっと納得してもらえないだろうと思うので、是非みなさんに一度は経験してもらいたいなと私は思っています。

 「食べ過ぎるな」という欲求に真っ向から対立するアプローチではなく、「食べ過ぎてもいいから食べるものを変えよ」という別のアプローチの可能性を代替食品の存在は与えてくれますよね。けれどそこでも「肉ばかり食べると胃もたれする」とか、「食費がかさんで実行できない(※一生そうしろと言っているわけではないのに)」などの常識的言説がたった一度経験させることからも遠ざけてしまう構造があります。実にもったいない話です。不可逆的な薬を飲むわけでもあるまいし、とりあえずやってみてもらうと世界が変わるという人もきっと多いと思うのですけどね。

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