保険診療のあるべき姿についての私見

2023/03/23 11:20:00 | 保険診療への疑問 | コメント:0件

糖質制限実践者が糖質摂取のメリットを考えるのと同じように、

ワクチン接種反対派が、ワクチン接種補助業務での意義を考えるのと同じように、

今回は保険医療制度に問題を感じている私が、保険医療制度はどのようにあるべきかについて今の考えをまとめてみようと思います。

部分的にはすでに過去記事に示してきたように、

基本的に保険診療制度は警察や消防と同じようにいざという時の切り札的な存在として活用すべきだと考えています。

こども同士のいざこざにいちいち警察が介入しないのと同じように、タバコのボヤでいちいち消防車が出動しないのと同じように、

保険医療制度もここぞという時に限って、国民の健康を守る目的で活用されてほしいのです。

逆に言えば、今は保険医療がここぞという時に使われていなくて、ささいなことで保険医療が使われすぎているように私には思えるのです。

それは個人の意識の問題というよりは、世の中に病気の原因を自分で考えさせない、病気は専門家に任せるしかないと感じさせられる仕組みが無数に張り巡らされているからだと私は考えています。

では、具体的にどんな時が「ここぞという時」だと言えるでしょうか。 もちろん、何を「ここぞという時」だと感じるか、何を「ささいなこと」だと感じるかには個人差もあるし、

そんなにクリアカットに分けられるようなものでもなく、きっとグラデーションもあるかと思いますが、

そんな中でも現時点で私がこれは明らかに「いざという時」だと考える状態は、以下の4つです。

①救急疾患(突然発症、過去最悪、徐々に増悪)
②重症外傷(骨折、広範囲熱傷など)
③介入可能な先天性疾患
④晩年の支え合い


④の「晩年の支え合い」という言葉は聞き慣れない言葉を使ってしまいましたが、

イメージとしては以前も当ブログで紹介した鹿児島のプライマリケア医、森田洋之先生と介護施設「いろ葉」の取り組みのことを思っています。

森田先生といろ葉の取り組みは保険医療制度で支えられるべきものだと私は感じています。

それゆえ最初「介護」と書こうか、「緩和ケア」と表現しようか迷ったのですが、

それだと今の介護保険制度の中で多くの高齢者が施設へ入所していて、

コロナ禍の新文化の中で面会禁止やワクチン半強制をはじめとして人権を制限され続けている実情を踏まえると「介護」という言葉では不適切に感じられましたし、

一方で「緩和ケア」という言葉を使うと、晩年は苦しいというのが前提となっているようなニュアンスが含まれてしまうので、これも違うと思いました。

なので苦肉の策として、「晩年の支え合い」とひとまず表現したというところです。これでもうまく表現し切れていないかもしれません。

一般的な介護と森田先生達の取り組みがどう違うのか、そしてなぜ後者のような取り組みだけが保険診療で認められるべきだと私が考えているのかについてはさらに詳細な説明が必要になるので、

記事のボリュームの都合上今回はひとまず置いておき、次回以降の別記事でまとめてみたいと思います。


さて、①〜③が保険診療で認められるべき「いざという時」だと私は考えているのですが、

①〜③の共通点、いや④も含めてですが「自力で対処することができない」というのがその最大の理由です。

もっと言えば、警察や消防を呼ぶタイミングも「自力で対処することができない」時ではないかと思っています。

言い換えれば「自力で対処することができない」タイミングがやってくるまでは、自力で対処する方が自分にとっても集団にとっても恩恵があると考えているのです。

問題は、「自力で対処することができない」と思うタイミングが、医療に関してだけやたらハードルが低いということです。

例えば、風邪は寝ていればほとんど治るのに、コロナを心配して保険診療を利用してしまうとか、

腰痛は9割自力で治せるのに、腰の中で大変なことが起こっているのではないかと思わされる文化があるので病院へ任せてしまうとか、

はたまたがんは生き方で整うのに、がん検診を受けて保険診療につながる流れががっちりとできていたり、という感じです。

社会の至るところで「病気は先生(医療)に任せた方がいい」という空気や構造が出来上がってしまっているように私は思います。

ここをもっとあらゆる病気に対して自分ができることは決して少なくないという認識を、既存の文化的価値観と共立させながら広めていくことが、大事だと私は思っています。

共立しないといけない理由は、すでに私にとっていざという時でない事態で保険医療を使い続けている人に、「それはいざという時ではありません」と伝えて納得してもらうことは不可能だからです。

①〜③の細部にも注目しますと、「①と②」、「③」でさらに分けることができると思います。

「①と②」は「前段階として自分で対処できる段階があるけれど、ある点を超えると自分で対処することができなくなる状態」で、「③」は「初期設定の段階から自分で対処することが難しい状態」です。

さらに①と②も意味合いが異なっていて、①は「時間的に自分で対処できる段階が存在する」で、②は「程度的に自分で対処できる段階が存在する」という違いがあります。

誰もが自分で対処できれば一番いいですし、そんな世界があり得るのであればそこを目指していくべきかもしれません。

でもどれだけ工夫していても人生は複雑で、自分での対処の仕方が完璧になることはあり得ませんし、自分でうまく対処しているつもりでも結果的に歪みを生じてしまうことはあるでしょう。

ましてや外傷ともなると、どれだけ自分で対処しようと努力していたとしても不慮の事故に遭遇する確率をゼロにすることはできません。例えば交通事故で骨折したというのに、それを「主体的に治すべき」というのは酷以外のなにものでもないでしょう。

そんな誰にとっても起こり得る、不本意に、あるいは不意に自力では対処できない事態に遭遇してしまった際のセーフティネットとして保険医療制度は機能すべきだと私は思うのです。

そういう意味では私が考える本来の保険診療の在り方として中心的な役割を果たすのは救急科と整形外科ではないかと感じています。

そんなことを言ったら他の診療科の医療は不要だということなのか、という意見があるかもしれませんが、

繰り返すようですが、あくまでも既存の文化的価値観と共立しながら、保険診療が節約される価値観が広まっていくべきだと私は思っています。

今でも従来の保険診療の使い方がいいと信じて疑わない人達、そういう人達がたくさんいることで成立している医療の形は厳然としてあると思います。そういう人に無理に保険診療を使うなとは私も言いません。

ただし、もしも今後、保険診療を使わないことが自分にとっても社会にとってもいいことだと心底納得して保険診療を節約する人が少しずつでも増えていけばどうでしょうか

従来のたくさん患者が来ることで成立していた医療を利用する患者さんが減り、

その減り方が大きくなっていけばいくほど、そうした医療を提供する側も自分たちの医療の在り方を再考せざるを得ない状況となっていくでしょう。

逆に言えば、今のまま保険診療を何の疑問を持たずに今まで通り社会の流れに沿って使い続ければ、これからもずっと医療を提供する側の体制は盤石だということになります。

でも自分で対処するための発想が、現代社会の仕組みの中で生きていると気づきにくいし、医療者も含めて皆が相当強固な洗脳を受けているので、

このまま何の工夫も施さずに「自分で対処するための思考や行動」を考えることは現実的に至難の業だと思います。「自分の頭で考えよう」と言ったって、このままでは普通に保険診療を使い続ける人がほとんどだろうということは容易に想像できます。

だから病気と呼ばれる現象をもっと広く受け止めて、自分で対処することができるということを確信できるように導くための何らかの仕組みを共立させていく必要があると私は思っています。

それが私がずっと取り組んでいる主体的医療の普及活動だということになります。

特に①の予防はかなり「主体的医療」の大きな腕の見せ所だと思っています。

②の前段階に関してはかなりの範囲が、「なつい式湿潤療法®︎」で自力カバーできるけれども、やっぱり骨折や広範囲熱傷に関しては誰かの助けを借りるしかありません。

③は酵素補充や遺伝子治療で生存継続可能な先天性疾患を想定しますが、これに関しては自力で対処なんて無理ですから、

ここは保険診療でカバーされて然るべき領域だと私は考えます。

ただ仮に一人に対して国家予算レベルの医療費がかかるのだとしたら流石にバランスを考えるべきかもしれません。難しいところですが。

いずれにしても保険診療を節約することが先となるのではなく、

「保険診療を使わなくても自分は大丈夫だ」と思える新たな文化的価値観を醸成していくことで、

結果的に保険診療を日常的に使う人が少なくなって、保険診療が私が考える理想的な使い方に存分に集中できるように、

引き続き主体的医療の仕組みを広げていきたいと思います。


たがしゅう
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