専門家思考は不確実性に耐えない

2023/03/16 10:10:00 | オープンダイアローグ | コメント:0件

あくまでも個人的な見解ですが、

コロナ禍に入って現代医療の歪みが顕在化したし、医学論文が想像以上に恣意的なものであることが露呈したし、

専門家と称する医師集団への信頼は失墜したと私は感じています。

私もその医療界を構成する医師の一人として、決して看過できない問題だと思っていますし、どうにかしたいと考え続けているわけですが、

今回は一つ、専門家と呼ばれる人達の思考の大きなパターンに気づいたので論じてみたいと思います。

それは「専門家思考は不確実性に耐えない」ということです。

オープンダイアローグで大事にされている「不確実性に耐える」という概念の真逆を行う思考こそが、

専門家思考の典型的なパターンなのではないかということを私は思ったのです。 思えば専門家はいろんな不確実な出来事を確実であるかのように決めつけていることがわかります。

・感染症専門家はワクチンが有効だと決めつけている
・糖尿病専門家は糖質制限食が危険だと決めつけている(カロリー制限食が有効だと決めつけている)
・がん専門家は標準治療が絶対的に正しいと決めつけている
・精神疾患の専門家は統合失調症は治らない病気で薬物療法が必要だと決めつけている
・予防医療の専門家は病気の早期発見・早期治療のために検診が必要不可欠だと決めつけている
・発達障害の専門家は発達障害は個性ではなく病気なので専門的な治療を受ける必要があると決めつけている


もちろん、そうした意見も数ある意見の中の1つとして尊重されて然るべきだとは思います。

ただ専門家の人達は、自分達が正しいとする意見とは違う意見を持つ人達のことを「誤った知識を持つ人達だ」と断じたり、

情報弱者だと哀れんだり、ワクチンに反論する人達に限って言えば「反ワクチン」と一様にレッテルを貼り、「公衆衛生の敵だ」などとののしる場面もSNS上では何度も見かけました。

私自身は幸いにも医療が正しいと定めている価値観の矛盾や誤解を身を持って経験する出来事があったおかげで、

この専門家思考から離れ、だからこそオープンダイアローグと呼ばれるものにも興味を持てたという流れがあったように思います。

とは言え、多様な意見を一律同じように受け入れることはできませんので、自分の中で良いと思う意見と、自分とは違うなという意見を見極めながら、

しかし違う意見の持つ見えない可能性も否定せずに、基本的には自分の中で良いと思う意見を中心にしながらもフレキシブルに自分の考えを見直し続けるスタンスで生きるようにしています。

例えば、私は糖質制限食に命を救われた経験があるので、明確に糖質制限推進派(賛成派)ですが、

だからと言って糖質制限を否定する人達のことをののしったり、情報弱者だと哀れんだり、「反糖質制限」とレッテルを貼って論じるようなことはしません。

むしろどうして糖質制限に反対するのかということに理解できるところも多いので、残念ながら自分とは違うスタンスだと判断して必要に応じて距離を置きます。

一方で糖質そのものが絶対悪だとも思いませんし、糖質主体の食品のおいしさも魅力的であることも理解できますので、私自身もこの魅力につられて糖質主体の食品を食べてしまうということも結構あります。

それ自体は見る人が見れば優柔不断とか、八方美人などのように受け止められる方もいるかもしれませんが、

私の中では矛盾はなくて、むしろ対話的に生きるということを体現しようと奮闘していることでもあると思っています。

「みんなちがって、みんないい」とは詩人、金子みすゞの名言ですが、

みんなちがっていていいのですが、そのたくさんある中で「自分はこう思う」「この考えが自分には合っている」という考えはやはり自分の中であるわけで、

等しく全ての考えで同じ重みで尊重するということは私は無理だと思っています。

そういう重みの強弱がある中で、「糖質制限食が健康の基本」というのは私の中でかなり重みのある意見なので、

自分が深く接する機会のある人へはなるべく伝えるようにしているのですが、

そこが時間にゆとりがない場であったり、全体の流れの中で不自然であったりする場合は、言うのを控えたりすることもあります。

そのように私は置かれた場やそこにいる人達の関係の中で常に揺れ動きながら、自分の意見の出し方や自分の行動を変化させたりする、ということをしているように思います。

私がワクチン反対派なのにワクチン接種業務を手伝ったのも、そうした逡巡の1つです。


しかしながら、専門家と呼ばれる人達の思考にはそういうゆらぎが少ないように私には思えています。

いつ何時、いかなる時であっても「この考えは正しい」と主張してしまっている、言い換えればここの知識において自分の考えが他の誰よりも深いことが自分のアイデンティティとなっているように思えます。

この多様な意見への重みづけの偏り、ゆらぎの極端な減少が専門家思考の大きな特徴となってしまっているのではないかと思うのです。

もちろん私自身にも重みづけに偏りはあるのですけれど、

少なくとも違う意見の声を聞こうという姿勢はあります。

こういうブログの文章としては基本的に自由な意見が書けるので、ひょっとしたら押し付けているように感じられる人もいるかもしれませんが、

文章なので違うと思えば離れればいいだけの話なので、特別の圧力はかかりにくく、本は対話的な存在だと私は思っています。

話が少しそれましたが、上述の6つの専門家の決めつけは、

私から見ればそうではない価値観もおおいに考えるべき価値があると思っています。

・ワクチンは感染症の予防に有効とは限らない(むしろ有害な場合がある)
・糖質制限食は健康を維持するための基本として考えることもできる
・がんの標準治療はがんを撲滅する発想であり、自分を傷つけることにもつながる治療法である
・統合失調症と呼ばれた状態が薬を使わずに対話で改善することがある
・病気は常に早期発見・早期治療すればよいというものではなく、老化をはじめむやみに治療しない方が幸せに生きられることもある
・発達障害と言う状態は個性か病気かという以前に、社会の固定的な価値観をよしとする風潮の現れとして一定の割合でそこから外れる状態の人が出てくる構造があると思う



専門家の見方も意見の1つ、私のこの見方も意見の1つ、

ではそうした色々な意見がある中で、この場ではどのようにしていくのがより望ましいか、ということが対話的に話し合える場があればいいのですが、

現状、残念ながら専門家の意見が重視され過ぎて、一つの意見の正しさが社会という仕組みも手伝って暴走し続けてきた、

それがこのコロナ禍と呼ばれる時代の本質であったような気がしています。

「社会の仕組みも手伝って」と述べましたが、その仕組みの中でとりわけ大きな役割を果たしていたのが「科学」という概念だと私は思っています。

「科学」を意味するscience(サイエンス)という言葉の語源は、「切る、分離する」を意味するラテン語のscientiaという言葉のようですが、

まさにそんな一刀両断するかのように正しさを断じる「科学」の台頭が、

専門家思考というものを生み出し、それが社会に受け入れられ仕組みの中に組み込まれ、この度の暴走を許してしまったのではないかと私には思えています。

もっと言えば、保険医療制度に基づく現代医療は、ここにひもづく東洋医学も含めて、専門家思考パターンの養成装置となってしまっているようにも思えるのです。


だったら、どうすればいいのでしょうか。

私が思うに、まずは一方的に科学的に正しいとされる意見の地位を落とすことです。

私個人の行動としては白衣を脱ぎ捨てることです。

保険医療の現場ではないところで、もっと対等に語り合える場を1ヶ所でも多く作ることです。

そうして多様な意見が、もちろん重みの強弱はありながらも、一色に染まることなく共立できる状態を作ることです。

その一色に染まらずに常に揺れ動きうる状態を作るためのコツが「不確実性に耐える」ということではないかと私は思います。

逆に言えば、保険医療に頼りたくなる姿勢の裏には「確実性を求めている」という感覚があるのかもしれません。

なぜならばその先には専門家が控えているし、自分にはどうしていいかわからないからこそ専門家の元に行こうと思う流れがあるからです。

自分は本当にどうすればいいかわからないのでしょうか。

病院に答えを求める前に、不確実性に耐えながら、

ひとまず対話するという文化がもっと広まれば、少しはこの世界の歪みも整っていくのでしょうか。


たがしゅう
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