保険診療は予定調和

2023/03/02 09:40:00 | 保険診療への疑問 | コメント:0件

保険診療への疑問をしばらく書き続けています。

保険診療の利用者は主に高齢者だと思います。それは年齢を重ねると病気が起こりやすいと考えられているので致し方ないことではあります。

私は脳神経内科という専門柄、ご高齢の患者さんを診療する機会が多いのですが、多くの診療においては患者さん達が保険診療に対して表立って不満を表出されるという場面は特に見受けられません。

かといって皆、満足して保険診療を受けているかと言われたら、本人に聞かなければ本当のことはわからないというものの、

おそらくですが、満足しているというよりは「仕方がないから」あるいは「みんな医者にかかっているから」という感覚で保険診療を利用しているのではないかと感じています。

推測には過ぎないものの、仮にそうした感覚が本当にあるのだとしても、患者さんから実際に不満の声が聞かれることはまずありません。なぜならば「仕方がない」と思っていますし、「みんな同じようにしていること」だからです。

そんな本音が押し殺されているかもしれない状況の中で、時々保険診療への不満があるかのようなコメントが患者さんから聞かれることがあります。

「やっぱりずっとこの薬を飲まないといけませんかね?」

この台詞から私は、患者さんの裏にあるであろうとある気持ちを推測してしまいます。 例えばこんな気持ちです。

「できれば薬は飲み続けたくない」
「本当にこのまま薬を飲み続けて身体に何か悪いことが起こらないかどうか心配」


そのようにきっと本当は不安を抱えながら保険診療を継続して受け続けておられるのではなかろうかと想像してしまうのです。

一方で、何の薬を飲んでいるかにもよりますが、この台詞を投げかけられた医者側は例えばこんな風に答えます。

「そうですね。でもやっぱり薬を飲んでいないと病気が怖いですからね。飲み続けておきましょう。」

そのような答えを聞いた患者さんは、不安を感じながらもその不安を抑え込むように、多くの場合再び医師の言う通りに従い続けるわけですが、

本当は薬を飲まないという選択も尊重されて然るべきだと私は思います。

なぜならば薬を一生飲み続ける方に健康への悪影響があるのではないかという不安にも一理あるからです。

要するに、保険診療を受けていると「病気は継続的に薬を飲み続けて管理すべき」という一つの価値観に従属させられる(さもないと脅迫的な言動を受けて大きな不安を抱えることになる)構造があるということです。

本当は薬を飲まないことでの不安、薬を飲み続けることでの不安、さまざまな思いについて医者と患者が対話をしていく中で患者が自分の望む方向へと進んでいくことが望ましいと私は思いますが、

保険診療制度の中ではとてもそのような対話を行えるような仕組みにはなっていません。例えば、下世話なことを言ってしまうと対話をしたところで医療機関にとっては一銭のもうけにもなりません。

対話をしようとすればするほど、次に薬を処方してもらうのを待っている多数の待機患者の時間が圧迫されていくことになり、その患者さんはよくとも後の患者さんは時間がなくてろくな診療を受けることもできなくなるという煽りをくらうことになってしまいます。

仮に時間があったとしても、当の患者さん自身も対話を求めているわけではなく、慣れた保険診療の文化の中で医者から何らかの「明確な答え」を求めているでしょうから、

そういう意味でも保険診療の中で対話を行うことは困難なことです。たとえ対話に可能性があったとしても保険診療というフィールドがその実現を極めて困難なものにしているのです。

別の言葉で表現すれば、保険診療は予定調和なのです。

予定調和とは辞書的には「大方の予想した通りに物事が進んで(途中にイレギュラーな事態が発生したとしても結局は当初の筋書き通りに軌道修正して)意外性のない予想通りの結末に落ち着くさま、および、そのような結末に落ち着くことが容易に想像できる安易な筋書き」と書かれています。

保険診療の中では医師は必ず「保険病名」と呼ばれる病名をつける必要があります。

例えば「高血圧症」という保険病名をつけたなら、「高血圧診療ガイドライン」という筋書きに沿って治療が進められることになります。

この筋書き通りに従うのがいわゆる「良い患者」です。医師はこの筋書きに従うような言説を患者に伝えます。

「高血圧症」の場合であれば、「血圧が高い状態が続くと血管に負担がかかり、血管が詰まったり破けたりします。脳卒中や心筋梗塞のように命に関わる病気にもつながります。だから血圧が高くなり過ぎないように血圧を下げる薬を飲みましょう」という言説です。

権威ある医師にそのような説明を受ければ(あるいは受け続ければ)、おそらく何の疑いを持つことなく患者は従うことでしょう。その言説にはある程度理にかなってもいますし、受け入れても無理もない話だとも思います。

しかし冒頭のように、この言説に疑問を呈するように「薬への不安」を表出しようものなら、それはこの筋書きから外れてしまうことになってしまいます。

そうすると予定調和が成立しなくなってしまい、筋書きに従っている医師からすると相手のことが「悪い患者」に見えてしまいます。

従って、それを避けるために医師はこう言うのです。「薬を飲まない方がよほど怖いことになりますよ」と。



このように医師が意識しているいないに関わらず、予定調和が求められているのが保険診療というフィールドだと私は思っています。

こういうと医師側の陰謀のように聞こえるかもしれませんが、医師側にも気づかれないように予定調和となるような仕掛けが保険診療制度の中にはたくさんはりめぐらされています。

例えば、保険病名をつけないと薬の処方に保険を効かせることができないとか、たくさん患者を抱えて処方や検査を実施すればするほど医療機関の報酬が増えてゆとりを持った経営ができるようになるとか、

あるいは「保険医療制度のおかげで全国どこにいても平等で質の良い医療が受けることができるようになる」という建前も、何というか医師の正義感のような感覚をくすぐりこれを守る方向に仕向けているかもしれません。

考えてみればとても巧妙かつ複雑に、この予定調和を守る仕組みがユーザー側(患者)とベンダー側(医師)の固定的価値観にもガッチリと支えられ盤石な体制をとっているように思えるのです。

言い換えれば「巨大な価値観の押し付け装置」とも言えるかもしれません。この価値観の押し付けが唯一許されうる部分があるとすれば、とてもではないけれど対話する余裕などのない救命救急の分野だとは思いますが、

対話できないことがこの装置の使用が許される必要十分条件かと言われると、同じく自分の意思が出されにくい終末期医療の現場での延命治療につながってしまうことを考えれば、対話できないことだけが装置を使っていい理由とも言い切れません

ともあれこの保険診療という装置は人々の健康を守るための必要最低限のライフライン(極限まで活用しない)と位置付けて、基本的には多様な価値観の中から自分はどうすべきかを選んでいけるような世界が望ましいのではないかと私は考えます。



はっきり言って予定調和って楽なんです。考えなくてもいいわけですから。

保険診療の筋書きに従っている限り、医師はとても楽です。もちろん、ここでは日々の多忙な業務による肉体的疲労という意味で楽と言っているわけではありません。そっちはむしろ大変です。

そうではなくて、気持ち的に楽だということです。次に何をすべきかは筋書きが教えてくれるからです。筋書き通りに従っていれば、たとえ目の前で不幸な出来事が巻き起こったとしても、それは筋書きに従った上での「やむをえない出来事」と認識され、処理されることになります。

それは表面上は「手は尽くしましたが残念です」とか「心よりお悔やみ申し上げます」などのような人間の優しさとして表出されて、ユーザー側もベンダー側の体制に疑問を持つどころか、むしろ感謝してしまうことさえあるかもしれませんが、

本質的には「我々はただ筋書きに従っただけ」ということが表現されているだけに過ぎないかもしれません。哲学者ハンナ・アーレントが指摘した「凡庸な悪」という言葉を思い起こさずにはいられません。

予定調和が求められる装置の中で医師側が楽な感覚でいられる反面、煽りをくらうのが患者側です。「おかしいな」と思ってもその筋書きに沿わない感覚を否定され、批判され、時には恫喝されたりする恐ろしさがこの保険診療という装置には備わっていると私には思えます。

その恐ろしさががん医療においては特に如実に現れてしまっていることは前の記事で書いた通りですが、いつしかそのようなことがまかり通る社会を私たちは知らないうちに良かれと思って作り続けてきてしまったのかもしれません。

その予定調和が求められる装置の中で、はたして自分の望む生き方、自分が大事にしている価値観を守り続けることができるでしょうか。一緒に守ってくれる人と出会うことはできるでしょうか。私は正直言って難しいと考えざるを得ません。

だから私は保険診療を休止するという決断をしました。筋書きに沿わないことで苦しい思いをしている患者さん達の声を聞くために。

予定調和の世界から一歩外へ踏み出してみたのです。


たがしゅう
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