がんは敵だと信じて疑わせないシステム

2023/02/16 10:45:00 | 保険診療への疑問 | コメント:0件

前回の記事の最後に「保険診療の暴走性が如実に現れているのががん医療の分野だ」と書きました。

保険診療を使わないという、おそらく多くの人にとって奇抜に感じられるであろうこの選択肢の最大のメリットは「西洋医学のがんへの言説に翻弄されなくて済む」であると言っても過言ではないように私は思います。

西洋医学のがんへの言説というのは、当ブログでも何度も述べてきておりますように、

端的に言えば「がんは放置すると命をむしばむ病なので、早期に発見し早期に手術し、手術できなければ抗がん剤や放射線で叩くべし」というものです。

この言説に疑う余地を持たない風潮があるからこそ、人は健診を大事と考え、早期にがんを発見して手術してくれる医師を命の恩人と認識し、抗がん剤の副作用を病に打ち勝つために乗り越えなければならない試練だと受け止めて納得してしまいます。

でも私はがんに対してその言説とは異なる見方をしています。それは「がんは歪みを教えてくれている身体からのメッセージ」という見方です。

是非はひとまず置いておくとしても、がんをそう捉え直すと、がんを切り取ったり、叩いたりするのではなく、がんをそのままにしたまま心身の歪みの要因を探し整えるという別のアプローチの可能性が見えてきます。

そしてその歪みの大きな要因の一つに西洋医学的ながんへの言説に由来する「標準治療に乗らないことに伴う不安・恐怖」があると思っています。 つまり心底、がんは自分の味方だと思えない限りは、がんに標準治療を行わないこと自体が大きな不安・恐怖をもたらし、そのストレスが実際にがんを大きくする方向に働いてしまうという構造があると言います。

誤解を恐れずに言うならば、保険医療制度は上述の西洋医学的ながんへの言説を信じ込ませるための洗脳システムのようなところがあります。

例えば、自分が「がんは味方」だという私と同じ言説を一応納得したとして、保険医療を使って病院へ定期通院している人がいるとします。仮にAさんとしましょうか。

保険医療制度に則って通院する患者さんへは病気を早期に発見するよう定期的に検査を行うことが是とされる文化がありますので、

医師からはそのように勧められますし、その方針に疑う余地のない患者さんは断る理由もありませんので、定期的に検査を受けます。

そうすると例えば血液検査で肝臓の数値に異常がある場合に、医師からは「肝臓の数値が悪いので画像検査をしましょう」などと勧められたりするでしょう。

その「数値が悪い」という言説をも疑う余地のない患者さんはまるでベルトコンベアーに乗せられるように次々と検査を受けさせられることになり、その果てに「がんを疑う病変があるので外科を紹介受診しましょう」などと言い渡されます。

そのような形でごく自然に「がんは異常で悪」「一刻も早く取り去るべき」「放置すると恐ろしいことになる」という価値観が巧妙かつ頻回に刷り込まれていくわけなので、これに立ち向かいながら「がんは味方」と思い続けるのは至難の業です。

でももし私がAさんの立場なら「発見して頂き有難うございます。自分としては生活を見直しながらしばらくこのまま様子を見たいので、せっかくのご提案なのに恐縮ですが外科への受診はひとまず見合わせたいと思います」と医師へ伝えるかもしれません。

しかしそんなことを言おうものなら、西洋医学的な言説を持つ医師からは「何もしないのは危険だと思います。念の為外科で調べてもらうことを強く勧めます」とか、「せっかく早期に見つかったのに何もしないのは命を捨てるようなものです。変なことを考えるのはやめて素直に受診しなさい」などと言われてしまうかもしれません。

そうした西洋医学的言説に基づく反論を浴びせられ続けて、それでもAさんは自分の信念を貫き続けることができるのでしょうか。
誰もが話のわかる人とは限りません。そのことはこのコロナ禍において非常に明らかになったように私は感じています。

そうした全く価値観の人達と難しい対話をこなしながら、自分の信念を守り続ける離れ業を行い続けなければならないくらいなら、最初から保険医療制度など利用しない方がいい、という選択肢が見えてくるはずです。

ただそれならば自由診療を使えばいいのかと言われたら、それもまた勇み足の可能性があります。

なぜならば、自由診療で提供される選択肢の中にも、西洋医学的な言説にどっぷり浸かっているものも多く見受けられるからです。

例えばがんに対する自由診療では、超高額な再生医療的アプローチや超最新式の放射線治療といった選択肢があると思いますが、

これは西洋医学的ながんへの言説をそのまま採用した上で、「標準治療はがんのやっつけ方が間違っているだけで、もっと正しいやっつけ方をするべきだ」という主張を繰り広げていることになります。

これでは保険診療から離れてせっかく西洋医学的な言説から逃れるメリットを得やすくなったというのに、元も子もありません。

自由診療は保険医療が提供する標準治療ほど激烈な副作用や臓器欠損症状は来さないものが多いかもしれませんし、それらの治療を受けられた安心感も手伝って心身が整っていくという側面はあるかもしれませんが、

いかんせんビジネスの側面が強すぎるのと、効かなくても「がんが相手だったからしようがない」と言って攻められることもなく、治療の優劣を個人差で片付けられてしまういい加減さも否めません。

標準治療で治らずに苦しんでいる受け皿になっている側面もありますし、ビジネス的側面についてもニーズが一致すれば他人からとやかく言われる筋合いはないでしょうけれど、

私はそうした医療の在り方を好みませんし、自由診療には西洋医学的な言説にとらわれない選択肢も提示できる場になってほしいという想いがあります。


究極的には、私の「がんは味方」という言説を受け止め切るためには、「たとえがんで死んだとしてもやむなしと思えるかどうか」が重要ではないかと思っています。

なぜならば、「がんは味方」だという考えが心底身についていれば、がんで死ぬことをそもそも病気だとも思いませんし、自分なりに歪みを整えようと試みても整えきれなかったのだとしたら、

それはそれだけ人生を生きてきて身体の仕組みを酷使してきたということの証だし、整えようとしても整わないのであれば、整え方が間違っていた可能性はあるけれど、最終的に自分の身体がそちらの方向を望むということを選んできたという事実を受け止めるより他にないと思うし、

最期の最期は老衰のように自分の人生を受け止めることに行き着くはずだと思うからです。

もし「あの時やっぱり手術をしておくべきだった」という後悔が生まれるのだとしたら、味方だと思いながらやっぱりがんに「敵」の要素があることを否定しきれなかったことの現れだと思います。

でもこれは自分の命が関わる大事な決断です。他人に言われて決めるようなことではそもそもありません。

しかしそんな大事であるはずの決断を、西洋医学的ながんへの言説がいたるところにはびこっているせいで、その権利を安安と医療へ明け渡してしまっている実情がリアルにあると私は思っています。

これはコロナ禍で他人への思いやりと称してワクチンを打つという決断を多くの人が受け入れたことに通じる話だと思っています。

コロナもがんも自分の生き方の現れの一表現型に過ぎず、誰かにうつされたという価値観から離れ、自分の社会との関係の産物として捉え、亡くなったとしても老衰として受け止める見方を、すでに多くの人ができなくなってしまっていたということです。

そういう意味でコロナ禍でのパニックで始めて起こった決断の歪みではなかったのです。もっとずっと前から医療は私たちが自分の人生を自分で決めることを難しくすることに貢献し続けてきました。

そんな医療の奴隷になることから解放されることを、今ほど真剣に考える必要のある時期はないと思っています。

日本のみならず、世界中の至るところに「がんは敵」というメッセージが込められ続けてしまっている状況の中で、

それでも「がんは味方」だと思えるように、そう思い始めている人達が既存の言説へと引き戻されてしまわないように、

私にできることがあるとするならば、西洋医学的な言説に気づかないうちにすぐに染められてしまいがちなこの世界の中で、

そうではない考え方もあるというメッセージを発し続けることかなと思っています。


たがしゅう
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