異物を取り入れることに対話的であるべき

2023/01/19 10:25:00 | オープンダイアローグ | コメント:0件

私はコロナは「ただの風邪+不安/恐怖情報による修飾」だという見解を当ブログで述べてきています。

またウイルスは「自己と非自己との中間的な存在」だとも主張しています。

ということは、自分が不安や恐怖にさらされて、制御困難な状況になればなるほど、

自律神経の過剰刺激状態や抗ストレス系の内分泌過剰刺激などの仕組みを介して、

ウイルスを認識する際の他者性に注目することになり、これとの接触で異物除去システムが過剰駆動してしまい、

実際に恐怖のウイルス感染症のように感じられる状況に苦しむ状態へと陥いるという皮肉な構造になってしまっていると考えています。

そう考えるとシェディング後遺症の問題もうまく説明できますし、

本当の感染対策は病原体を排除することではなく、社会の環境の中で「自己を整えること」にあると、

だからこそ世界各国でコロナを敵視しなくなった国ほどコロナが落ち着いてきている、という状況になっているのではないかと思います。 一方で、この「宿主病因論」は感染症学がずっと常識だと考えてきた「病原体病因論」を抜本的に見直す発想であり、

多くの人が「ウイルス(感染症)はうつったり、うつされたりするもの」という概念を共有している限り、なかなか受け入れられない発想であるようにも感じています。

ただ、「宿主病因論」の側から見ると、「病原体病因論」の考えのバランスの悪さに気づくことができます。疑わしいと思う方も一旦受け入れて私の意見を読んでもらえれば幸いです。


まず「病原体病因論」というのは、この世には健康を守るために排除すべき「病原体」というものが存在すると考える立場で、その病原体をいかに殲滅させるかが「病原体病因論」の至上命題とも言える問題だと思います。

つまり異物を徹底的に排除しようとするスタンスが強く現れている思想といえますが、その一方でワクチンというものには全幅の信頼を寄せています。

言い換えれば徹底的に排除しようとする異物がある一方で、ワクチンも本質的には異物であるはずにも関わらず、こっちの異物に対しては非常に無防備な姿勢をとっています。

どのくらい無防備かと言えば、自然界の生き物が普通に生きていればまず遭遇することがないはずの血管内への高濃度注入という形を許容するほどの無防備さです。

強烈に異物を排除しようとする姿勢がある一方で、同時に異物への驚くほどの無防備さをも持っている、これが「病原体病因論」という思想が持つアンバランスさです。

血管内に異物を接触させるという行為は、臓器移植の拒絶反応にも通じる、免疫学の知見から考えても非常にリスクの高い行為であるはずです。

なのにその「血管内」という体内の深いところに異物を注入する行為をむしろ率先して行ってしまうというその態度にまずは疑問を持つべきではないでしょうか。

この思想があるが故にワクチンの副作用を「免疫が強くなっている証拠」と解釈してしまったり、

ワクチンを打てば打つほど感染者が増えていく実情を目の当たりにしても「免疫を逃避する変異株の恐ろしい性質」と解釈してしまったり、

不幸にもワクチン接種後に死亡する人達がどれだけ現れたとしても、それが社会の中での多数派ではない限り「残念な事故とは思うが無視できるほど小さい確率であり公衆衛生で最大多数の幸福を守ることが大切」と解釈してしまい、

このアンバランスな思想をそのまま継続させていってしまうことができてしまっているように思います。

でも「宿主病因論」で考えれば、ワクチンの副作用は「異物を血管内に注入されたことで発生した正当な異物除去反応」ですし、

ワクチンが打てば打つほど感染者が増えていく実情は「ワクチン接種で異物除去反応を強制駆動される人が増えていく中で一部の人が恒常性を保つことが困難になっている」ですし、

ワクチン接種後の死亡事例については「異物を血管内に注入されて恒常性が乱され過ぎて生命を保つことができなくなるケースがある」と解釈することもできるわけです。

どちらの考え方も解釈次第でそのように捉えることができるという思想であって、

どちらの思想でも少なくとも表面的なつじつまは合っているとは思います。ただ思想としてのアンバランスさがあるのは明らかに「病原体病因論」の方ではないでしょうか。

これは、自由主義(リベラリズム)を唱えていた人がこぞって自由を制限するロックダウンを推奨したことと同じくらいアンバランスな思想ではないかと思っています。

世界は今、それくらいアンバランスな思想が席巻してしまっているということに私たちは自覚的になり、

このアンバランスを是正するために一人ひとりが動き始める必要があるのではないかと私は思うのです。

その第一歩として考えてほしいことに、「異物を体内に取り入れることに対話的であるべき」ということがあります。

ここで「異物を体内に取り入れることに慎重であるべき」と表現していないことにご注目下さい。

結局、「ワクチンは異物だから一切取り入れるべきではない」という考え方も一部の異物を積極的に排除しようとする「病原体病因論」と表裏一体の考え方であることにお気づきでしょうか。

対象が病原体なのか、ワクチンなのかが違うだけで、どちらも「病原体病因論」のコインの表と裏の思想だと思います。

私たちはこの自然法則の敷かれた複雑な社会で生きている限り、異物との接触は不可避です。ただ一方でその異物性が強く感じられる相手とそうではない相手とのグラデーションがあると思います。

どちらの場合も盲目的に「これは排除すべき」「それとはくっつくべき」と判断するのではなく、まずすべての対象に対して強弱はあれど自己へ通じる要素が含まれているという発想を持ち、

それと今つながる必要があるのか、つながるとしたらどの程度つながる必要があるのか、接触という意味で言えば観察するだけなのか、触れるだけなのか、経口摂取するべきなのか、血管内に注入しても良いのか、など、

相手に関する情報を確かめながらつながり方を確かめていくプロセスが必要不可欠であるし、

またその吟味のプロセスの中で、今はちょっと自分とつながることは難しいと感じたとしても、

未来永劫拒絶し続けるのではなく、将来的に状況が変わった時にはその時の状況を踏まえて考えなおすという柔軟性を残しておく、

そんな面倒くさいプロセスを経ながら社会の中で生き続けていくという思想が、

今のアンバランスな「病原体病因論」が席巻してしまった現代社会の中で、最も求められている思想なのではないかと私は思うのです。


生きていて、「ちょっと違うな」と思える考え方、そういう考えを持つ人と出会った場合は、

完全拒絶するのではなく、ちょっと距離を置いてみるのはどうでしょうか。

距離を置くということは関係の断絶を意味しません。関係はあるけれど、そのつながりが薄くなっている状態を指します。

その上でただ無視するというのではなく、その相手がおかしいと思う時には今私がやっているように何らかの形で声を上げること、それが薄く関わることにもなります。

一方でそうして上げた声によって距離が近づきつながる人が出てきて、そこで新しい価値観も醸成されていくでしょう。

もちろん新しい価値観の中でも絶対的に正しいという感覚は持たずに、

対象との距離感に応じてさらに異なるものと対話的に関わり続けるプロセスは続けていく必要があるでしょう。

そう考えると、生きるって随分面倒くさいことなのかもしれません。

けれどどうせ生きるのであれば、なるべく良い生き方を目指したいと私は思います。

そのために面倒くささが必要なのであれば、向き合っていくしかないのかもしれませんね。


たがしゅう
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