続けていくために基準を変えていく
2022/12/22 12:00:00 |
糖質制限 |
コメント:2件
前回は「緩やかな糖質制限食は(3食主食抜きの)スーパー糖質制限食より受け入れられやすい。なぜならば”日本人の主食は米”という多くの人で共有される常識的価値観が否定されないからだ」という話と、
「基本的にマスク装着は、脱マスクより(日本では)受け入れられやすい。なぜならば”マスクをつけることは社会のマナー”という常識的価値観が否定されないからだ」という話と共通構造を持っている、というお話をしました。
この話の延長で思ったこととして、「常識的価値観とは逆サイドにある非常識的価値観の価値を、知った上で常識的価値観に沿った選択をするのと、知らない状態で常識的価値観に沿った選択をするのとでは人生の満足度を考える上で雲泥の差があると思う」ということがあります。
例えば、私はスーパー糖質制限食の良さを完全にわかった上で緩やかな糖質制限食を選択する場合があります。
もっと言えば、緩やかな糖質制限食どころか、糖質過多食を選択する場合さえあります。緩やかな糖質制限食や糖質過多食で糖質を摂取したらどうなるかについて医学的な基礎はわかっているにも関わらずです。
それは比較的親しい人達とのパーティーであったり、大事な席で料理を出された時であったり、自分が説明するのが面倒な状況であったりと様々ですが、
わかった上で糖質過多食や緩やかな糖質制限食を選択するのだとすれば、その決断は尊重されるべきだと思っています。 問題は知らないのに常識的価値観に沿った選択している場合です。
例えば糖尿病で考えれば、常識的価値観に沿っていれば「糖尿病の原因はカロリー過多で、特にカロリーの高い脂質が多い食べ物が要注意なので、低カロリーなご飯を中心に野菜や果物をしっかり摂って、肉や魚は控えめにすべき」という考えの下に治療を行う(行われる)ことになります。
ところが現実問題としてこの治療方法では血糖値はなかなか下がりません(その現場を医師として数多く見てきました)。一方で常識を疑うわけではないので、その現実を「カロリーの下げ方が足りないせいだ」「同時に運動を行なっていないからだ」などという風に受け止めてしまいます。
それに対して非常識的価値観に沿って考えれば、「糖尿病の原因は糖質で、特に糖質の多い主食系の食べ物が要注意なので、低糖質な肉や魚、卵などを中心に、野菜も糖質量に注意して選択肢、高糖質な果物は原則避けるべき」という常識的価値観とは真逆の考えが出てきます。
その考えに沿って治療を行う(行われる)と、十中八九血糖値を下げることに成功します(その現場を医師の立場で何度も確認してきました)。どちらが理論として現実をうまく説明しているかは火を見るより明らかです。
ただ糖質摂取によってもたらされる現象が絶対悪かと言えば、そんなことはありません。糖質摂取はまず美味しさを感じやすいですし、多幸感をもたらしますし、糖質摂取文化の中での人と人との交流を円滑にします。
他方で糖質摂取が繰り返されることで酸化ストレスを通じて血管が動脈硬化を起こしていったり、タンパク質が糖化して身体構造が老朽化したり、酵素の働きが機能不全に陥ったり、ひいてはアレルギー、自己免疫疾患、サイトカインストームなどの異物除去システムの機能不全にもつながります。
これらのメリットとデメリットを天秤にかけた上で、糖質摂取を選択するのであればそれはその人の人生の選択です。誰に何を言われる筋合いもないでしょう。
繰り返すようですが、片方の価値観しか知らない状態で片方の価値観に従った選択のデメリットにさらされ続け、しかも解決策もわからない(思いついても見当違い)になるのが大変不幸なことだと私は思うわけです。
一方で、たとえ論理的な合理性があったとしても、非常識的価値観の方だけに従った選択を行い続けるスタンスも、これはこれでデメリットを生じる恐れがあります。
例えば「いついかなる状況においても私は糖質を摂取するべきではない」という考えに縛られてしまっていると、
例えば糖質食文化の会食やパーティーに参加することができなくなります。もちろんそこで自分だけは食事をしない(もしくは食べられる部分だけ手をつける)という選択をすることもできますが、純粋に何も気にせずに食べる場合に比べてストレスが高くなる可能性があります。
あるいは会食やパーティーの主催者に自分の食事だけ糖質制限食にしてもらうよう配慮を交渉するという選択肢もあるかもしれません。これとてすんなりと進めば良いですが、交渉に難航したり受け入れられないことで発生する新たなストレスのリスクも十分に想定されます。
またそもそもそのような考えに縛られていると、どうしても交流の場自体も同じく糖質制限食を理解している人達に限られていく傾向が出てきてしまいます。それは言ってみれば糖質制限派と非糖質制限派との間での分断を作ることに貢献することにもなってしまいます。
多様性の観点からすると、交流する場を制限すればするほど、新しい発想や現状の問題に気づく視点が失われやすくなってしまいます。
とは言え、これもまた天秤にかけて判断されるべきです。スーパー糖質制限食を続けることで生まれるストレスと、糖質摂取と糖質制限の間を行き来することで生まれるストレスとを比べて、前者の方がストレスが少なければスーパー糖質制限食を遵守する生き方はやはり尊重されるべきです。
大事なことは、多様性を踏まえた上でそれぞれの人生の選択がなされているかどうか、ではないかと私は思います。
もう少し言えば、自分と違う側の生き方の良さもわかった上で自分の生き方が選択されているかどうか、です。
こう言うと、全ての人間の生き方を知ることなど到底できないので、原理的には無理なことなのかもしれませんが、
ただ自分の生きている中で知りうる範囲であったとしても、自分と違う生き方にも一定の理解を示しながら自分の生き方を選ぶという行為の価値は、
様々な人の価値観に触れていく中で、多様性が尊重される環境の中で、大きく発揮されていくように私には思えます。
全員が糖質摂取をよしとする文化の中だけで、どれだけ多くの人に出会って価値観をわかったつもりになったとしても、
それは部活やサークルの内輪だけで盛り上がって、その中での価値観に染まれない人を排除するという排他性に無自覚になる怖さや、
その中での居心地の良さが別の価値観から見ると破滅につながっていく道のような構造となるリスクに、
気づかずにそのまま生きてしまう可能性があります。それは本当の幸せを目指すに当たってできれば避けたいことにように私には思えます。
なるべく多くの多様性に触れて、その中で自分の生き方を選択していくために大事かもしれないと思うスタンスがあります。
それは自分の中で軸を持ちながら、自分の基準を柔軟に変えていくというスタンスです。
一見矛盾するような話に思えるかもしれませんが、そうではないと私は思います。
具体的に言えば、例えば私の場合は、「糖質制限状態が人生の基本」という軸を持ちながら、「多様性のある社会との関わりの中で糖質を摂取するべきか否かは柔軟に基準を変えていく」というスタンスになります。別に矛盾はしていないのではないでしょうか。
言い方を変えれば、「続けていくために基準を変えている」ということになりますでしょうか。
社会には様々な価値観の人が生きています。自分もその社会の一員です。
様々な価値観の人達が、それぞれの価値観が尊重されたまま生きていくためには、どうしても自分が接する社会の構成員の価値観に従って自分の価値観をも柔軟に見直せるスタンスが大事になっていくように思います。
とは言え「ここだけは絶対に譲れない!」という部分だってあるわけですし、その場にいる人達の価値観に合わせるだけだと八方美人にもなりかねません。だからどうしても譲れない部分があれば、その気持ちを表明しながら一旦その場から離れる選択も尊重されるべきだと思います。
しかし離れたからと言って未来永劫断絶するわけではなく、あくまでも一時的に離れただけ、今後の成り行き次第(自分が変わったり、相手が変わったり、社会が変わったりして状況が変わる)で将来再びつながるかもしれない可能性だけは否定しないというスタンスで、
近い考え方の人、遠い考え方の人、全然違う考え方の人、いろんな人と繋がったり離れたりしながらなんとかうまくやっていく。そのためには自分に絶対的な基準を持つことよりも、自分の基準を状況に応じて変化させうる柔軟性及びその可能性を否定しないスタンスが大事になってくるのではないかと私は考える次第です。
さて、この話をマスク習慣に応用すれば、どういうことになるでしょうか。
よろしければ読者の皆様それぞれでも考えて頂けると嬉しく思います。
たがしゅう
プロフィール
Author:たがしゅう
本名:田頭秀悟(たがしら しゅうご)
オンライン診療医です。
漢方好きでもともとは脳神経内科が専門です。
今は何でも診る医者として活動しています。
糖質制限で10か月で30㎏の減量に成功しました。
糖質制限を通じて世界の見え方が変わりました。
今「自分で考える力」が強く求められています。
私にできることを少しずつでも進めていきたいと思います。
※当ブログ内で紹介する症例は事実を元にしたフィクションです。
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コメント
マスクが当たり前になったら
Re: マスクが当たり前になったら
コメント頂き有難うございます。
大丈夫です、コメントになっております(^-^)
> マスクが無意味であるとわかっていても何故マスクをし続けるのでしょうか
> 本心はどうなのかなとも思ったりしますけどきっとそんなに考えたりはしてないのではないのかなと
この辺りがわからないまま、それでも社会とうまくやっていかないといけないという構造が今の状況を生んでいる側面もありますよね。
相手に「本当のところどう思っているの?」と聞くこともできるけれど、そこで発言されることが本音であるとも限らないし、言葉は関係の中でいくらでも変わりうるので、究極的にはどうやっても相手の心はわからない、というか自分でさえ自分の心はわからないということになります。
だからどれだけ時間をかけてもわからないのであれば、考えるだけ無駄、というか考えるのは面倒くさい。だったら多数派(その場の空気)に従っておこう、というのが多くの人が下している決断なのかもしれないとも感じます。
一方で考えれば考えるほど迷宮入りするようでもあるこのマスク問題、ある意味でこの社会の変わらない構造を受け入れながら、「快」、すなわち自分にとって居心地の良い世界を目指して人生の決断を繰り返し続けるしかないのかもしれません。今の私にとって「快」は「今の状況ってやっぱりおかしいよね?」と社会に訴え続けることの先にあるように感じられるので、とりあえずはこれを続けていきたいと思っています。
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