「病気」という名の戦争をなくすためには

2022/11/10 17:40:00 | オープンダイアローグ | コメント:0件

「ポリヴェーガル理論」というのを勉強している途中、はっとする表現に遭遇しました。



「ポリヴェーガル理論」を読む -からだ・こころ・社会-
単行本(ソフトカバー) – 2019/6/3
津田 真人 (著)


とにかく内容の濃いすごい本なので、「ポリヴェーガル理論」そのものの感想もいずれ別の記事で紹介したいと思いますが、

今回はこの本の中で書かれていた「愛なき戦争は存在しえない」という言葉から思考を深めてみようと思います。

「なぜ戦争は起こるのか」「どうしたら戦争を無くすことができるのか」、小学校の道徳の時間でも語られそうな話題があります。

しかしそんな戦争に「愛」があると言われたら、違和感を感じる方も多いかもしれません。「正義」という言葉に置き換えた方がしっくり来るでしょうか。 実は「愛なき戦争は存在し得ない」という言葉は、同書内の「安全な空間」を考える上で、「友/敵の区別」について語られる文脈の中で出てきており、それほど強調されているわけではありません。

ただ私は当ブログで、特にコロナ禍に入ってから、自己と他者の区別をどう捉えるかということが病気の段階に密接に関わっているということ、

そして他者を攻撃し続ける姿勢が、人体にも反映されて、「アレルギー」→「自己免疫疾患」→「サイトカインストーム」の流れで皮肉なことに自己崩壊へと導いてしまう構造にも注目してきました。

なぜ戦争が起こるかについて考える上で、この「自己(友)/他者(敵)の区別」問題は非常に重要です。

なぜならば、目の前にいる相手をどのように捉えるかによって、その後にもたらされる現象が大きく変わりうるからです。

戦争というのは、考えを同一にする「友」と認定される人の集合体と、その集合体の安全を脅かす「敵」と認定される人の集合体との間で起こると思います。

「敵」と認定する相手がいることと、「友(味方)」と認定されることがいることは表裏一体であり、「友」に対してはこれを守ろうとする「愛」の感情が伴います。

それが「愛なき戦争は存在しえない」という言葉の意味です。言われてみれば単純で当たり前の話のようにも思えるかもしれません。

つまり「友/敵の区別」が明確であればあるほど、「友」に対する愛情も深まり、「敵」に対する憎悪は高まるという構造があるように思います。

全てを「友」だと思えれば問題ないかもしれませんが、世界にはあらゆる考えの人が存在しますし、おそらくそれが至難の業で机上の空論であろうことは多くの人にとって想像に難くない話だと思います。

そういえば以前、愛情ホルモンとして有名な「オキシトシン」は、その反面「シャーデンフロイデ」という嫉妬に基づく感情にも関与しているという話をしたこともありました。

特定の相手に対する愛情は、特定の相手に対する嫉妬や憎悪につながるという二面性があり、

特定の相手を愛することの延長線上に戦争があるのだとすれば、「戦争を無くす」という命題にはかなり困難に、というか不可能とさえ感じてしまいます。

残念ながら「戦争を無くすのは無理」という結論になってしまうのでしょうか。


実はこの文章の付近に、もう一つ大事なことが書かれていました。

そこでは「友/敵の区別」が明確な状態のことを「二者関係」と表現されています。ところがもう一つの見方として「三者関係」という見方があるとも書かれているのです。

「三者関係」とはどういう見方なのかを私なりに表現しますと、次のようになります。

”私とあなたは「私たち」でもあり、「私(たち)」と「あなた(たち)」は違うけれどうまくやっていける”

まず、「わたし」の世界から「わたしたち」の世界へ、という視点はアドラー心理学を学んでいた時にも出てきた概念です。

これは「2人称の1人称化」とも言えるし、「1人称と2人称の境界をあいまいにする」とも言える考え方だと思います。

恋人やこどもができた時など、自分以外に自分並みあるいは自分以上に大事なものができた時に理解できてくる考えではないかと思います。

ただそれだけだと、「友」を作るプロセスそのものであり、突き詰めれば戦争につながるのではないかと思われるかもしれませんが、「三者関係」のもう一つの要素に注目してみます。

つまり「わたし」と「あなた」は違うという前提に立ち、その上でなんとかうまくやっていくという観点です。まさに私が
今オープンダイアローグで取り組み続けている発想です。

つまり「1人称とも2人称ともつかないわたしたちがいる一方で、私や私たちにとって違いの激しい3人称的な存在もいる」と。

「わたしたち」としてうまくやっていける1人称と2人称の間でも違いがあるし、1人称と2人称があって「わたしたち」という認識ができるからこそ、それとは差が大きい存在を3人称的に捉えることができると、

つまり全ての人が違っているという前提に立って、つながったり離れたりしながら何とか破滅しないよう違いに働きかけ続ける関係の取り方、これが「三者関係」なのではないかと私は思うのです。


これ、とてもわかりにくい話だと思います。現時点で私はこれ以上うまく説明することができませんが、

ただ一つ言えることは「三者関係は決して自然発生的には生まれないであろう」ということです。

私たちはいつからか「個人中心主義」を叩き込まれてきました。

自己には責任がある。自己の身体は境界が明確である。大人になったらきちんと自分の考えをもつべき。責任を果たせない個人には罰が下される…。

人種、国籍、母語など、現代社会は確固たる「個」を意識せざるを得ない文化に溢れています。

それぐらい「個」の分離が明確だと、何も考えずに過ごしていればどうしても「友」と「敵」に分かれやすいのです。そう考えるのが簡単だし、わかりやすいからです。

ところがこの「個」という感覚をもっとあいまいに捉えて、世界を「二者関係」ではなく「三者関係」で見つめ直すことができれば、あらゆる現象は変幻自在の可能性を帯びていくことになります。

ある時には「私たち」になれる関係が、別のある時には「離れた私とあなた」になったりもします。

そんな感じだと不安定なので、あなたは「友」、あなたは「敵」と明確に境界を分けた方が安定するにはします。ただそうすると競争、分断、戦争につながってしまいます。

だから「友」か「敵」かの区別を行わずに、すべての人を「友でも敵でもない差のある同種の人達」とでも見て、その差や距離を常に調整し続ける生き方を選ぶことができれば、

それは決して自然発生的には生み出すことのできないもので、慣れないうちは大変かもしれないけれど、

そこに唯一戦争のない世界を目指せる可能性があるのではないかと思います。

自分の身体という世界で当てはめて考えれば、戦争は「病気」です。

「自己」と「他者」の境界をあいまいにする考えは、こうでなければならないという固定的な価値観から解放し、慢性持続性ストレスの発生を予防します

ウイルスは排除すべき敵ではなく、実際に「自己」的な要素を含んでいる遺伝子成分だと心底思うことができれば、

例えば風邪(ウイルス感染症)という小さな戦争が身体の中で起こっている時に、これを敵視するのではなく、

まるで身体という世界の構成員(細胞)に対して仲裁をはかるかのように起こっている攻撃的な現象の中の正の側面に目を向けることができれば、

さっきまで「敵」だと思えた相手が、「熱があれば休む」「食欲が落ちれば食べない」「喉が渇けば水分を摂る」などのメッセージを教えてくれる「味方」のような存在に心底思うことができれば、

病気という戦争は亡くなっていくのではないかと私は思うのです。

この理想を成し遂げるためには人為的な工夫を行い続けることが必要だと思います。



たがしゅう

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