がんは避けられない宿命なんかじゃない

2022/10/15 06:00:00 | がんに関すること | コメント:0件

コロナ話題も相変わらず尽きない昨今ですが、問題の構造は共通しているので、引き続きがんについて考えます。

近藤誠先生が、がん医療の問題を初めて一般の人達に向けて著した「患者よ、がんと闘うな」。



患者よ、がんと闘うな 単行本 – 1996/3/27
近藤 誠 (著)


1996年にこの本が発刊されて以降、近藤先生はブレなずに主張を続けて来られました。

医学界からは異端と揶揄されながらも、専門家との論争にも誠実に応じ、論理的かつ膨大な数の医学論文を読み込んで最新の医学情報も取り入れつつ、それでも本筋が変わることなく、「がんと無駄に戦ってはいけない」という主張を繰り返して来られました。

実に26年もの長い時間、一般の人達の支持も一部得ながら、そのような言論活動を続けてこられました。

その結果、日本のがん医療は変わったと言えるでしょうか。 残念ながら医療者の立場から見て、今のがん医療が昔に比べて良くなったとは私には到底思えません。

勿論、普通にがんを告知する文化が広まった、殺細胞系の抗がん剤だけではなく、分子標的治療薬免疫チェックポイント阻害薬が使えるようになった、など細かいところでは変化はあると言えます。

しかしパターナリズム、すなわち医者が主導権を持って標準治療が半ば強制される状況は変わっておらず、近藤先生が提案された「放置」という選択をさせている人は極めて少数です。

種々の代替医療、サプリメントや漢方薬、アロマテラピー、ホメオパシーなどの標準治療以外の方法を試している人はもっと多いかもしれませんが、そうした治療も発想は「がんと闘う」ものであり、がんが目の前から消すことを目指していると思います。

そう、近藤先生の「がんと闘うな」というメッセージは、26年経った今でも多くの人に届かず、あるいは届いても残念ながら受け入れられることはなく、

今も昔と変わらずに医師に勧められるがままに「がんと闘い続けている人達」がほとんどだろうというのが今のがん医療の実情であろうと思います。

広まらなかったのは近藤先生が言っていたことが根本的に間違っていたからでしょうか。多くの医師はそうだと言うでしょう。

でも私は近藤先生の著作を読み返すにつれ、決してそうではないという想いが強まってきています。

近藤先生の主張は、特にがん検診や標準治療の有害性についてはかなり筋が通っていました。特に上に凸の生存曲線の不自然さを論理的に見抜いた点は見事としか言いようがない離れ業でした。

近藤先生の主張を聞いて共感を覚えた人も多かったはずでしょう。それなのになぜ多くの人に最終的に受け入れられなかった。それはなぜでしょうか。

それはいざ自分は「がん」になった時に、がんはやはり怖いもの、死につながるという意識を拭うことができず、近藤先生の「放置」という選択肢はその状況に希望をもたらさなかったからではないかと私は思います。

私が子供の頃、逸見政孝さんという人気アナウンサーが、ある時胃がんの手術を受けるとテレビで記者会見をし、手術は成功したと言われながら、その後間も無くがんで死亡されるというニュースを聞いた時、非常に衝撃を受けました。

あの当時中学生の私はまだ医学部も目指してないし、医学の知識もわからない状態でしたが、ただただ衝撃を受けたことだけは今でも覚えていますが、

医師となった今は、その術後経過に対しては非常に強い疑問を禁じ得ませんし、近藤先生も逸見さんの件については何度も著書の中で問題のある対応であったと言及されていました。

でも一方で、あの時点で仮に「放置」という選択肢を本人に伝えていたとしても、逸見さんにはたして受け入れられていただろうかとも思います。

なぜならば当時の記者会見の様子を動画で確認できたのですが、逸見さんは明確に「がんと闘う」という意志を持っておられたからです。

そう、「がんと闘うべし」と言う文化の中で、近藤先生の「放置」という選択にまだがんになっていない(見つけられていない)人に対してならまだしも、実際にがんと直面している人に対しては力が足りないのではないかと私には思えるのです。

近藤先生のがんもどき理論は言ってみれば、「がん」を「運命」と捉えているように私には思えます。

「がんは転移しないがんもどきと転移する本物のがんの2種類に分かれ、両者は細胞が生まれた時点で運命付けられている。転移しないのであれば手術する意味はないし、転移するのであれば手術しても抗がん剤で叩いても宿命するだけ。だから放置が一番いい」というのですから。

つまり「放置」とは「諦めてジタバタするな」というメッセージだとも言えるわけで、そんなメッセージは「がんと闘う」ことが当たり前の文化の中で、よほど強い意志の人でない限りとても受け入れられないでしょう。

だからがん医療を変えるためには、治療の選択肢をどうするかを考えることよりも、「がんと闘うべし」という文化そのものを変える必要があると思っています。

私は近藤先生の主張の大部分は筋が通っていると感じていますが、がんを運命のように扱うところについては賛同できません。

私の考えではがんは自分自身の表現方法の一つ、言い換えれば過剰適応した自分です。

なぜならば、もしも本当に運命であれば何をやってもがんの大勢は変わらないはずですが、現実には糖質制限ストレスマネジメントで少なからずがんを縮小・消失させる例が観察されています。

そして糖質摂取と慢性持続性ストレスは糖代謝駆動を介して身体を過剰適応に向かわせる要素ですし、がん細胞のミトコンドリアが壊れて糖代謝過剰駆動状態になっている事実とも矛盾しません。

そして何より「がんは怖い」「がんは早期に切除しないと死ぬ」などの「がんと闘う」ことへとつなげるイメージがあることが、「がんと闘わない」選択に対して不安・恐怖という慢性持続性ストレスを与え続け、そのこと自体ががん促進的に働いてしまいます。

だから「がん」を闘う対象とみなさず、自分自身の表現型と見なせるかどうかが重要になってくると私は思うのです。

とはいえ、そんな私の理論を主張すれば、近藤先生が成し遂げられなかった、がん医療の変革を成し遂げられるような甘い考えは持っておりません。近藤先生は私なんかよりはるかに優秀な頭脳を持っておられることは著作を読んでみればわかります。その近藤先生が26年かけて無理だったことを私が成し遂げられるとは到底思えません。

でも皆さん、ちょっと想像してみて下さい。

もしも私のような考えの人が増えて、自分ががんになってもそのメッセージを受け止めて無理をしないように共存するという人が一人、二人と増えてきて、

そしてそういう人が人生を満喫して、最終的に安らかに亡くなっていくという結果を積み重ね、次第に同じような人生の選択を選ぶ人が増えてきて、がんになっても医師からの治療を受けないという人が多数派の世の中になっていけばどうなるか。

そうなって初めて、現代の標準治療を中心としたがん医療は自分達のやり方を見直すことになるのではないでしょうか。

私は近藤誠先生の思考を、あるいは安保徹先生の思考を発展させ、そんな風に自分の人生を生きられる人であふれる世界への布石になりたいと考えています。

とは言え、現時点では誰もがそんなふうに「がんは自分自身の表現型」だなどと思えなくても無理はありませんし、やっぱり「がんとは闘うべし」と考える人、あるいはその考えの下で既に標準治療を受けているという人、

そういう人達の気持ちは否定しませんし、色々な考えはあって然るべきなので、自分の考えが絶対的に正しいというつもりは毛頭ありません。

そんな私だって糖質量はともかく、無意識のストレスをコントロールしきれずにがんを育てきってしまう可能性だってありますし。

「がんと闘うべし」と考えている人達は、私の選択肢を見ても、やはり標準治療に頼りたいと思うかもしれませんが、それを私は止めません。ただその場合も臓器欠損や全細胞攻撃をもたらす標準治療のことを必ずしも最善だとは思わないでほしいですが、

少なくとも異なる選択肢が共存する世界を目指して、私の声は上げ続けていきたいと思います。

「がんとは闘わないし運命なんかでもない。なぜならばがんとは自分自身で、自分の過剰適応を教えてくれている存在だから」と。


たがしゅう
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