原因に対処せず関係を変える

2022/05/26 16:20:00 | オープンダイアローグ | コメント:4件

前回記事の最後に、大前提を間違っていたのは感染症学だけではなく、

医学自体が大前提を間違っていたのかもしれないというようなコメントをさせて頂きました。

それについて考える熱量が多くなっている今のうちに、この流れでその点について書き切ってみようと思います。

医学全体の大前提の間違い、これは西洋医学だけでなく東洋医学にも若干当てはまる過ちであるようにも思うのですが、それは「因果論」で病気を捉えているという所ではないかと思うのです。

つまり「確固たる原因があるからこそ病気が引き起こされているのであり、それが是正されれば病気は治る」という考え方に誤りがあるということです。

…医学は病気の原因を追求し続けることにより発展を遂げてきました。「何が間違っているというのか」と思われるかもしれません。

確かに単一の遺伝子異常によって引き起こされている病気に対し、その遺伝子異常を是正する遺伝子治療を行うことで症状が改善されるというように、因果論が成立しているようにしか思えない状況は確かにあります。しかしそのように因果論が成立するのはむしろレアケースです。

だから、より正確に表現するのであれば「ほとんどの病気を因果論で考えることには無理がある」ということであり、その結果として9割の病気では正確な病気の原因を同定できていないということになっているのではないかと私は考えています。 そのように私が考える一つの大きな根拠となっていることに、原因不明の「統合失調症」という病気が、原因に対するアプローチを全く行うことなく、はたから見れば治ったようにしか思えない状態へもたらしたというフィンランドにおけるオープンダイアローグの経験があります。

原因が全くわかっていなくとも、問題となっていく症状が治まっていく可能性や希望がそこにはあると思っています。

細菌やウイルスなどの「病原体」に原因があるという前提で成立してきたように思える感染症学でさえ、病原体との因果関係で考えることには無理があるということは当ブログで何度も指摘しました。

東洋医学でさえ、単一の原因を求める姿勢はないものの、「七情」「六邪」「不内外因」といって、怒・喜・思・憂・悲・恐・驚の七つの感情が内側から起こる病気の原因(内因)で、風邪・寒邪・暑邪・湿邪・燥邪・火邪(熱邪)といった6つの気候変化(外因)、そしてそれ以外の不適当な飲食・過労・外傷などに病気の原因があるという立場をとっています。

しかしオープンダイアローグの貴重な経験を踏まえて、「原因」があって「病気」があるという考え方、「原因」に対処すれば「病気」は解決するという考え方を一回手放してみましょう。

つまり「原因はわからないまま病気(症状)を解決する」という方向で考えてみるのです。そうすると、まず原因を探そうとする思考から解放され、原因が見つからない状態が長く続く状況でかかる慢性持続性ストレスから解放されます。

しかし、それだけだと単なる現実逃避です。病気(症状)が解決されないと意味がありません。

そこで全ての病気は過剰適応と消耗疲弊の組み合わせによって表現されるという私の仮説を思い出してもらえればと思います。

原因はともかく、病気とは何らかのシステムが過剰に使われていたり、過剰に使われすぎた末に疲れ込んでしまった状態の表れであるという前提に立つのです。

原因はわからないけれど、とにかくシステムが過剰に酷使されている状況にある、だったらば原因はわからないままでもいいから、システムを酷使させないで済むような新たな関係性を築くことができないかと考えてみるのです。

ここで原因がわからないままシステムを修復するといった時に、いわゆる「対症療法」のことが当てはまってしまうように思いますが、

確かにそれも原因がわからない状態での対処方法ではあるのですが、根本原因は残ったままという発想の治療法だと思います。

そうではなくて、ここでのポイントは、原因がわからないまま根治を目指すために「関係」に注目するということです。

オープンダイアローグの事例を思い返してみます。オープンダイアローグで回復したという「統合失調症」の患者さんはおそらくではありますが、オープンダイアローグと出会う前は「統合失調症」という病気の枠組みの中で終わりのないトンネルの中にいるような心境だったのではないかと想像します。

ひょっとしたら幻覚や幻聴などと表現される自分に聞こえてくる声も、自分を悩み苦しませる症状であり一刻も早く取り去りたい苦痛の塊だったかもしれません。

ところが、オープンダイアローグにふれることによって、まず「病人」としてではなく「一人の対等な立場にある人間」として接され、聞こえてくる声も病気の「症状」ではなく「個人の貴重な経験」として受け止められる経験をしたと思います。

こういう経験を1回だけしたからと言って、それで何かが変わるということはないかもしれませんが。来る日も来る日もそのように対等な立場で、「病気」や「症状」という固定的な枠組みにとらわれずに個人の経験として扱われ、対話が繰り広げられていくことで、

その「統合失調症」というレッテルを貼られたその人の中で、今までの世界の見え方と違う見え方が実感を持てる形で、しかもその人にとって非常に温かい形で現れるということを経験されたかもしれません。

そうすると、不思議なことにあれだけ自分を悩ませていた聞こえてくる声も温かくなり、いつの間にかオープンダイアローグでの対話を他の参加者と同じように楽しめるようになったのだとすればどうでしょうか。

これは「原因」が対処されたのではなく、「関係」が変わったという風に見ることができるのではないでしょうか。

例えば、「病人」という受け止め方が「無理をしている自分」へ変わった、「治療される対象」から「支えを必要としている状況」に変わった「症状」は消えるべきだという考えからあってもよくて「何かを教えてくれる存在」だという考えに変わった「闘病」から「共存」に変わった、というような関係の変化が、実際の身体に起こること自体にも変化をもたらしたということなのではないかと思うのです。

ということは、このことは「統合失調症」のみならず、心と身体はつながっているのだから、

しかも、全ての病気は過剰適応と消耗疲弊の組み合わせで表現されるのだから、他の原因不明の病気にも適応できるはずです。

例えば原因不明の病気の例として、「関節リウマチ」という病気のことを考えてみます。

「関節リウマチ」という病気は、一般的には原因不明ですが、自己の免疫がどういうわけか主に手足の関節を攻撃し、これにより関節痛、関節の変形が生じる炎症性自己免疫疾患だとされています。

原因がわからないまでも「炎症」が主に問題となっている病気だということはわかっているので、西洋医学的な治療としては炎症を抑える抗炎症薬という薬が使われたり、過剰な免疫の働きを抑える免疫抑制薬という薬が使われたりします。

しかしこれらを使っても根本的に自己免疫の異常をもたらしている原因に対処できているわけではないので、延々とそうした薬を飲み続ける(あるいは注射を打ち続ける)生活が基本的には続くことになるというのがリウマチ診療の実情ではないかと思います。

一方で「炎症」、特に長々と続く「慢性炎症」というのは、身体にストレスがかかり続けていることを反映する過剰適応の状態を示しています。

なぜならば本来であれば、「炎症」は異物を除去するために必要なプロセスであり、「炎症」が起こったらそれが収まるように速やかにステロイドを中心とした抗ストレスシステムが働くはずのところが、原因はわからないけれどストレスがかかり続けていることによって抗ストレスシステムが疲弊してしまって「炎症」がダラダラと起こり続けてしまっている状況を想定することができるからです。

その原因をおそらく一つに絞ることはできないでしょう。「リウマチは治らない」と医者から言われていることかもしれないし、食事制限があって食事を自由に楽しめないことかもしれないし、家族の介護で自分が倒れるわけにはいかないと思っていることかもしれないし、そもそもの関節の痛みを消え去るべき悪の結晶のように思えていることかもしれません。

それらのヒトやモノや概念に対する固定的な関係性がストレスを与え続けているのだとすれば、それ以外の捉え方もあると実感を持って感じることができて、しかもそれを温かいと感じられる別の関係で受け止めることができれば

「統合失調症」を回復に導いたその人と同様に、原因がわからないまま「関節リウマチ」を回復に導くことも決して不可能ではないのではないでしょうか。

貧困や介護という具体的な問題は考え方を変えるだけではどうしようもないところもあるかもしれませんが、それにしても社会とのつながり方を変えることで受けられる支援もあるかもしれませんし、

栄養や情報などにおいて「欠乏」が問題に関わっているのだとすれば、それらの「補充」にも人とのつながり、すなわち「関係」が関わってきます。

そのような新たな「関係」をもたらす鍵は、オープンダイアローグにヒントをもらう「対話」の中にあるのではないかと、私は思っています。正解を前提としない既存の「関係」に縛られない意見を聞く機会が増えるからです。

少なくとも固定的な医学知識に基づく常識的な価値観でしか見られない現代医療の中では期待できないことだと思っています。

治し難い「病気」に苦しんでいる人がいれば、何度も何度も「オープンダイアローグ(対話)」を経験してほしいと私は思っています。

これは決して私一人でできることではありません。

一人でも多くの人に「対話」の輪に参加してもらうことを願っています。


たがしゅう
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コメント

植物における病気の発症から何か見えないか

2022/05/28(土) 06:08:18 | URL | だいきち #-
今回の記事を拝見して私が真先に感じたこと。
たがしゅう先生は農業に関心がお有りで、植物の病気の視点から「生き物としての病気の発症」を読み解いていただけたら、今回の議題の解消に近づく気がします。

私は昨年農家に転身しました。
まず植物の病気に悩まされました。
ビニールハウスできゅうりを栽培していますが、きゅうりの病気には「つる枯病、褐斑病、うどんこ病」等多数ありますが、共通してその原因は「菌や菌糸やウィルス」と一般に言われます。
したがって、きゅうり農家は必ず「殺菌剤の噴霧」「剪定ハサミの消毒」を徹底するのです。つまり、原因を外側に見出しているわけです。
しかし不思議なことに、「これらを徹底しても病気を発症させる農家」と、「徹底しなくても発症を防ぐ農家」の両極がいるのです。
両極の違いを私なりに分析すると、後者の方は「土作り」に拘りをもっています。
詳細は割愛しますが、「土壌微生物活性」が健全育成のポイントだと後者は語ります。つまり「地上部」では無くて「地下部」にあると力説してくれました。ヒトでは腸内環境にあたるのでしょうか?それとももっと広い次元にあたるのか?「ヒトの思考」にあたるのか?
等々思い巡らせた次第です。

先生如何でしょうか?
私自身、この領域は未だ探究できていませんが、植物もヒトも「好体調の元は自身の内側にある」のは間違いないようです。

2022/05/28(土) 09:25:57 | URL | neko #-
昨日、たまたま「運転者 未来を変える過去からの使者」という本を読んだのですが、「人生、不機嫌でいると何事も上手くいかないし、損得勘定だけで捉えていると本当に自分がしたいことが分からない。最悪だと思える事柄も人生の転換点と捉えればいい」といった内容でした。その気づきから主人公の人生や人間関係は好転していきます。

>「リウマチは治らない」と医者から言われていることかもしれないし、食事制限があって。。。

この部分って全てストレスでネガティブなことですよね。その捉え方をもっと気楽に上手くし、付き合えればストレスが軽減されて、結果的に病気も人生も改善したりすることもあるのでは、と思いました。

統合失調症も同じで、人と比較して自信がないという状態から明るい気持ちに脱せられれば改善すると思うのですが(少なくとも私の姉を見ているとそう思います)。

だいきちさんの植物のお話もとても興味深いです。土や自然環境、腸内環境、心の持ちよう、物事の捉え方、人生観など全てか関わってくる話なのかな、と感じました。

Re: 植物における病気の発症から何か見えないか

2022/06/02(木) 09:33:46 | URL | たがしゅう #Kbxb6NTI
だいきち さん

 コメント頂き有難うございます。

> 植物の病気に悩まされました。
> ビニールハウスできゅうりを栽培していますが、きゅうりの病気には「つる枯病、褐斑病、うどんこ病」等多数ありますが、共通してその原因は「菌や菌糸やウィルス」と一般に言われます。
> したがって、きゅうり農家は必ず「殺菌剤の噴霧」「剪定ハサミの消毒」を徹底するのです。つまり、原因を外側に見出しているわけです。
> しかし不思議なことに、「これらを徹底しても病気を発症させる農家」と、「徹底しなくても発症を防ぐ農家」の両極がいるのです。
> 両極の違いを私なりに分析すると、後者の方は「土作り」に拘りをもっています。
> 詳細は割愛しますが、「土壌微生物活性」が健全育成のポイントだと後者は語ります。つまり「地上部」では無くて「地下部」にあると力説してくれました。ヒトでは腸内環境にあたるのでしょうか?それとももっと広い次元にあたるのか?「ヒトの思考」にあたるのか?


  非常に重要な視点をご提示頂いていると感じます。

 まず何が重要と思うかと言いますと、今のコロナ禍でも専門家主導の下、「ウイルスが病気の原因だ」という従来の常識的価値観に基づいて施された、マスク装着、手洗い・消毒、ソーシャルディスタンス確保、ワクチン接種といった感染対策がことごとくうまくいっていないように少なくとも私には思えるわけですが、それと同じ状況が植物の世界でも認められているという点です。つまり「病気の原因を外部に求めた対策に効果がない」という点についての検証結果には再現性があるということです。
 これを踏まえれば、少なくとも病気の原因を「外部だけに求める」およびそのことにあまりにも偏りすぎた対策には問題がある、見直しが必要であるという考えが立ち上がってくるのではないかと思います。

 もう一つ重要なこととして、土壌づくりが病気の発症を抑制するというアプローチが現実をうまく説明できるのだとすれば、植物自身と土壌は一心同体のように考えることができるということです。つまりこれは「植物」という境界画定的な存在はそれ自体で健康が完結しているのではなく、実は外部の環境と密接な関わりがあるということです。
 この発想は「外部に原因を求めると無理がある」という話と一見矛盾するようですが、私はそうではないと思っています。重要なことは内部と外部を区別する境界が実は意外とあいまいであるという点です。つまりそう考えると病気の原因を内部に求めて、それを整えようとするアプローチは実は今私たちが外部だと思っているものを整えることにもつながるということであり、この場合の外部はもはや内部の延長的存在だということです。
 原因を外部だけに求めるとその「外部の原因」を殲滅しようとしてしまう(実際世の中はそのように推奨されてしまっている)わけですが、外部が内部の延長線上にあって、内部を整えようと考えるのであれば、同じ「外部に原因」と考える場合でも、外部を殲滅するのではなく、外部「も」整えるという発想へとつながると思います。その具体的なアプローチの一つが卓見のある農家の方々が取り組む「土壌づくり」なのではないかと私は思います。

 このコメントを聞いて、私に無農薬・無肥料栽培での農業の方法を教えてくれた石井ピュアファームの石井吉彦先生がおっしゃっていた話を思い出しました。土壌づくりに重要とされている3種の菌があるそうで(名前を忘れてしまいました汗)、それらの菌を育てようとそれぞれの菌に有効な肥料を与えようとすれば、まるでジャンケンでの3すくみ関係のようにあっちが立てば、こっちが立たないという形でどのように肥料を入れてもバランスが悪くなり、試行錯誤の末に一番バランスがいいのは「肥料を入れないことだ」と気づいたという話でした。

 このことを人間に当てはめればどうなるでしょうか。人間において外部と思えることも含めた内部を整えられる一番バランスの良い状態は「何もしないこと」、人間が何かをしようと思わなかった最初期のデフォルト状態、すなわち「自然」ということになると思います。精神的ストレスで言えば「何も考えないこと(瞑想状態)」でしょうし、腸内環境で言えば「人為的な食物や薬を摂取していない状態(断食状態)になるかもしれません。でも生きることはリスクにさらされることなので、何も考えずに何も食べずに生きていくことはできません。そこをどう考えるかですが、少なくとも基本がそこにあると思えれば、道に迷った時に助けとなってくれる可能性があるように私には思えます。

Re: タイトルなし

2022/06/02(木) 09:57:35 | URL | たがしゅう #P0DVu1cA
neko さん

 コメント頂き有難うございます。

 私はリウマチに限らず、何らかの病気や症状に苦しんでいる人は、少なくともその病気や症状を抹殺すべき敵のような存在と捉えるのではなく、今の自分へ何かしらのメッセージを送っていると捉えることがまず病気や症状を整える第一歩だと思っています。

 「痛み」が出るのであれば、それはその痛みが出る場所を知らず知らずに酷使していたことを知らせるメッセージですし、もっと積極的に休息を与えて生活の仕方そのものを変えるように促す応援行為なのかもしれません。しかし「私を苦しめる嫌なもの」のように受け止め続けている限り、その精神的ストレスが火に油を注ぎ、症状はいつまで経っても和らぐことがないという皮肉な状況になってしまいます。

 それは私がその立場じゃないからわからないのだと思われるかもしれません。それはその通りだと思います。ただ私はもしも自分がその立場になった時にそんな風に考えて自分の生活を見直したいと考えているということです。そう考えることで少なくとも心の安寧は保たれるように私には思えます。

 それでも従来の医学的価値観が文化レベルで染み付いてしまっているために、どうしても「先生この苦しい症状を何とかして下さい」と思い続けてしまう患者さんがたくさんいてしまうであろうことは致し方ないと思います。私たち人類が集団で積み上げてきてしまった歪みを少しずつでもほぐしつつ、「病気を敵」だと思うことで病気を拗らせ続けている(と私には思える)患者さんは、「病気を敵」だという発想からは逃れられない以上は、少なくとも私も医師としてその場に一緒に居続けるより他にないと思っています。いつか「病気は敵」以外の考えを受け入れてもらえる日がくるかもしれないことを願って。

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