なぜ「ワクチンは有効」なのにワクチンは効いていないのか

2022/03/17 15:40:00 | ワクチン熟考 | コメント:0件

「ロックダウンしても感染者数が減らないのは、ウイルスの感染力が強いからだ」という意見があります。

確かにそういう見方はできると思います。というよりも世界の大多数の人達はずっとその見方で世の中を眺めてきていると思います。

でも本当にそうでしょうか。ウイルスの感染力は何によって決まるのでしょうか。仮に感染力が何かによって決められるのだとしても、都市封鎖まで行う国もあるのに効果が出ていなさ過ぎに思えます。

なぜ物理的に遮断しているのに感染症を発症するのか」「逆にたいして感染対策ができていなくともなぜ自然に収束していくのか」こうした現実を目の当たりにすると「ウイルスの感染力が強いから」ということでは説明がつかないように思います。

ここで社会現象を説明するための理屈は決して一つではないということを思い直す必要があります。社会で起こっている出来事が既存の理論で説明できない場合は、既存のものの見方自体を抜本的に見直す必要があると思うのです。

こうした社会への見方を柔軟に捉え直すことで、既存の見方での行き詰まりを打破する可能性をもたらす社会構成主義という考え方があります。最近私はこの「社会構成主義」に興味津々です。

と言っても言葉で説明するのがとても難しい概念なので、今回は一つこのコロナ関連でワクチンにまつわる矛盾を取り上げて、多くの人がこうだと固定的に捉えている考え方を再構成するという実践で「社会構成主義」の可能性を、あくまでも今私が理解している範囲で表現してみたいと思います。 まず多くの人が持っている既存の社会の見方での現状の捉え方は、「有効なワクチンが開発され多くの人が接種したけれど、ウイルスが変異し感染力が強まったせいでコロナの感染拡大が治らない」ではないかと思います。

この「有効なワクチン」と捉えられる理由については、多くの感染症専門家が支持するワクチン関連論文が「有効率94-95%」をはじめとする輝かしいデータを示していることが大きいのではないかと思います。

最近でも「mRNAワクチンのブースター接種が、オミクロン株でのCOVID-19関連の入院および死亡に対する高い保護効果をもたらす」などという医学論文も出ていたりしています。

ここではこの論文の解釈には異なるいくつかの捉え方が存在しているということに注目します。

まず専門家を中心におそらく多くの人が抱いている解釈は「信頼度の高い十分に検証された方法でワクチンの有効性が立証されている」というものです。「社会構成主義」ではこの解釈自体が陰謀であるとか、何らかの形で偽っていると捉える訳ではありません。多くの人がそのように解釈している同じ現象の捉え方を変えてみてみるということです。

そうすると私がこの「ワクチン有効率94-95%」という医学論文をどのように解釈しているのかと言いますと、「PCR検査によって感染者だと認定される検査陽性者が、約2ヶ月という限定された観察期間の中で、ワクチン接種者の集団とワクチン非接種者の集団を比べると前者の方がごくわずかに低かった」としています。

つまりざっくりと言うと、専門家集団が「非常に有益な医学論文」という捉え方をしているのに対して、私は「現実における微々たる変化を捉えている」という捉え方をしているということです。

同じ事象を見てここまで捉え方が変わってくること自体興味深いかもしれませんが、ここではどちらが正しいという議論をしたいわけではありません。言いたいのは「真偽はともかく少なくとも一つの現象を見ても見方によってはそんな風に違う捉え方ができますよね」ということです。

またPCR検査についても専門家集団は「ウイルス感染症を診断するための確定的な検査」だと捉えているのに対し、私の捉え方は「症状との因果関係を証明できない特定の遺伝子断片を鋭敏に検出する検査」だと捉えています。これまた真逆とも言っていい解釈です。

それゆえ、「有効率94-95%」の医学論文についても、感染者の割合と称されている数値自体がPCR検査によって導かれた数値なので、果たして本当の意味で感染者を表しているかと言われたら疑問ですし、実際にはそのうちのどのくらいの数が真の感染者なのかと問われたらこれは全くわからないわけです。

ただPCR検査陽性者数と真の感染者の数がずれているにしても、ワクチン接種者集団とワクチン非接種者集団で同じPCR検査を用いている以上はそのずれ方はほぼ同じと考えるのが妥当だと思います。

従って不確実性はあるにしても、その影響力は非常に少ない(0.81%を0.04%に減らす程度のインパクト)にしても、ワクチン接種者の方で感染の可能性がある対象者の数を減らすことの蓋然性はあるように思います。

この蓋然性があるからこそ、専門家集団の人達にとっての「ワクチンは有効」という捉え方につながっているように私は思うわけですが、ここに関しては私は次のような捉え方があると思っています。

ワクチン接種というのは注射という方法で人為的に異物と接触させる行為です。これによってほぼ必発で注射部位を中心に炎症反応が惹起されるという点はおそらく多くの人が異論のないところではないかと思われます。

この炎症反応というのは特定の物質に対する異物除去反応であるわけですが、ここで一つ「ウイルス干渉」という現象について私が過去に行った考察を思い出します。

「ウイルス干渉」というのは「一つのウイルスに感染している時には何らかの理由で別のウイルスが感染できないようになる」という現象のことです。

それが一般的な「ウイルス干渉」の解釈なのですが、私の「ウイルス干渉」に対する捉え方はこうです。「一つの異物を排除している際中には別の異物を排除することはできない」です。

要するにウイルスが重複感染できない要因を「ウイルス側」に求めているか、「宿主側」に求めているかの違いです。同じ現象を見ていてもここでも捉え方が全然違います。

「ウイルス干渉」の要因を「ウイルス側」に求める従来型の見方では、なぜそのような原因が起こるかについて諸説はあるものの決定的な理由は明らかにはなっていません。それに対して私の「宿主側」に要因を求める見方では、異物除去システムが特定の物質を効率的な排除する仕組みであることを考えれば、ある異物を排除している際中は、ついでに流れで別の異物が排除されることはあったとしても、別の異物を効率的に排除することは困難だということは必然的であるように感じられます。

その捉え方を採用した状態でなぜワクチン接種者でPCR検査による見込み感染者数が減るのかについては次のように考えることができます。

観察期間は約8週間(2ヶ月)です。ワクチン接種という確実な異物接触を行った集団ではこの異物を完全に除去するまでに平均的に2週間〜4週間程度の時間がかかります。従って別のウイルスに対して異物除去システムを駆動できる正味の期間は4〜6週間です。

それに対してワクチン非接種者集団はワクチン接種での異物接触がないわけなので、8週の観察期間をフルに使って別のウイルスとの感染機会を確保することができます。

つまりワクチン接種集団とワクチン非接種集団の別のウイルスに対する感染者率の比較は、実質的には4〜6週間 vs 8週間の比較だということです。ここでコロナウイルスではなく「別のウイルス」という表現にしているのは、PCR検査で確定される有症状者の症状の原因となっている異物は必ずしもコロナウイルスだとは限らないからです。

なぜならばコロナPCR検査はコロナウイルスによって症状が引き起こされているかどうかを証明できず、ひょっとしたら別のウイルス、場合によっては花粉などのウイルスでさえない別の異物によって引き起こされた炎症反応の側にあった死んだコロナウイルスの断片を拾っているだけの可能性が否定できないからです。

ちなみに前述のブースター接種の有効性を示す最新の医学論文にも全く同じ構造が当てはまると考えることができます。

ともあれそのように考えると、「ワクチンが有効」という捉え方は大きな誤解をしてしまっている可能性が出てきます。

何より「ワクチンが有効」であるにしては、現実の感染者数が世界中で減っていなさすぎです。専門家はこれを変異株のせいだと言いますが、そもそも季節変動によって発生率が変化する咽頭中心の炎症反応をPCR検査で見込みも含めて過剰に拾いつつ、過剰にラベリングしていると考えれば、ここまでワクチンの有効性が現実に反映されない理由は無理なく説明できるように思うのです。

でも矛盾にこだわることなく、従来の考え方が正しいという前提を疑うことができなければ、「ワクチンが有効」という医学論文があるけれどワクチンが効いていない現実を「変異株のせいだ」という理由づけでとりあえずの矛盾は解消できてしまいます

しかしワクチンを打った人が一部の人だけであればまだそういう理由づけで納得することもできたかもしれません。けれども今回ばかりはワクチンを打ったのはほぼ世界中の人達です。ワクチンで感染が収束したと言い切れる国はただの一つも存在していません。これは流石に「ワクチンは有効」という前提を疑ってもいいタイミングではないかと私は考えるわけです。

でも「ワクチンが効かないのは変異株のせいだ」という捉え方が矛盾を解消できてしまう以上、この捉え方で世界を見ることも妥当であるということもできると思います。世界の見方が違いで、見方によって世界は再構築できるというのが「社会構成主義」の重要なところではないかと思っています。

どちらが正しいということに結論が付けられないのであれば、あとは自分がどの捉え方を採用し、そのように捉えた世界の中で異なる価値観の人達とどのように付き合っていくかということが専らのテーマになってきます。ですが残念ながら「社会構成主義」はこの疑問に対して特定の答えを与えてくれるわけではありません。

というよりも、時間の流れと共に変わりゆく周囲の世界のあらゆるものとの関係の中で自分にとっての答えと思える行動も常に移ろい変化していくようなイメージです。「これが答えだ」と決めた時点で常に変化していく適応行動から離れてしまうようなイメージです。だから私は思考に柔軟性を持たせながら、特定の考えが正しいという思い込みをいつでも棄却できる勇気を保ちつつ、自分にとってよいと思えることを試行錯誤を繰り返しながら世界に働きかけ続けていくしかないのかもしれません。

私の捉え方の中では残念ながら「ワクチンは有効」ではありません。ということは今までのワクチンについても私の捉え方の中で全てを見直していく必要があり、現時点での思考としてはどのワクチンにも医学論文で示されるほどの確定的な有効性はなく、あるとすれば人為的な異物接触を乗り越えた先に特定の物質に対する獲得免疫的な異物除去システムではなく、全般的に異物を緩くより分けて安定的な環境を保つ自然免疫的な異物除去システムが鍛えられるかどうかです。

ただそのシステム鍛錬のための異物との接触はワクチン接種である必然性はないというのが現時点での私の捉え方です。

だからこれから私はワクチンを打ちませんし、誰かがワクチンを打つことをすすめません。それはこどもに限りません。私は誰にもワクチンを勧めません。基礎疾患がある人にも勧めません。私はそういう考えの人間です。

少し前まではワクチンを打ちたいと願う人の希望は支えたいと思っていましたが、今はそれさえも気が進みません。けれどもワクチンを打ちたいと考える人の気持ちは尊重し、ワクチンを打った後に症状に悩まされるような人にも私が提供できるリソースで支えたいとは思っています。

社会とは異なる考えの人達の集まりの中で構成されていると思います。皆が同じ考えである方がむしろ気持ちが悪いのであって、もともとそういうものなのです。

うろたえることなく、この不確実性の中で緊張感を保ちながら場にい続けようと思います。


たがしゅう
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