暴力のない世界に向けての希望
2022/03/10 13:30:00 |
オープンダイアローグ |
コメント:11件
今日は「戦争」について「対話」の視点から考えてみます。
「戦争」は「暴力」の一種です。「暴力」は「対話」を強制中断する行為です。
もしも「対話」の場で、「暴力」が発生しそうな場面に遭遇したら、私はおそらく「暴力」を振るわないでもらうための投げかけをし続けると思います。
「私の発言(ファシリテーション)があなたの尊厳を傷つけてしまったのだとすれば、心から謝りたいと思います。申し訳ございません。私の発言にはあなたを傷つけようと意図はありませんでしたが、結果的にあなたを傷つけるかもしれないことに気づくことができませんでした。この気づきを活かして行動を見直しますので、どうか暴力だけは振るわないでもらえないでしょうか。」
しかしその甲斐もなく「暴力」が発生してしまった場合、私はとにかくその場にいる全ての人に逃げることを勧めます。 ただし、永遠に逃げ続けることはしません。一旦逃げて身の安全が確保されたと感じた時点で再び「対話」を再開します。
「私はあなたから暴力を受けたと感じたので、一旦はあなたから逃げる決断をしました。けれどできればあなたとの「対話」は続けたいと思っています。もしも暴力を振るわないとあなたが約束してくれるのであれば、私はあなたと再び「対話」したいと思います。」
「暴力」を振るうという選択をとる人は、多くの場合理路整然と考えてその選択をとっているわけではないと考えます。
「暴力」に至るプロセスは、ある意味で思考の行き詰まりで極致状態ではないかと思います。
小さなこども達がしばしば「暴力」を使ってケンカする場面があるのも、言葉をまだうまく習得できていない中で、それでも自分の中に生まれる何とも言えない不快感を解消するための対処行動だという側面があるからではないでしょうか。
しかし中には「冷静」に「暴力」を振るっているように見える場面もあるように思います。それは「大人」の「暴力」の中にあります。「戦争」はその一例だと思います。
その場合も基本的には思考の極地状態だとは思います。ですが「冷静」に見える「暴力」も極地状態に至ったのは一瞬で、その後は様々な要素が関わって、極致的な「暴力」状態を持続させることにつながるように思います。
一つは「自分(達)こそが正義である」という意識です。「◯◯警察」と俗称される正義が暴力的に感じられたという人もおそらく少なくはないでしょう。
「対話」を学べば、まず絶対的な「正義」が存在しないということがわかります。どのような「正義」も立場や価値観の「違い」の一つにしか過ぎないのです。ここがわかれば自分が誰かに「暴力」を振るうリスクが格段に下がります。
もう一つは「一度振り上げた拳は下ろせない」という感覚です。いわゆる「プライド」の問題です。
「プライド」を大きく傷つけられた時、人は瞬間的に思考の極地状態へと陥るリスクが高まります。えもいわれぬ急激な不快感を解消しようと「暴力」を選ぶ選択肢が人にはあるのです。
「暴力」に至らせるプロセスが瞬間沸騰であったとしても、その原因が「プライド」に依拠している場合、この「プライド」が大事にされない限り問題は長期化しうると思います。
だからこそ「対話」では「相手への尊重」を忘れないことが何より重要な要素として挙げられていると理解することができます。
一方、もう一度こどものケンカに立ち返った時、こちらの「暴力」は一般的にあまり長続きしません。でも「プライド」が傷つけられていると長続きする場合があると思います。
逆にどういう場合にこどもは「暴力」状態から仲直りするかといえば、一つはどちらかが「ごめんね」と言った場合があるでしょう。
もう一つは、瞬間的な極地状態に至ったことをそもそも忘れてしまっている場合です。そもそも「暴力」に至るきっかけに言語化できるような明確な要因があるわけでもないが故に、時間が経つことで当事者間で忘れられてしまい何事もなかったかのように再び関係を築いているような場合もあると思います。
でも「大人」の「暴力」が生まれる背景には、多くの場合「言語化できる理由」が存在していると思います。だからこどものように何事もなかったかのように、時間が経つだけで「暴力」のない関係性に戻ることは難しかったりすると思います。
そうなると「大人」の「暴力」を止めて再び「対話」的な関係を紡ぐためには、「どちらかが相手のプライドや尊厳に配慮した心からの謝罪を行うことが非常に重要なアクションになってくる」と私は思います。
もう一つ重要なことがあります。
それは「暴力」を振るう人のことを自分とは異世界に住む人のような感覚で捉えてしまいやすいということです。
最近「サイコパス」という言葉をよく耳にします。「戦争」をけしかけるような人の考えることは理解できないという文脈の中で聞かれることが多いでしょうか。
「サイコパス」という言葉は、自分には理解できない対象を「理解できないもの」として自分との明確な境界を引くために使われている言葉だと思います。つまり非常に「境界確定的」な考えを反映する言葉です。
「暴力」を目の当たりにした際、人にはこれに近い思考が芽生えます。
人を傷つけるような「犯罪者」のことは理解できない、理解できないものは法律で厳正に処罰し、投獄したり死刑にしたりして、とにかく私たちの目の前から見えないようにしてほしい。
精神疾患だとラベリングされて興奮して周りの人を傷つけているような人は、本人の了解なんか取らずに強制的に「措置入院」として入院させ隔離して、専門家に任せて治療してもらう必要がある。
しかし「暴力」が思考の極地状態であることを踏まえれば、
そして「暴力」を振るうという行動へつながるプロセスがその人だけにしか存在しない構造というわけではなく、
誰の身にも存在していて、かつ分断的な状態をとり続けることが、さらに相手の尊厳・プライドを傷つけて、それが思考の極致状態を維持させることにもつながっているのだとするならば、
そして自分にはたまたま思考の極致状態に至るようなやり取りがたまたま周りで存在していない幸運のおかげで「暴力」を振るわないで済んでいるのだとするならば、
「暴力」のない世界を作るためには、「暴力」を他人事として捉えるのではなく、「自分事として捉える」ことから始め、
「暴力」に至らないようにするために「対話」を学び、さらには「暴力」に遭遇した場合も一時避難はするにしても、それでも「対話」をやめないということ、
それを自分の人生の中に落とし込むことの先にしか、「暴力」のない世界への展望はひらけないのではないかと私は思うのです。
理解できない相手を嘆いて隔離するのではなく、違いを認め尊重した上で理解できる部分に興味を持ち問い続ける姿勢が必要なのではないかと思うのです。
「戦争」とは、「暴力」に対する「一時避難」ではなく、「暴力」に「暴力」で対抗している状態です。
これを対岸の火事と捉えずに、自分の身にも芽生える「暴力」の種にも目を向けて、この火事を愚痴ったり、文句を言ったりするのではなく、
その自分の中にも芽生えている「暴力」の種が育たないように調整行動をとり続けていく必要があるのかもしれません。
そしてこの「暴力」の種を育てないための基本方針が「対話」の中にあるように私は感じています。
考えてみれば「暴力」を起こさないようにするための工夫は非常に人為的ですね。
・絶対的な「正義」などなく、あるのは「違い」だけ
・それだけ異なる相手でも、相手への尊重を忘れない
・違う相手とは離れてもいいけれど、完全に分断・断絶はしない(将来に再会合できる余地を残しておく)
・「暴力」に遭遇した場合、一方的に相手が悪いと隔絶せず、自分の中の変えられる部分に着目し「対話」する道の可能性を完全には閉ざさない。辛い場合はとにかく「一旦避難」をし続ける
・「対話」が暴力的な場になってしまった時に、その場を作る要因の一部となった自分の変えられる部分に注目して、変えられなかったことに心から謝罪する気持ちを備えておく
これは何も考えずには絶対起こらないことです。むしろ維持していくために相当な労力を必要とするとさえ思えます。
「言うは易し、行うは難し」なところもあります。いくら「対話」的であれと言ったって、例えば無差別殺人で身内を殺されたら、私だって「対話」的であるのは難しそうです。どうしても法律での処罰を求めてしまいそうです。このことを考えただけでも「対話」的であることが、容易な人為ではないことは明白です。
「対話」的であれというのは、「誰とでも仲良くなりなさい」というような机上の空論を実現しようという話ではないと私は思っています。合わない人とは距離を置いていい、逃げても構いません。
けれど未来永劫、永遠なる断絶だけは避けること、離れた相手・逃げた相手とも将来、異なる関係でつながる可能性があるかもしれないこと、別の関係が見えるかもしれないこと、
その時に「対話」的であるということに取り組み続けていれば、
逃げていても、離れていても、再び会った時に「ごめんね」と自分から言えるようになるかもしれません。
そうなれるように、ひいては世界から「暴力」がなくなるように、
私は自分事として自分のできることを考えて、世の中と接し続けていきたいと思います。
たがしゅう
プロフィール
Author:たがしゅう
本名:田頭秀悟(たがしら しゅうご)
オンライン診療医です。
漢方好きでもともとは脳神経内科が専門です。
今は何でも診る医者として活動しています。
糖質制限で10か月で30㎏の減量に成功しました。
糖質制限を通じて世界の見え方が変わりました。
今「自分で考える力」が強く求められています。
私にできることを少しずつでも進めていきたいと思います。
※当ブログ内で紹介する症例は事実を元にしたフィクションです。
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コメント
うーん、そうでしょうか。
DVだった父と「永遠なる断絶」をしてから非常に幸せです。先生がおっしゃるように「逃げ」たかったのですが子供だったのでそれも出来ず、自活できるようになるまで黙って我慢するしかなかったです。自活してからは喜んで「永遠に断絶」し、その後ずっと幸せに生きています。
今思うと父は「自己愛性パーソナリティ障害」でした。父の暴力で姉は精神病院行きに、母は40年後も悪夢を見ています。まあ、父が家族に暴力を振るうような性格になってしまったことを「哀れみ」「許し」「対話をする」のが大人なのかもしれませんが、こちらの人生を犠牲にしてまでそのような人間に関わり続けることに意味があるとも思えません。
ウクライナ情勢は心が痛みますね。肉体、精神ともに暴力は最悪です。
Re: タイトルなし
貴重な経験をコメント頂き有難うございます。
逃げられない状況での「暴力」は本当に辛いですね。「永遠に断絶」しようという気持ちも理解できます。その状況であれば無理に修復しようとする必要はないと私も思います。
一方でそれくらい大きな「断絶」の修復を試みようとしているのが修復的司法の発想だとも思っています。まさに「言うは易し、行うは難し」の世界です。
現実的には万が一相手が心からの謝意を表明してきた時にひょっとしたら応じるかもしれないというわずかな可能性を残しつつ、「暴力」から逃げ続けるという感覚が、もしも私が同じ状況に置かれた場合の落とし所かもしれないと感じました。
それであれば許せますよー。ただ、そういう人って99%以上変わらないんですよね。そもそも後に心から反省できるようなキャパのある人はそこまで酷いことをしないような気がします。
ちなみに私の父の場合、退院後に幸せな家庭を持った姉に対して「(自分に連れが欲しいという自分勝手な理由で)離婚して自分と暮らせ」と言い出した時、全く反省していないことを痛感しました。
生死に関して私は輪廻転生が合理的な説明だと思っているのですが、父は幼稚園児の魂なのだと思います(大人になるまでまだ多くの生が必要)。一方、既に気づきを得ている魂は弱点を克服するのも比較的容易です。私の夫はもともとかなり攻撃的な性格でしたが(暴力ではなく)、今は非常に穏やかになりました。私との15年で大きな成長を遂げましたよ。
Re: タイトルなし
> そういう人って99%以上変わらないんですよね。そもそも後に心から反省できるようなキャパのある人はそこまで酷いことをしないような気がします。
確かにその現実はあるように私にも感じられます。
それでも完全に分断しないでいよ、というのは綺麗事なのかもしれませんね。
> 私の夫はもともとかなり攻撃的な性格でしたが(暴力ではなく)、今は非常に穏やかになりました。私との15年で大きな成長を遂げましたよ。
こちらは素晴らしいですね。変わる人、変わらない人は何が違うのか、考えてしまいます。
「(1)悪い点の認識」→「(2)気づき(変わりたい、変わる必要があると思う)」→「(3)努力」でしょうか。(4)環境も大事だと思います。
(1)ですが、そもそもここに到達していない人がほとんどだと思います。対人関係での失敗を一生涯繰り返している人たちですね。悪い点を指摘されると怒ります。(2)ですが、認識はあるが変わりたいとは思っていない人たちです。例えば、(1)は善悪の認識のない5歳児の嘘で、(2)は平気で嘘をつく大学生みたいな違いでしょうか。(3)は家族や友人の支えが大事ですね。
(4)ですが、我が家のケースです。15年で8箇所ぐらいに住みました。面白いもので、国内でも住民の民度がかなり違うのです。夫は正義漢で曲がった事やマナーの悪い人が許せないんですね。だから民度の低い地域では怒ってばかり。民度が高ければ穏やかでいられます(酷かったのは小樽と神戸、ベストは長野市。仙台と函館もいいです)。もう一つは家庭環境。前の奥さんとは日々喧嘩だったそうです。パートナーの違いで性格も変えられるということです。
以上、素人の考察でした。
1と2に関しては、「性格」とか「魂の成長レベル」など人によって言い方はあるものの、私たちには立ち入ることが難しいところです。もう一つは「病気」。アスペルガーなどで人の気持ちが分からないのが脳の損傷であれば「気づき」のチャンスもないということになってしまいます。
Re: タイトルなし
コメント頂き有難うございます。
> 「(1)悪い点の認識」→「(2)気づき(変わりたい、変わる必要があると思う)」→「(3)努力」でしょうか。
> (1)ですが、そもそもここに到達していない人がほとんどだと思います。
(1)(2)は「自分で気づく」というのが原則であるように私は思います。
もしくは敬意を払っている相手に言われて気づくパターンですが、その場合も最終的に認識するのは「自分」です。例えば専門家の肩書きだけに敬意を払っていて、その専門家に言われたことを無条件に受け入れていると他人の異なる価値観にただただ振り回されてしまうだけだと思います。でも実際そうなっている人は多いかもしれませんね。
また肩書きではなくナラティブ(相手の中にあるストーリー)に注目すれば、敬意を払える範囲が広がり、自分の気づける可能性も広がるような気がします。
>(1)は善悪の認識のない5歳児の嘘
認識できないから悪いとまだわかっていないということですね。
ここから社会の中で様々な人生経験を積んで、「悪い」とは何かという価値観ができていくのでしょうね。
そういう意味では「自分で気づく」という作業を繰り返しているプロセスの中にいると考えることもできそうです。
>(2)は平気で嘘をつく大学生
「悪い」とは何かということが自分の中でわかっているけれど、それがもたらす影響に気づいていないということでしょうか。
ただこの場合、私が「悪い」と思っていることと、その大学生が「悪い」と思っていることが異なっている可能性もありますね。
つまり、大学生の中では(1)にさえ至っていないという可能性です。そういう意味では前述の5歳児と同じプロセスを踏んでいるとも言えます。
というかみんな基本的には同じプロセスを踏み続けて生きているような気もしますね。
>(3)は家族や友人の支えが大事ですね。
悪いとわかって、変えなくちゃとも思っている、けれど変えられないことは世の中にはたくさんあるような気がします。
そんな自分では容易に立ち向かえない困難を乗り越えさせる可能性のあるアプローチが協働なのでしょうね。
私の場合は、ウイルス病因論に支配された世の中のバランスを取り戻す(ウイルス病因論を全否定する訳ではありませんが)ためには、自分だけでは無理で「協働」という発想が必要だと思っています。
(4)の具体的なケースの紹介は興味深いです。具体例には多くの学びがあると思っています。シェアして頂き心より感謝申し上げます。
心を変えやすい環境と変えにくい環境があることは確かだと思います。一方で様々な環境に触れることも心を変えていくために有効なアプローチのようにも思います。そのアプローチを地で行われたのがご主人だったのかなと感じました。
私の好きなシルバーバーチさんによれば、「悪いのを知りながら悪いことをすることは、知らずにしてしまうより何倍も罪が重い」らしいです。確かに同意します。糖質だらけのお菓子を売って生計を立てている私は地獄行きでしょうか。。。(笑)
>そのアプローチを地で行われたのがご主人だったのかな
本人にそのつもりはなかったのでしょうけど、隣で見ていると目に見えて良くなっているので興味深いです。明晰な頭脳と強い感情を併せ持つ人なので、激昂した直後に自分で「ああ、コントロールできなかった」などと冷静に自己分析しているが面白いですね。(私自身は感情に引きずられてしまうのでパッと切り替えて自己分析とかできない性格です)
>ウイルス病因論に支配された世の中のバランスを取り戻す
今の状況は日本人にとって非常に快適なのだと思います。他者も自分もマスクすることで仲間意識が視覚化できる安心感。自分は消毒などを真面目にする善き社会人であり、善き母親であると思える自己満足。何よりワクチンは「他者への思いやり」というPRは日本人のツボですよね。
この心地良さからはなかなか脱却できないのではないでしょうか。まあ、私などは先も短いのでいいんですけど、子供達がマスクで脳の発達が阻害されたり学校生活が不自由担っているのは本当に哀れです。
Re: タイトルなし
コメント頂き有難うございます。
>そもそも「嘘」が良い結果になることもある
>逆に悪への道は善意で敷き詰められているとも言いますし
「嘘」の功罪ということで、あるアイドルの子が「嘘」について持論を語っていたこちらの動画のことを思い出しました。
『俺の持論 須藤凜々花 優しい嘘極悪論』
https://www.youtube.com/watch?v=TNT80-jlErg
嘘には「自分のためにつく嘘」「他人のためにつく嘘」「自分にも他人にもつく”優しい嘘”」の3種類があり、
その中でも優しい嘘はその場が取り繕えたとしても結局は誰も得しない最悪の選択肢であり、自分は優しい嘘をつかないことによってたとえ苦しい人生を歩むことになろうとも、嘘をつかずに生きていきたいという持論が述べられています。
そして本音を言うことで相手を傷つけてしまうかもしれない問題に対しては、本音であるかどうかではなく、伝え方で対応していこうとも言っています。
この意見を参考にするならば「嘘」というのは対症療法に近い構造なのかもしれないと思いました。確かに「嘘」が誰かを助けることもあって、墓場まで持ち込むことで結果的に傷つけられないまま人生を終えられるかもしれない。けれどその生き方は一方で自分を押し殺すことでもあり、人生を自由に生きることからは遠ざかってしまうという側面も持っています。だから本音で生きることが「根治療法」に相当するのかもしれません。
ただ「根治療法」たる本音で生きる生き方はある意味でいばらの道です。それでも本音で生きたいと思える人であればいいと思いますが、なかなか全ての人がそうは思えない厳しさがあると思います。だからある意味で「嘘」というのは現状調整の手段の一つなのかもしれないと感じた次第です。
>他者も自分もマスクすることで仲間意識が視覚化できる安心感。自分は消毒などを真面目にする善き社会人であり、善き母親であると思える自己満足。何よりワクチンは「他者への思いやり」というPRは日本人のツボですよね。
確かにそうですね。
マスク・消毒・ワクチンが本当に自分のしたいことで、他者を思いやっていることになるのであればその人の人生は幸せだと思います。
ですが実際には多かれ少なかれ、マスクは息苦しいですし視覚情報も制限されますし、消毒は手が荒れたり皮膚バリアが壊れたりするリスクが高まりますし、ワクチンには未知のものも含めた明らかな副反応(主反応?)があります。これは身体的には明らかに不利益を被っている状態ですが、これをよしとする考えは自分に嘘をついていることになるのではないでしょうか。他者への思いやりを掲げて自分に嘘をつく”優しい嘘”の代表例であるように私には感じられます。
その場しのぎの安心感を守り続けて自分を押し殺し続けるのか、それとも批判や炎上にさらされるかもしれないけれど自分の気持ちに正直に生きるのか、それを決めるのは自分次第、いや自分を取り巻く周りとの関係性次第だと思います。私もできるだけ本音で生きたいと思うと同時に、本音で生きることで生まれる軋轢や障害を伝え方で克服できるように精進したいと思います。
多くの人は「身体に不利益」ということが分かっていないように思います。テレビの洗脳ですね。ということは、自分に嘘をついているわけではないということです。
マスク → 先日、学校の先生が「写真撮影の時にマスクを外すように言ったら明らかに嫌そうな生徒が(1/3ぐらいだったか?)いた」とか、容姿に自信がないからずっとマスクしたい人が結構いるとか。意外とマスク好きでしているのかもしれませんよ?私の店でもスタッフには接客時以外はマスク外していいと言っているのですが装着率100%です。
消毒 → 多分悪影響の方は考えないし知らないのだと思います。学校でもテレビでも「消毒は良いこと」としか言いませんから
ワクチン → これも反対意見は完全に抹殺されてます。私の友人達は「副反応がないことに年を感じて悲しい(息子は若いから熱が出た等)」と口々に言ってました。
ワクチンに関しては、「危険だという情報もあるから読んでみて」と伝えただけで友人から縁を切られるという苦い経験があります。「危険かもしれないという情報を知ることが怖い。何も言わないで!」という感性の持ち主だったようです(多くの情報から判断するのが適切な態度だと思うのですが、怖いから知りたくないという人もいるようです)。別の意味では知的な友人だっただけに残念でした。
Re: タイトルなし
コメント頂き有難うございます。
> 多くの人は「身体に不利益」ということが分かっていないように思います。テレビの洗脳ですね。ということは、自分に嘘をついているわけではないということです。
なるほど。身体的不利益は被っているのだけれど、それがテレビなどの情報の影響で標準的な状態だと再解釈しているから嘘をついていることにならない、むしろ標準に向かって進んでその行動をとっている、というわけですね。
当人がそれを標準と捉えているのであれば他人がどうこう言うことではないという意見もあるかもしれませんが、やはり私には非常に不自然な状況に思えます。ある意味で人間的とも言えるかもしれませんが、人間であるが故に別の生き方も選べるはずです。
わからなくなった時は基本の自然に立ち返り、しかし自然が絶対的な正解だとも思うことなく、「本当にその生き方でいいのか」を問い続けて行動を調整していきたいです。
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